幕間10 アニーと熊 其の二

「ふげぇー、ほぎゃー、ふぎゃー」


 何処からか、細くて甲高い泣き声が聞こえてくる。

 心地よい微睡まどろみの中から意識を引き戻されたクルスは、慌てたように横を見る。

 するとそこには、悲痛な顔で泣き叫ぶ最愛の娘がいた。

 

 これでもかというほど口を開けて、ぽろぽろと涙を流す幼気いたいけな姿。

 そんな庇護欲を掻き立てる娘の姿に、クルスは慌ててしまう。


「な、なんだ? どうした? なぜ突然泣き出した? お、おむつか?」


 熊のような外見から想像できる通り、普段のクルスはどっしりと落ち着いている。

 その落ち着きようは、ともすれば不遜な態度にも見えるほどだが、今この時の彼はひたすらオロオロするばかりだ。

 

 基本的に妻のパウラが娘――アニーの世話をしているので、これまでクルスは泣き叫ぶ娘を一人であやしたことがなかった。

 だから突然泣き出した娘を前に、思わずテンパってしまったのだ。



 冒険者ギルドに所属するクルスは、仕事で魔獣を駆除することもある。

 すでにノウハウの確立するそれらの仕事は事も無げに遂行する彼だが、こと娘の世話については知らないことだらけだ。

 それでもここで途方に暮れても仕方がないので、とりあえずアニーのおむつを取り替えてみることにした。


「あぁ…こりゃあ、気持ち悪かったよなぁ。ごめんな、アニー」


 ギャンギャンと泣き叫ぶ娘のお尻を、太く不器用な手で丁寧に拭き上げる。

 それから綺麗なおむつに取り替えてみたが、それでもアニーは泣き止まなかった。

 赤ん坊にしては少々細くハスキーな声で泣き叫びながら、何かを訴えるのをやめようとしない。


 そんな娘の姿にクルスが途方に暮れていると、不意に大事なことを思い出す。


「なぁアニー。もしかしてお前、腹減ってるのか?」


「ふぎゃー、ほげぇー」


「そう言えば、さっき母ちゃんにおっぱい貰ってから――もう四時間か。あぁそうか、お前腹減ってるんだな。 ――それなら話は早い。よし、アニー。おっぱい貰いに行くぞ!!」


「ほげぇー、おぎゃー、ふげぇー」


 相変わらずの泣き声を返事と受け取ると、クルスは胸にアニーを抱いていそいそと家から出て行った。




「おぉ、どうしたクルス? 赤ん坊なんか抱いて。 ――パウラはどうした?」


「あぁ、ちょっと買い物に出ていてな。帰って来るまで俺が娘の世話をしてるんだ。これから知り合いの家に乳を貰いにいこうと思ってよ」

 

「ほげぇー、ふぎゃー!!」


「へぇ、そうか。まぁ、頑張れよ。それにしてもアレだな。お前ほど赤ん坊の似合わない男もいねぇな。まるで熊が赤ん坊を食べようとしているようにか見えんぞ。はははっ」


「うるせぇ、このやろう!! ほら、よく見てみろ。この眉間のシワといい、この鼻筋といい、俺そっくりだろ? まるで天使のような可愛らしい顔だが、紛れもねぇ俺との血の繋がりが――」


「ほんげぇー、ふんぎゃー!!」


 クルスが娘の愛らしさを語り始めると、とても長い。

 ぼやき癖以外は普段は無口な彼だが、アニーの話題を振られると俄然饒舌になる。

 そしてその話を聞かされる相手は、大抵うんざりしてしまうのだ。


 それはこの男も同じだった。

 以前その話で30分も付き合わされたことを思い出すと、慌てて男はクルスの話を遮った。


「わかった、わかった!! 余計なこと言ってすまなかった!! ほら、腹減ったって娘が泣いてるぞ。早く行けよ」


「おぎゃー、ほぎゃー、ふぎゃー!!」


「あ? ……あぁ、そうだな。それじゃあもう行くよ」



 思い出したようにクルスは、再び早足で歩き始める。

 知り合いの家まであと5分。可能な限り早く着かなければ、お腹を空かせたアニーが可哀想だ。


 ギャンギャンと泣きわめく娘を抱えてのしのしとクルスが大股で歩いていると、今度は背後から声を掛けられた。


「おい、お前、ちょっと止まれ!! その赤ん坊はお前の子か? まさかさらって来たのではあるまいな!?」


 まるで誰何すいかするようなその声は、とても友好的には聞こえない。

 その声にクルスが振り向くと、そこには二人の警邏けいらが立っていた。

 お仕着せの制服に腰に剣をぶら下げた大柄な男たちが、クルスの左右を挟んで怪しむような視線を向ける。

 

