第163話 斜め上の発言
「あぁ、よかった!! 間に合ったよ、リタ!! 何とか帰って来られたんだ!!」
背後から突然かけられた懐かしい声。
その声にリタが振り向くと、そこには彼女の婚約者――フレデリク・ムルシアが立っていた。
さらさらと風になびく長めの髪をしっかりワックスで固め、カッチリとした正装をその身に纏っている。
その姿はまさに精悍な青年貴族そのもので、絶世の美女と名高い母親の血を色濃く受け継ぐその顔は、凛々しく、そして美しかった。
しかしその口は大きな呼吸を繰り返し、両肩も激しく上下している。
その姿を見るに、どうやら彼はここまで走って来たらしい。
白く滑らかな額には大粒の汗が流れていた。
そんな婚約者の姿を見ても、リタの口から咄嗟に言葉は出て来なかった。
何かを言いたそうに口を開けては、何も言えずにそのまま閉じる。
そんなことを数度繰り返した後に、やっと彼女はその名を口にした。
「フレデリク……様……?」
まるで問いかけるかのようなその言葉。
何故かそれは疑問形だった。
目の前の男が婚約者であることは間違いないのに、それでも信じられない顔をする。
そしてそのまま押し黙ってしまった。
どうして彼はここにいるのだろう。
今頃は軍の演習に参加しているはずなのに。
そもそも今日ここに来るだなんて、聞いていない。
だいたいあの日以来、手紙のひとつも寄こさなかったではないか。
ここまで放っておきながら、いったい、まったく、何なのだ。
そんな心の内が顔に出ていたのだろうか。
フレデリクは何処かバツの悪そうな顔をすると、リタに向かって口を開いた。
「あぁすまない、リタ。きっと驚かせたよね。 ――この前はごめん、言い過ぎたよ。あれから屋敷に帰ってずっと考えたんだけど、やっぱり君の言う通りだと思ったんだ」
「フレデリク様……」
「それであの日、僕はそのまま屋敷を出たんだ。一日でも早く演習に参加しようと思ってね。早く軍に合流できれば、その分早く帰れる。そう思ったんだよ」
「……」
「そうしたら、本当にその通りになった。演習自体はまだ終わってないけれど、あとはもう直接僕には関係のない訓練ばかりだったからね。それで途中で引き上げてきたんだ。 ――あぁ、もちろん父上にはちゃんと許可をもらったよ。それで急いで馬車を走らせたんだけれど……結局ぎりぎりになってしまった。それでもなんとか間に合って、本当に良かった」
溜め込んでいた何かを吐き出すように一気に告げると、フレデリクは大きく息を吐いた。
それは安堵のためなのか、息を整えるためなのかはわからなかったが、いずれにせよその仕草はリタを安心させた。
そんなフレデリクにリタが声をかけようとしていると――
「やぁ、リタ嬢!! 先日は失礼した!! やっと貴女を見つけることができた。さぁ、話の続きを――」
低く、太く、無駄に大きな声。
ともすれば恫喝しているようにしか聞こえない、そんな大声をあびせかけられてしまう。
それはジル・アンペールだった。
このハサール王国東部辺境侯アンペール侯爵家の嫡男は、リタの姿を見つけて近づいてきたのだ。
最短距離を真っすぐに進む、まるで猪のようなその様は、まさに「猪突猛進」そのものだった。
そんな彼の周囲からは、複数の悲鳴が聞こえてくる。
進路上にいる者たちを力任せに押しのけたせいで、数人の貴族子息たちが転んでいた。
しかし今やリタの姿しか見えていないこの猪には、そんなことにはまるでお構いなしだった。
やっとの思いでリタの前に辿り着いたジル・アンペール。
しかし肝心のリタは、眼前の婚約者を見つめながらどこか呆けたような顔をしていた。
その様子に思わずジルが言葉を失っていると、その男が話しかけてきた。
「やぁ、ジル殿ではありませんか。お久しぶりですね。お変わりはありませんか? そういえば、あなたも今年成人でしたね」
屈託なく、人懐こい顔で話しかけてくるフレデリク。
そんな彼の顔を見た途端、ジルが声を上げた。
「お、お前は!!」
「ご無沙汰しております。何年ぶりでしょうか?」
「……誰だ?」
ずこーっ!!
