第158話 とあるメイドの提案
よろよろと力なく歩くリタを自室に連れて行った後、メイドのフィリーネは事の顛末を報告した。
客間の隅で空気になっている間、目の前で繰り広げられた男女の痴話喧嘩。その全てを当主セレスティノに伝えたのだ。
セレスティノは笑っていた。
彼にはリタの言い分も、フレデリクの想いも、そのどちらもが理解できる。
そしてそのどちらが正しいかと問われれば、些か迷うところだ。
冷静な大人としてはリタを推すべきなのだろうが、惚れた腫れたが一大事である10代の若者であれば、フレデリクの考えもアリだ。
しかし61歳のセレスティノには、18歳のフレデリクの考えは理解はできても共感はできない。
個人的にはリタの味方をしたいところだが、いずれにせよ若い恋人同士の痴話喧嘩でしかなく、そのまま放置しておいても問題ないだろうと判断した。
15歳、18歳と言えば、もう立派な大人だ。
そんな彼らがちょっと喧嘩をしたからと言って、変に親が介入すべきではないだろう。
これがムルシア家と交わした婚約に影響があるなら話は別だが、聞いた限りではそこまでのものとは思えなかった。
二人の間に問題が発生したのであれば、二人で話し合って解決すべきだ。
少なくともセレスティノはそう考えたようだ。
しかし彼以外の者たちの考えは、少し異なる。
孫可愛さのあまり冷静さを失った祖母イサベルは、リタの部屋に突撃しようとしていたし、父親のフェルディナンドはムルシア家の首都屋敷に押しかけようとしていたし、母親のエメラルダはリタの部屋の前で右往左往していた。
そんな中、取り敢えずリタのドレスを脱がすためにフィリーネ一人が部屋の中へと入っていく。
初めは内側から鍵が掛けられているかと思ったが、予想に反してそうではなかった。
部屋の中は薄暗かった。
日暮れまではまだ間があるのに、部屋のカーテンは全て閉められている。そして部屋の中心の豪奢なベッドの上にポツリと佇む小さな姿があった。
いつも明るく朗らかなリタは、屋敷の中でも存在感抜群だ。
だからその小柄な体形をあまり意識したことはなかったが、こうして背中を丸めて
しかしそんな思いなど露にも見せず、フィリーネが声をかけた。
「リタ様。せっかくのドレスがシワになってしまいます。お着替えをいたしますので、お立ちいただけますか?」
先ほどの一幕にはまるで触れない、専属メイドのフィリーネ。
するとその声に反応したリタは、ベッドから立ち上がった。
スルスルと衣擦れの音だけが響く薄暗い室内。
ずっとリタは黙ったままだし、フィリーネも必要なこと以外は喋らない。
そんな時間が5分ほど続いた時、ぽつりとリタが呟いた。
「ねぇ、フィリーネ……私って堅苦しいのかなぁ……」
リタの口調は、先ほどまでとはまるで違う。
普段の彼女は意識して貴族令嬢然とした振る舞い、言葉遣いを心がけているが、素の口調を見せるのは、本当に気を許す相手――両親とフィリーネ、あとは幼少時からの知り合い数人だけだ。
時々フィリーネは思い出す。
自分がこの屋敷で働き始めた10年前、幼いリタはまるで年寄りのような話し方をしていたものだ。
自分のことを「わし」と呼び、相手を「おまぁ」と呼ぶ。そして語尾には「のじゃ」が付いていた。
口調も今よりずっと乱暴で、まるで喧嘩をしているような喋り方だった。
しかしその口調も徐々に変わっていった。
ただ聞いている分には面白かったが、やはりその喋り方は貴族令嬢としては失格だろう。
それはイサベルにとって一大事だった。
そのためリタは、祖母の雇ったマナー講師によって徹底的に矯正されたのだ。
その努力の甲斐もあり、今ではすっかり伯爵家令嬢として何処へ出しても恥ずかしくない口調と所作とマナーを身に着けていたが、本当に親しい者の前では、気を緩めると以前の口調が出てしまう。
つまりリタがその口調になっているということは、今の彼女は相手に気を許している証拠だった。
そしてその人間の中に自分が含まれていることに、何気にフィリーネは嬉しくなってしまうのだった。
脱がしたドレスのシワを伸ばしながら、フィリーネはリタの質問に答える。
「そうですねぇ……先ほどのフレデリク様のお言葉ですが――相当堪えたでしょう?」
「うむぅ……正直かなり堪えた。彼ってあまり自己主張しないからなぁ。だからずっと我慢していたんだなぁって思い知らされた……もっと早くに言ってくれればよかったのに」
『いや、だからさっき全部ぶちまけたでしょ』とは、この状況で口が裂けても言えないフィリーネは、どこまで言うべきかと少々思い悩む。
そしてひとつひとつ確かめるように話を続けた。
「そうですねぇ……まぁ、私としてはフレデリク様のお気持ちもよくわかります。好きな女性のために自分を犠牲にするというのも、恋愛の醍醐味ですからね」
などと偉そうに言っているが、本人は完全に婚期を逃したアラサー女子だという事実に少々皮肉が効いていた。
しかしリタは、そんなことなどどうでもよかった。