 どうやら彼らは、クルスのことを怪しんでいるようだ。

 もっともそれは無理もない話ではある。

 身長190センチ、体重130キロの熊のような巨漢の男が、泣き叫ぶ赤ん坊を抱いて不自然なほどの早足で歩いているのだ。


 これほど怪しい状況もないだろう。

 その様子は、まるで赤ん坊を攫って逃げているようにしか見えなかった。

 そんなクルスに警邏の二人は尚も質問を投げかける。




「おい、男。その赤ん坊はどうした? 何処に向かっている?」


「おいおい、勘弁してくれよ。俺はこれから娘に乳を貰いに行かなきゃならねぇんだ。すまねぇが、急いでいるんだよ。このとおり娘が腹を空かせているからな」


「ほぎゃー、ふぎゃー!!」


 警邏に顔が見えるようにアニーを持ち上げると、クルスはその熊のような厳つい顔を破顔させる。

 そして得意満面になって話し続けた。


「そうだよ、この子は俺の娘なんだ。 ――どうだ、可愛いだろう? 世界で一番だと思わねぇか? 俺は思うぜ。なんなら記念に抱っこさせてやってもいいぜ、特別にな」


「ふぎゃー、ほぎゃー」


 得意満面のクルスは、ぎゃん泣きするアニーを警邏に抱かせようとする。

 すると彼らは、うっかり面倒くさいものに触れてしまったかのような、嫌そうな顔をした。


「お、おぅ……せっかくだが、遠慮させてもらうよ……」


「お、おい、赤ん坊が嫌がってるだろ、可哀想じゃないか……」


「ほげぇー!! ふぎゃー!!」


 ここに来てクルスは、その空気を読めない性格を炸裂させる。

 満面の笑みを湛えたその顔は、「アニーの愛らしさを布教する」謎の新興宗教の教祖のように見えた。



 アニーを押し付けられそうになった警邏たちは、じりじりと後退っていく。

 しかしその様子には一向にかまうことなく、クルスはアニーの顔を見せびらかした。


「どうだい? この眉間のシワといい、この鼻の形といい、俺そっくりだと思わねぇか? 目と口は母ちゃんそっくりだけど、ここだけは俺とそっくりで――」


「わ、わかった、もういい。行け、行っていい!! というか、早く行け!! 赤ん坊が可哀想だろ!!」


「おぎゃー、ほぎゃー!!」


「な、なんだよ。何奴どいつ此奴こいつもよぉ!! ちったぁ人の話を聞く気は――」


「もういいから、さっさと何処にでも行ってしまえ!!」


 警邏による職務質問から無事に解放されたのに、何処かクルスは面白くなさそうだった。

 そして何やらぶつぶつと呟きながら、足早にその場を立ち去った。





「あらぁ、アニーちゃん!! ちょっと見ないうちに、随分大きくなったねぇ!!」


 楽しそうな大きな声をあげながら、若い女性が近寄って来る。

 そして胸に抱いていた自身の赤ん坊をベッドに置くと、代わりにアニーを受け取った。


 彼女は近所――と言ってもクルスの家から歩いて10分はかかる距離だが――に住むクルス夫妻の友人、ルチアだ。年齢は28歳。

 32歳の夫と農家を営む彼女は、自身の子を5人も持つベテランの母親だ。

 現に今も生後六ヶ月の三男を胸に抱いていたところだ。


 背はあまり高くないが、太くガッチリとした体格のルチアは、その豪快な性格も含めてまさに絵に描いたような農家の嫁だ。

 そのルチアがギャン泣きするアニーを愛おしそうに抱きしめた。


「おぉよしよし、可哀想に。そんなに泣いてどうしたの?」


「すまねぇな、ルチアさん。乳を貰いに来たんだよ」


「あぁ。パウラから聞いてるよ。 ――あらあら可哀想に、お腹空いてるのねぇ……どれどれ……はいどうぞ」


 目の前にクルスがいるというのに、かまわずルチアはシャツを捲り上げる。

 そして推定Eカップはあるであろう巨乳をまさにペロンと晒すと、その先端にアニーを吸い付かせた。


 そのあまりの豪快な姿に、思わずクルスは目を点にしてしまう。

 それと同時にパウラのAカップマイナスの胸を思い出しながら、必死に乳を吸うアニーを見つめていた。



「……ちょっとクルスさん。人の嫁の乳をガン見するなよ。少しは遠慮してくれ」


 乳を飲むアニーの姿を見つめていると、突如背後から声をかけられる。

 クルスが振り向くと、そこにはこの家の主でルキアの夫でもあるイゴルが立っていた。

 どうやら彼は農作業帰りらしく、手には土で汚れた鍬を持っている。

 声だけを聞くと機嫌が悪そうに聞こえるが、日に焼けて真っ黒な顔は屈託なく笑っていた。


 そんなイゴルにクルスは素直に謝った。

 普段は不遜な態度を崩さないクルスだが、知人の嫁の乳をガン見したのはさすがに悪いと思ったのだろう。


「す、すまねぇ、イゴル。目の前でいきなりペローンなんてされたから、思わず見入っちまって」


「いや、べつにいいけどさ。減るもんじゃないしな」

 