そのあまりに斜め上の言葉に、エミリエンヌがズッコケそうになる。
そして美しく着飾った淑女であるにもかかわらず、ガニ股になりながら即座にツッコんだ。
「あ、あ、あんたねぇ!! 言うに事欠いて、私の兄さまを忘れるとは何事よ!! いくら馬鹿だからって、それはないわ!!」
「なんだとぉ!? 馬鹿とはなんだ!! こいつは誰かと訊いただけだろう!!」
「何言ってるよ!! この人は私の兄で、ムルシア侯爵家嫡男のフレデリク・ムルシアに決まってるでしょうがぁ!! この馬鹿ぁー!!」
「――おぉ!!」
「おぉ、じゃないわよ!! 『東のアンペール、西のムルシア』って言われるほどのライバル同士なんだから、あんたが一番忘れちゃダメな相手でしょうが!!」
「なるほど!!」
「ムキーッ!! なに感心してんのよ!! そもそも兄さまとあんたは同じ武家貴族の次期当主同士でしょ!! せめて顔くらい憶えておきなさいよ!!」
「おぉ……」
両ひざに手をついて、ハァハァと肩で息をするエミリエンヌ。
そのアーモンド形の鋭い瞳は未だジルを睨みつけたままだ。
しかしジル本人は、目の前の男の正体に感心しているようにしか見えなかった。
とても付き合いきれないと言わんばかりに大きなため息を吐くと、エミリエンヌは呆れたように口を開いた。
「ジル……様。あなたねぇ……そんなことばかり言ってると、そのうち首が飛びますわよ」
「な、なんだ? それはどういう意味だ? なぜ俺の首が飛ぶ?」
「……いえ、理解できないのであれば、もう結構ですわ。ふぅ…… それはそうと、一体何ですの? いまちょっと取り込み中ですのよ。急ぎの用でないのなら、
「なんだと!? 口の減らない奴だな!! 俺はリタ嬢に話があって来たんだ。お前なんぞに用はない!!」
「ですから、リタは取り込み中だと申しておりますでしょう!! せっかく婚約者と再会できたのですから、邪魔しないでくれませんこと?」
「婚約者……」
「そうでしてよ。
まるで小馬鹿にするような仕草でエミリエンヌが言い募る。
するとジルは、突然何かを思い出したかのように手をポンと叩いた。
「おぉ、そうだ、婚約者だ!! 俺はその婚約者殿にも話があったのだ!! 実はリタ嬢とフレデリク殿に一緒に聞いてほしい話があってだな」
「えっ……?」
大きな声でジルが叫ぶと、その声にフレデリクが驚いた。
彼の言う「婚約者」とは、どう考えても自分のこととしか思えなかったからだ。
どうやらジルは、直前まで自分の顔を忘れていたらしい。
それなのに話があるとはどういうことなのか。
「ジル殿……私になにか話でも……?」
怪訝な顔でフレデリクが問いかける。
その問いにジルが答えようとしていると、二人の間に突然身体をねじ込んでくる者がいた。
それは若い女性だった。
パッと見10代後半のようにも見えるが、そのわりには顔の端々に未だ幼さが残る。
長く美しい金色の髪に整った顔立ち、男好きするような大きな胸に形の良い臀部、そして高い身長。彼女にはその全てが揃っていた。
スタイルも良く、顔も十分に美しいが、なによりその背の高さに目がいってしまう。
ヒールのある靴を履く今の状態で、180センチのジルよりも少し低い程度なのだ。
靴を脱いでも、172センチのフレデリクと同じくらいか、それ以上はありそうだった。
そんな背が高く大人びた女性ではあるが、着ているドレスや髪形を見る限り、どうやら彼女も今日の成人の儀の出席者のようだ。
つまりは彼女も15歳ということだった。
戸惑うジルを無遠慮に押し退けると、その女性は全員の前で貴族子女の挨拶――カーテシーを披露する。
洗練されたその所作は、彼女が厳しい淑女教育を受けているのがわかるものだった。
「ムルシア侯爵家嫡男フレデリク様ならびにご令嬢エミリエンヌ様。そしてレンテリア伯爵家御令嬢リタ様。突然のお目汚しを失礼いたします。 ――
「は、はぁ……」
アーデルハイトの言葉に、その場の全員がポカンとしてしまう。
今の挨拶を聞く限り、彼女は子爵家の令嬢のようだ。
つまり、侯爵家のジルよりも二つも爵位が低い。
にもかかわらず、彼女はジルを力任せに押し退けていた。
厳格な縦社会であるこの貴族界において、そのような態度は不敬にあたるとして処罰の対象になるはずだ。
極端に言えばその場で斬り捨てられても文句は言えないほどなのに、肝心のジルは何処かバツの悪い顔をしたまま押し黙っていた。
その様子から、どうやらこの二人には何かあるとしか思えなかった。
そんなアーデルハイドは、背後のジルに向き直ると小声で説教を始める。
さすがの彼女も、彼の外聞には気を遣っているようだ。
「ジル様。幾ら面識のある方だからとは言え、その態度はあまりにひど過ぎます。領地を発つ前にあれだけ練習して、あれだけ注意をしましたのに、もう忘れてしまったのですか?」