今の彼女は一つの言葉に釘付けになっていたからだ。
「好きな女性……」
そう呟くと、何気にリタは頬を染めてしまう。
それと同時に、遠い昔、当時養い子だった勇者ケビンに己が語った言葉を思い出していた。
『人間は歳を取ると、段々と
この身体に転生してからというもの、アニエスとしての精神年齢はリタの肉体年齢に影響を受け続けていた。
さすがに転生前が212歳という高齢だったので容易に幼児返りはしなかったが、それでも普段の言動は年相応になっていたし、いまも自分が15歳の少女として普通に生活できていることに驚く。
そしてとっくに涸れ果てていたはずの異性への恋愛感情、そして性欲すらも甦っていた。
しかし中途半端に若返った精神年齢は、リタの周囲に様々な影響を及ぼし始める。
その代表的なのが先ほどのような説教だ。
同年代の友人たちがリタにはとても未熟に見えてしまい、よせばいいのに老婆心から苦言を呈してしまうのだ。
そんな肉体と精神がアンバランスなリタは、今度は逆に独身アラサーメイドから苦言を呈される羽目になる。
もっともそれは苦言と呼べるようなものですらなかったのだが。
「昔から思っていたのですが、妙にリタ様は大人びたところがおありですよね? 失礼ながら」
「そうかなぁ……」
「はい、間違いありませんよ。だって貴女様とお話をしていると、時々田舎の祖母を思い出しますもの。失礼ながら」
「あぁ……同じことをジョゼットにも言われたことがある。私ってそんなに年寄り臭い?」
「うーん、年寄り臭いと言いますか、何と言いますか……そうですねぇ……妙に達観しているって言うんですか? そんな感じがします、失礼ながら。でもまぁ、先程のフレデリク様のお考えも若いと言えばその通りなのかもしれませんねぇ、失礼ながら」
『失礼ながら』と付けさえすれば、何を言っても許されるわけでもないのだろうが、それでもフィリーネは遠慮なくズバズバと攻め込む。
そしてリタがそれを神妙な面持ちで聞いている様子に、彼女の信頼が見て取れた。
「でも、いいんじゃないですか? 若さゆえの過ちなんて、本当に若い時にかできないのですから。大人になってからやらかすよりも、よっぽどマシでしょう?」
「まぁ……そうね」
「それはそうとリタ様。私聞きましたよ」
「何を?」
「あの、いつも飄々としているフレデリク様ですけど、リタ様のことが大好きなんですってね!! 意外と情熱的なんですねぇ。人は見かけによらないと言うか、何と言うか――リタ様も仰って差し上げればよかったのに。『
「な、な、な、なにを言う!! や、や、やめんか、おまぁ!! そ、そんな恥ずかしいこと、言えるわけないじゃろ!! そもそもわちは
からかうようなフィリーネの言葉に、顔を真っ赤に染めるリタ。
そして両手をブンブンと振り回しながら慌てまくる。
「ふふふっ、図星なんでしょう? 慌てすぎて昔の口調に戻ってますよ」
「や、やめぇや!! フレデリクは親同士が勝手に決めた相手。わしはべつになんとも思っておらんしな!!」
「ひとつご提案があるのですが、リタ様」
「な、なんじゃ? は、話だけなら聞いてあげんこともないがの!!」
フィリーネの言葉が図星だったのだろうか。
慌てまくるリタの口調は、すっかり昔に戻っていた。
薄い肌着一枚でブンブンと腕を振り回すと、その勢いで体格の割に大きな胸が揺れまくる。
そんな少々セクシーな主人に向かって楽しそうな笑みを浮かべると、フィリーネはその提案とやらを口にした。
「フレデリク様と仲直りした後でいいのですが、まずはその口調を改めてみたら
「いや、フランクって……いくら優しくて話しやすいお方とは言え、一応侯爵家の嫡男なんじゃし、それはちょっとのぉ……」
「いいじゃないですか。あのお方ならきっと、リタ様との距離が近くなったと喜んでいただけると思いますよ。もっとも、二人きりの時だけしかできませんけれどね」
「あ、当たり前じゃろ。何言うとる、おまぁ――」
「リタ様、口調、口調」
「あっ……ごほんっ、わ、わかったわ。もしも仲直り出来たなら、少し考えてみるわね」
「はい。楽しみにしてますね」
そんなこんなで婚約者フレデリク・ムルシアと痴話喧嘩(?)をしてしまったリタだが、フィリーネの言葉を聞き入れて、なるべく早く仲直りをしようと思っていた。
しかし結局その機会が訪れることはなかった。
何故ならその翌日に、フレデリクは黙って軍の演習に出て行ってしまったからだ。
言葉一つかけずに行ってしまったフレデリク。それを思うと、未だに彼が怒っているとしか思えなかった。
一生に一度の成人の儀が執り行われるまであと二週間。
できればそれまでに彼と仲直りをしたかったし、フィリーネの言う通り、その関係をもう少し近づけてみたかった。
それを思うと、何やら後悔ばかりが募るリタだった。
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