「面目ねぇ」


「おう。それはそうと、うちはこれから昼飯なんだ。あんたも一緒に食ってきな。大したものは出せないが、野菜だけはふんだんにあるからな」


 その後満腹になったアニーは、ルキアの胸の中で寝息を立て始めた。

 ポカンと大きく口を開けて白目を剥いて眠る姿は何処か滑稽で、見ていると笑いそうになる。

 そんな眠るアニーを、愛おしそうにいつまでも見つめ続けるクルスだった。



 

「あっ!! 赤ちゃんがいるぞ!! レオよりもずっと小さいな!!」


「本当だ!! 母ちゃんが知らない赤ちゃんを抱っこしてる!! 誰だ誰だ!?」


 母親が眠るアニーを抱いているのに気が付くと、イゴル家の子供たちが近寄って来る。

 互いに蹴飛ばし合いながら我先にと走ってくる姿は何処か逞しく見えて、その様子を見る限り、将来彼らは立派な農夫になれそうだった。


 一番上の9才の女の子を筆頭に、全部で五人も子供がいるイゴル家。

 そのせいで、彼の家はとても賑やかだ。

 確かに賑やかを通り越してやかましい時もあるのだが、そこには誰もが羨むような家族の幸せがあった。



 代わるがわるアニーの顔を覗きに来る子供達を、ルキアが一喝する。

 アニーに乳を飲ませている時とは違い、すっかりその顔は逞しい農家の嫁に戻っていた。


「ちょっとあんたたち、静かにしな!! アニーちゃんが起きちまうだろ!!」

 

「やべぇ、母ちゃんが怒ってらぁ。みんな逃げるぞ!!」


「おー!!」


 ずだだだだだっ!!


 まるで嵐が去って行くように、大きな足音も遠ざかって行ったのだった。





「すっかり遅くなっちゃった。ごめんさいねぇ。アニーにおっぱい貰ったうえに、旦那までご馳走になっちゃって……」


「いいってことさ。困った時はお互い様だろう? むしろこんなに土産まで貰っちまって、恐縮しちまうよ」


 夕方近くになって、やっとパウラが帰ってきた。

 自宅に寄った後にイゴル家に顔を出した彼女は、お礼と土産を手渡しながらルキアの顔を覗き見る。

 その屈託のない笑顔溢れる顔からは、その言葉が彼女の本心であることがわかる。


 そんな裏表のない気風の良い性格のルキアは、パウラにとって良き友人だった。

 そして先輩ママ友として普段から頼りにもしていた。


「まぁ、いいや。とにかく上がんなよ。汚くて煩いところだけど、我慢しとくれ」



 促されるままパウラが家の中に入っていくと、そこには最愛の娘――アニーと、それをかまう子供たちがいた。

 アニーはちょっかいを出してくる子供達に笑いかけながら、機嫌よく両手を振り回している。


「あー、うー、だぁー」


「うわぁ、頬っぺた柔らかぁーい!! えい、ぷにぷにっ」


「うー、だー、まー」


 未だ生後三ヶ月のアニーには、一緒に遊んでいる感覚はないのだろう。

 それでも彼らにちょっかいを出されると、何処か楽しそうに表情をほころばせる。

 その姿は自宅では決して見られないもので、そんな初めて見る娘の姿に意図せずパウラの顔からも笑みがこぼれた。



 そんな娘を横目に、パウラは家の中に視線を走らせる。

 アニーの姿はすぐに確認できたのだが、肝心の夫の姿が見つからない。

 そんなパウラがキョロキョロしていると、ルキアが家の奥を指差した。


「あぁ、男どもかい? 奴らならあそこにいるよ」


 ルキアの指差す先――そこには豪快にいびきをかいて眠る二人の男がいた。

 周りに転がる無数の酒瓶を見る限り、どうやら彼らは真昼間から酒盛りをしていたらしい。

 そしてべろんべろんに酔っぱらった挙句に、床に転がって眠っていたのだった。


 その姿に農作業は大丈夫なのかと心配になってしまうパウラだったが、それよりも一緒になって酔っぱらう夫に腹が立つ。

 娘の世話を全てルキアに任せて、自分は酒をかっ食らう。

 そのあまりの危機感の無さに、パウラの目が三角になったのだった。





「痛ってぇ……なぁ、悪かったって謝ってるだろ? もう許してくれよぉ」


「あんたねぇ!! 人様の家に貰い乳をしに行った挙句、真昼間から酔って寝てるとか……ふぅ……もういいわ、なんか疲れた……」


 厳つい熊のような夫が必死に謝る様を見つめながら、パウラは大きなため息を吐く。

 その見た目に反して、優しく義理堅い夫ではあるが、やることが一々破天荒すぎる。よもやわざとやっているのではないかと思ってしまうほど、彼の行動は斜め上のことが多いのだ。


 しかしそんな男と10年以上も付き合った挙句に結婚までしたのは自分なのだ。

 それを思うと、一概にクルスだけを責められないパウラだった。



 眠るアニーを抱きながら夕暮れ迫る道を歩いていると、酔いが醒めたクルスがぽつりとこぼす。

 その大柄な身体からは想像できないほどに、その声は小さかった。


「なぁ、パウラ。イゴルの家で思ったんだけどよ」


「なに?」


「兄弟っていいもんだな。 ――両親の記憶すらない俺にはよくわからねぇが、やっぱり兄弟ってえのは違うもんだと思ったよ」


「……どうしたの、急に? 随分感傷的じゃない。そんなのあんたに似合わないわよ」


「あぁ、ちょっとな。それでな、パウラ。何が言いたいのかってぇと――」


 そこまで言うと、クルスは言葉を切ってしまう。

 いつもは不敵に笑っている彼が、何故か地面を見つめて押し黙っていた。

 そんな夫の脇腹を突くと、パウラは大げさに笑いかけた。


「なによ? 言いたいことがあるのならハッキリ言いなさいよ。べつに怒ったりしないから」


「あぁ。でもよ、今だってお前は子育てに疲れているってぇのによ、こんなこと……」


「なによ? 気になるわね。いいから言ってみなさいよ」


「……わかった。それじゃあ――」


 そこまで言うと、まるで覚悟を決めたように息を吸う。

 そしてクルスはポツリと言った。



「アニーによ、弟か妹を作ってあげねぇか? 俺もお前も子供の時から一人で生きて来ただろう? この世知辛い世の中、それってやっぱり大変だと思うんだよ」


「……」


「アニーには俺たちと同じ思いをさせたくねぇんだ。こいつよりも俺たちの方が先に死ぬ。せめてその時に兄弟でもいれば、少しはマシなんじゃねぇかと思うんだよ。それが弟でも妹でもどっちでもかまわねぇ。とにかくアニーを独りぼっちにさせたくねぇんだ」


「クルス……」


「アニーの世話をするお前は本当に大変そうだ。そんなお前を見ていると、こんなことは言えた義理じゃねぇのはわかってる。でもな、俺はそう思うんだ」


 言いたいことを全て言い切ったのか、それ以上クルスは何も言わなくなった。

 そして相変わらず地面を見つめながら、黙々と歩き続けている。


 するとそんな夫の脇腹を再び突くと、前を向いたままパウラが口を開いた。



「そうね。確かにあんたの言うこともわかるわ。あんたと同じで、あたしも両親の記憶はないしね。子供の時は本当に辛かった。食うや食わずの生活に疲れ果てて、何度も死んでしまおうかと思ったもの」


「パウラ、お前……」


 いつも強気で、元気で、前向きなパウラの口から「死ぬ」などという言葉が出てくると思わなかったクルスは、思わず彼女の顔を見つめてしまう。

 しかしパウラは前を向いたままなので、その横顔しか見ることができなかった。


 その横顔は、夕日に輝いてとても美しかった。


「いいわよ。アニーに兄弟を作ってあげましょ。その代わり、今以上にあんたには頑張ってもらわないといけないんだから。 ――少なくとも、人様の家で真昼間から酔っぱらって寝ているなんて許されないわよ」


「……面目ねぇ」



 その言葉を聞いたクルスが再び妻に視線を向けると、直前まで眠ってたはずのアニーと目があった。

 どうやら彼女は起きたばかりらしく、大きな口で欠伸あくびをすると、ジッとクルスの顔を見つめてきた。


 そして顔に満面の笑みを浮かべたのだった。



 


 その数日後のこと。


「母乳は意外と甘くて美味しい。そして少しベタベタしている」


 そんな事実に気が付いたクルスだった。

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