「ア、アーデルハイト……」
「それにこのお二人が取り込み中なのは、見ればおわかりになりますでしょう? さぁ、そのお話とやらは後にして、一先ず退散いたしますわよ。よろしくて?」
「わ、わかったよ……そう怒るなよ、アーデル……」
ジルに向かって
その様は、まるで小さな子供に言い聞かせる母親の様だった。
ジル・アンペールとアーデルハイト・キルヒマンは同い年の15歳だ。
そして彼らは、生まれた時からの幼馴染でもある。
アンペール侯爵領の中に領地を持つキルヒマン子爵は、爵位こそ二つも低いが、昔からアンペール侯爵と個人的に仲が良かった。
その関係でジルとアーデルハイトも、幼い頃から一緒に遊ぶ仲だった。
お世辞にも頭が良いとは言えないジルは、同い年ながらしっかりしたアーデルハイトをまるで姉のように慕っており、そんなジルに対しアーデルハイトは弟のように接した。
そんな訳で昔からアーデルハイトに頭の上がらないジルなのだが、未だにそれは健在だったのだ。
その証拠に、あれだけ大声でがなり立てていたのに、アーデルハイトに睨まれると急に大人しくなってしまった。
そんなジルに、再びアーデルハイトが口を開く。
「さぁ、行きますわよ、ジル様。 ――お騒がせいたしまして、大変失礼いたしました。また後ほど、パーティーの席でお会いいたしましょう。それでは、ごきげんよう」
「は、はぁ…… ご、ごきげんよう……」
「は、はい。また後ほど……」
「……」
ぎゅうぎゅうとジルの背を押しながら、引きつった笑顔のまま去って行くアーデルハイト。
その背中を見つめながら、リタとフレデリクと、そしてエミリエンヌは、何処か気の抜けた顔をしていたのだった。
それから10分ほどあと、全員がパーティー会場に移動した。
そして再び国王の挨拶の後会食が始まったのだが、相変わらずリタはヘソを曲げていた。
その美しくも愛らしい眉間にシワを寄せて、婚約者を睨みつける。
「もう……どんなに忙しくても、手紙の一枚くらいお出しになれたでしょう?」
「ごめんよ。なにせ演習自体が極秘に行われていたからね。手紙も出せなかったんだ」
「……私はもう、貴方様はいらっしゃらないものと思っていたのですよ。それなのに――」
「そ、そんなに怒らないでくれよ、リタ。機嫌を直してくれよ」
まさにプンプンといった
そんな彼女に謝りながら、「あぁ、膨れるリタも可愛いなぁ」などと呑気にフレデリクは思っていた。
フレデリクがそう思うように、今のリタは何処にでもいる15歳の少女そのものだった。
しかしその正体は224歳の魔女であり、老成した大人の精神もそのまま残っている。
もちろん前世の記憶は残っているし、年寄り的なものの考え方もそのままだ。
この身体に転生して、早12年。
幼い肉体に影響を受け続けた224歳の精神は、今ではすっかり年齢相応になっていた。
それは転生直後から彼女が危惧していたことだったのだが、結局はそれに抗う方法を見つけられないまま歳を重ねてしまった。
そしてそれは現実のものとなっていたのだ。
そんな自分を冷静に観察する、別の自分がいるのもまた事実だった。
かたや15歳の少女、かたや224歳の老人。
二人の人格が同居する複雑な精神を持つ少女に成長してしまったリタは、些か扱いの難しい人間になっていた。
もちろん普段は淑女然とした態度を崩さないし、その複雑な人格を人に見せることもない。
しかし幼い時からの婚約者であるフレデリクに至っては、妙に素直になってしまうリタだった。
他の者たちが周りにいる手前、いつまでもヘソを曲げてもいられなかったリタは、しばらくすると機嫌を直した。
そしてフレデリクと一緒に会場を練り歩きながら、様々な貴族家の者と面談をしていると、再び背後から声をかけてくる者がいた。
「フレデリク殿、リタ嬢。少し話をよろしいか?」
思った通り、それはジル・アンペールだった。
二人が周りを見渡しても、そこにアーデルハイトの姿は見当たらない。
恐らくジルは彼女を巻いてきたのだろう。その隙に近づいてきたのだ。
そんなジルに二人が返事をする。
「これはジル殿。如何されましたか?」
「ジル様。先ほどは失礼いたしました。 ――どうされたのですか? 随分と難しいお顔をされていらっしゃいますが」
軽く曲げたフレデリクの左ひじに、そっと手を添えるリタ。
如何にも婚約者同士といった
その姿を見たジルは、眉間にシワを作りながら、突然大きな声を出した。
「フレデリク!! 貴様に決闘を申し込む!! それに勝って、リタ嬢を俺のものにさせてもらう!!」
「はぁ!?」
「なぬぅ!?」
あまりと言えばあまりに斜め上のその発言に、リタもフレデリクも、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます