第133話 救助隊の出動

「あぁ……ここは何処なのかしら……私はいったいどちらへ進めばいいの?」


 鬱蒼と木々が茂る森の中に、若い女の声が響く。

 それはまるで誰かに問いかけているような声だったが、それに答える者は誰もいない。

 しかしそれは女もわかっているらしく、まるで独り言のようにぽつりぽつりと言葉を漏らす。

 そして最後に、まるで疲れ果てたように背後の木にその身体を任せてしまった。



 それは女魔術師のブリジットだった。

 彼女は昨日、砦救出の任務に失敗した。

 そして仲間の兵士三人とともに、任務失敗の報告と応援の要請のために前線に控える軍本隊まで逃げ戻ろうとしていたのだ。


 その途中の道程では、彼女は背後から追い縋る敵兵を追い払う殿しんがりの任務に就いていた。

 走る味方の最後尾から、何度も後ろを振り返りながら敵に向かって魔法を放ったのだ。


 しかし足を止めれば止めるほど味方には置いていかれ、気付いた時には深い森の中でブリジット一人になっていた。

 それでも必死に戦った彼女は何とか敵を全員倒すことができたのだが、最後に剣で斬り付けられて大怪我を負った。


 その後に治癒魔法で傷口は塞いだが、怪我をしてから時間が経っていたためにそれなりに出血も多かった。

 そのせいで意識が朦朧としてしまう。


 そんなぼんやりとする意識の中、なんとか道を進もうとしたが、足がもつれてそれ以上歩くことができなくなってしまった。


 遂に自分の身体さえ支えられなくなったブリジットは、ずるずると地面に座り込んでしまう。

 そして光のない瞳のまま大きくため息を吐いた。



 一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 自分はこんなところで死ぬために生まれてきたのだろうか。

 それともこれは、人を焼き殺した自分への神様の罰なのだろうか。


 だけど、決してこれは自らが望んだことではないのだ。

 ここには行けと言われたから来ただけだ。

 そして、殺さなければ殺されるような切羽詰まった状況だった。

 それをどうしてこんな仕打ちをされるのだろう……。


 こんなことなら去年の年末は実家に帰ればよかった。

 弟に子供が生まれたと聞いていたのに、まだその子にも会いに行っていない。

 妹からは、今度幼馴染と結婚すると手紙が来ていた。

 それにもまだ返事を書いていなかった――


 あぁ……どうしてこんな時に後悔ばかりしているのだろう。

 これまでもこの仕事は自分の天職だと思っていたのに。

 いや、違う。

 決して自分は人を殺すために魔法の研究をしていたのではない。

 それなのにどうして……


 あぁ、こんなことなら、最後にあの人に――




 ――――

 



「おぉ…… こりは中々の一品じゃのぉ。このアルラウネの樹液のようにまったりとしたクリームと、カーバンクルの頬肉のように柔らかいスポンジ、そしてテュポーンの足先のようなこの意匠はまさに――」


「あ、あの……リタ様? それは美味しいと褒めているんですよね……?」


 その日リタは、朝からケーキを食べていた。

 それは最近オープンしたばかりの有名な菓子店のもので、前日に出掛けていた祖母イサベルの土産物だ。


 今日も朝からもりもりと食事を平らげたリタだったが、どうやら甘い物は別腹らしい。

 朝食から未だ二時間しか経っていないのに、まるで何も食べていないかのように満足そうな笑みを浮かべていた。


 孫に甘い祖父母のおかげで甘いお菓子を食べる機会の増えた彼女は、最近身体にお肉が付いてきた。

 いまではお肉が付きすぎて、立派なイカ腹を晒しているほどだ。

 そして風呂場で全裸になる度に、世話役メイドのジョゼットに嬉々としてその腹を撫で回されるほどだった。


 白くもっちりとしたキメの細かい餅のようなその腹は、触るとすべすべで相当気持ちがいいらしい。

 その証拠に、風呂場でそれを見る度に、ジョゼットは恍惚の表情でその触り心地に夢中になっていた。

 またイサベルも例外ではなく、リタを見る度に抱き上げて、そのポッコリとしたお腹に顔を埋めるのだった。

 


 そのように皆に愛されるリタだったが、やはり弟子のロレンツォが戦場に出掛けて行ってから、少々様子が変わっていた。

 いつも楽し気に薄く微笑を浮かべていた彼女だったが、今ではすっかり顰め面をする癖が付いていたのだ。


 ふと屋敷の中でリタの姿を見つけると、その愛らしく整った顔を顰めたまま西の空を見つめていることが多かった。

 もちろん屋敷の者たちは、リタの行動の意味は理解している。

 それは彼女の若い家庭教師が、戦場に出掛けて行ったのを皆知っているからだ。



 リタの母親のエメラルダは、国中に名が轟くほどの美貌を誇る。

 その美しさは、彼女を手に入れるために、父親のフェルディナンドが貴族の地位を捨てようとしたほどだ。


 実家の爵位が低いのと、背が低く小柄な体形のために高位貴族から声がかかることはなかったが、それでも彼女との縁談を望む下級貴族は多かった。

 そんな美女と名高い母親から多くを譲り受けたリタは、未だ幼い五歳児ながらも、まるで将来の美貌を約束されたような整った目鼻立ちをしている。

 

 父親に似れば背の高いスラリとした体形になりそうだが、現在の姿を見る限り、きっと母親のような小柄で童顔のちょいポチャ色白巨乳美少女になりそうだった。



 そんなリタだったが、すっかりこのところ眉間にシワを寄せるのが癖になっていた。

 しかし今日は、珍しくそんな五歳女児が満面の笑顔を見せている。


 意味不明なケーキの感想は置いておくとして、それにしてもリタの笑顔を見るのは本当に何日ぶりだろうか。

 そんなことを考えながらリタの笑顔を見るジョゼットも、その大人しそうな顔に嬉しそうな笑みを浮かべていた。



 リタ専属メイドのジョゼットが将来を誓い合った男――ロレンツォ・フィオレッティが戦場に召集されて十日が経った。

 その間も続々と入ってくる現地からの情報に注意して耳を傾けていたが、実はその情報全てがリタの元に届いていたわけではなかった。


 中にはとても幼児に聞かせられない話も多く、特に今朝入ってきたばかりの情報はその最たるものだったのだ。


 その情報こそが、「西の三番砦救出作戦の失敗」についてだった。

 

 今から三日前、敵軍の手に渡っていた砦の救出に十五名の兵士が救出に向かったが、待ち構えていた敵軍に包囲されてしまった。

 そして彼らは救出に向かったはずの砦に、逆に逃げ込んだということだ。


 もちろんそれはリタの家庭教師が参加した作戦に間違いなく、その話を聞く限り、彼の無事が心配されるところだった。




 もちろんその連絡はレンテリア家にも入っていた。

 しかし屋敷の者達は、誰もリタとジョゼットにその話を聞かせようとはしなかった。


 それもそうだろう。

 この屋敷にいる者は、当主のセレスティノからうまや番の小僧に至るまで、リタが毎日のように西の空を見上げているのを知っていたからだ。

 そしてもちろんジョゼットがロレンツォにプロポーズされたことも、女性使用人のゴシップネットワークを通じて知れ渡っていた。


 そんなわけで、屋敷の者達はまるで箝口令かんこうれいを敷かれたかのように皆口をつぐんでいたのだ。

 しかし秘密とは所詮守られないもので、それはある日突然、予想もしなかったところから洩れたのだった。




 レンテリア家がロレンツォの知らせを聞いた二日後、出征した彼の代わりに新しい家庭教師がやって来た。

 それは二十代中頃のドーリスという名の女魔術師だ。


 これまでずっと研究畑を歩んで来た彼女は、外の人間との接触が少なかったらしく、少々無作法な立ち居振る舞いが目立つ。

 そのせいだけではないのかもしれないが、さらに彼女は世間知らずで些か無神経なところがあった。


 それは座学用の勉強部屋で、前任者との学習内容を訊かれた時のことだった。

 リタの姿が可愛らしくて仕方がないらしく、ドーリスはニコニコと愛でるような顔で話しかけてきた。


「そう言えばリタ様。前任のロレンツォさんのお話は聞かれましたか?」

 

「ロレンツォの? なんぞ?」


「とても名誉なことに、人質の救出隊に参加されたらしいですね」


「うむ。そりはわちも知っちょるよ。ここなジョゼットと一緒に、毎日無事を祈っとるところじゃ」


「そうですか…… それは心配ですね」


「うむ……」


 ドーリスのその言葉に、リタは思い出したように遠い目をする。

 そしてその背後では、控えていたジョゼットも同じような顔をしていた。

 しかしそんな様子にはまるでお構いなしに、ドーリスは話を続けようとする。

 それを見る限り、どうやら彼女は人の感情の機微を感じ取るのが苦手なようだった。



「それで、その話には続きがあるのですが……もうお聞きになりました?」


「なんじゃ? 何か続きがあるんか?」


 リタが胡乱な顔でドーリスを見た。

 そんなリタの反応に、彼女は何やら得意げな顔をする。

 そして背後のジョゼットの顔を確認すると、したり顔でその続きを語り出したのだった。


「それでそのロレンツォさんなんですけど、どうやら任務に失敗して砦に逃げ込んだらしいですよ」


「えっ!?」


「そして軍は、そんな彼らを見捨てようとしているらしいです。なんでも逃げ帰った味方の応援要請を断ったそうですよ。酷い話ですよねぇ」


「……なんじゃと?」


「えぇ……!!」



 何気なく話した自分の言葉に、目の前の二人の顔色が変わっていく。

 その様子を見たドーリスは、今になってやっと自分が話してはいけないことを話してしまったことに気が付いた。

 そして慌てたように言い繕おうとする。


「あっ、えぇと、あの、そ、その話はあくまでも噂ですから。それも人伝で聞いたので、単なるデマかもしれません」

 

「……デマじゃと? そんなわけないじゃろ。きっとその話は本当なんじゃ」


「ロレンツォ様…… あぁ、そんな……」


 突然顔を覆って涙を流し始めるジョゼット。

 最早もはや自分の身体さえ支えられずに、彼女は横の椅子に思わず身体を預けてしまう。

 そして真っ青な顔のまま口を開いた。


「ドーリス様……そのお話はいつ頃のものなのですか?」


「え、えぇと、み、三日ほど前の話かと……」


「三日前じゃと……? 何故もっと早くわちに知らせぬ!! 誰ぞ情報統制でもしとるんか!? おのれぇ――」


 まるで五歳児とは思えない痛恨の表情で唸るリタ。

 その姿を見たドーリスは、得も言われぬ迫力に何も言えなくなってしまう。

 そして自分の失言を今更ながらに後悔していた。



 しかしそんな彼女の思いなど知らないリタは、椅子から勢いよく立ち上がると魔法練習用のローブを引っ掴んで走り出そうとする。

 そんな彼女に向かって、ジョゼットが力なく問いかけた。


「リ、リタ様? 突然どうされたのです? どちらへ行かれるのですか?」


「そんなん、ロレンツォのところに決まっちょろう!! 身内の危機を聞いといて、何もせぬなぞ辛抱たまらんわ!!」


「リタ様!? お、おやめください!! そんな子供が行ったところで、どうにかなる――」


「じゃかましいわ!! もう三日も経っておるんじゃぞ!! 今すぐ行かねば間に合わんわ!! ――ええか? ととしゃまとかかしゃまにはおまぁから説明せちゅめいしておくのじゃ、ええな!! とにかくわちはヤツをたしゅけにいくからの。あとは任せた!!」


「リ、リタ様!! だめです!! 行ってはいけません!! あぁ、リタ様――!!」



 まるで腰の抜けたような身体に鞭打ちながら、必死に追い縋ろうとするジョゼット。

 そんな専属メイドの叫びを背中に浴びながら、単身リタは屋敷から飛び出して行ったのだった。

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