第132話 詠唱と無詠唱
ハンネスとロレンツォ、二人の魔術師が牽制の魔法を放っている間に、ムルシア侯爵軍兵たちは続々と砦の中に逃げ込んでいく。
その様子を時折確認しながら、二人は狙いを定めないまま広範囲に魔法を放っていた。
全員が無事に逃げるまで、絶対に敵を近づかせない。
ただそれだけを目的に必死になっていた。
敵の混乱を誘うために、敢えて
目標に当たると広範囲に渡って爆発炎上するそれは、牽制用途には使い勝手が良かった。
炎それ自体が近付き難い熱を持つうえに、着衣に炎が燃え移るのを嫌った兵たちが自分から遠ざかってくれるからだ。
しかもそれを防ぐためには、大きめの盾などを用意しなければならないが、残念ながらそれを持ち合わせている者はいなかった。
それでも『多勢に無勢』の言葉の通り、百名を超える敵に対してたった二人の魔術師では火力に限界があったし、そもそも呪文の詠唱が必要な魔法は連射力に乏しい。
事実、派手な煙や爆発音の割には敵兵の数は減ってはおらず、時間とともにじわじわと包囲の輪が狭まってきていた。
そんな中、敵兵の間からゆっくりと進み出てくる者がいた。
それは如何にも魔術師らしい灰色のローブに身を包んだスラリと背の高い中年の男で、年の頃は四十代中頃のように見える。
その「ステファン」と呼ばれる魔術師が、ハンネスとロレンツォの放つ魔法の前に一切の躊躇なくその身を晒したのだ。
ドドドンッ!!
ズバァン!!
案の定、幾つもの炎の塊が直撃する。
しかし着弾の爆発音こそすれ、一向に彼の姿が消え去ることはなかった。
それはもちろん、ステファンが
しかも己の実力を見せつけるように、彼のそれは大きさも厚さも桁違いだった。
四十代中頃と言えば、魔術師としては脂が乗り始める年齢だ。
それは魔法の基礎知識を一通り修め、全ての基本魔法を使えるようになる頃で、そろそろ個々の得意分野に特化していく時期でもある。
もっとも魔術師の中にはアニエスのように魔法で寿命を延ばしている者もいるので、魔術師全員が見た目通りの年齢とは言えないのだが。
まさにそんな頃合いの中年魔術師に向かって若い二人が
その様子に慌てた二人が次の魔法の詠唱に入っていると、フッと小馬鹿にするような笑みを浮かべたステファンが無造作に右手を振った。
ビュンッ!!
その直後、ハンネスの身体が真っ二つになっていた。
右脇腹から入った
ハンネスの顔には、直前までの必死な表情が浮かんだままだった。
その顔を見る限り、恐らく彼は自分の身体が切断されたことに気付いていないのだろう。
それはつまり、痛みを感じる前にハンネスは即死したということだ。
そんな彼の身体が、ロレンツォのすぐ隣で血しぶきを上げる。
そして嫌な音をたてながら、二つに分かれて地面に倒れ伏したのだった。
「ハンネス!!」
思わずロレンツォは反射的に声をあげてしまう。
しかし既に事切れている仲間とって、その叫び声は無意味だった。
この状態で普通の人間が生きていられるわけもなく、いまさら治癒魔法を使う余地すらなかったのだ。
二つに分かれたまま、地面に紅い染みを広げていく仲間の姿。
それを確認すると、ロレンツォは顔に怒りを浮かべて正面の男を睨みつけた。
一瞬にしてハンネスの身体を切り裂いた魔法――確認するまでもなく、それは
それは魔術師になりたての者が一番最初に学ぶもので、攻撃魔法の基本中の基本だ。
二人が炎属性の魔法を使っているのを見たステファンは、そんな基本的な水属性の魔法をぶつけてきたのだ。
炎は水に弱い。
それは常識としても皆が知るように、何ら特別なことではない。
しかしそんな常識でさえ、若い二人は忘れていたのだろう。
二十代といえば、魔術師としては駆け出しだ。
未だ使える魔法の種類は少なく、荒削りな魔力制御能力のお陰でその威力も安定しない。
何より経験不足からくる過剰な魔力使用によって、魔力切れを起こしやすかった。
要するに彼らは「燃費が悪い」ということだ。
さらに対魔術師戦の実戦経験の浅い二人は、突如現れた敵の魔術師の存在に浮足立っていた。
その証拠に、まるで馬鹿の一つ覚えのように炎属性の攻撃魔法ばかり使った挙げ句に、水属性の魔法一発であっさりと仲間を殺されてしまった。
しかも、まるで馬鹿にするような最弱の基本攻撃魔法によって。
一瞬でそこまで気付いたロレンツォだったが、同時に彼はある重大なことに気が付いていた。
ステファンに向かって、
すると彼は予め展開していた
そこまではいい、そこまでは。
しかしその直後に、彼は攻撃魔法を放っていたのだ。
「む、無詠唱……?」
その事実に気付いてしまったロレンツォは、思わず小さく呟いてしまう。
そして突然背中に冷水を浴びせられたような感覚が駆け抜けたかと思うと、直後に彼は自身の前面に思い切り
その判断は正解だった。
何故なら防壁を展開した直後に、激しく魔法攻撃を浴びせかけられたからだ。
もしもあと一秒でも遅れていれば、間違いなくロレンツォの身体は肉塊に変わっていただろう。
思わずそう思ってしまうほどに、その攻撃は凄まじかった。
事実、そのあまりの威力に彼は防壁ごと吹き飛ばされそうになっていたのだから。
バランスを崩し、防壁を展開したままヨロヨロと後方に後退るロレンツォ。
その姿を見たステファンは、顔に驚きの表情を浮かべた。
「おい、貴様!! それは無詠唱だろう!? ――それを誰に教わった!?」
その言葉にロレンツォは、冷や汗を流し始める。
彼がアニエス――リタの元に弟子入りをしてから、既に一年が過ぎていた。
そして無詠唱で魔法を発動できるようになって半年が経っていたが、その間リタから口を酸っぱくして言われていたことがある。
それは人前で無詠唱を見せるなということだ。
もっとも魔法の素養のない者であれば問題ないのだろうが、彼女が言っているのは、同じ魔術師の前でという意味だったのだ。
「無詠唱魔法」は、魔術師を志す者にとって究極の目標だ。
もちろん中には興味のない者もいるのだろうが、得てしてそれは魔術師たちの目標の最終到達点とも言えるものだった。
だからもしそんな者たちに知られてしまえば、その秘密を訊き出そうとされるだろう。
場合によっては無法な手段を使ってでもそれを探り出そうとするはずだ。
事実アニエスも数多の人間に詰め寄られていたし、中には権力や暴力まで用いて訊き出そうとする者もいた。
しかし彼女は絶対にそれを他人に教えようとはしなかった。
もっとも彼女独自の難解な魔法理論を他人に教えたところで、それを理解し、実践できるものなどいなかったのだろうが。
しかしロレンツォはそれを理解した。
アニエスが見つけ出した独自の理論を口頭だけで理解し、実践し、着実に自分のものにしていったのだ。
そんな優秀な弟子を危険に晒したくなかったアニエス――リタは、ある程度の道筋が見えるまでは絶対にこの件を口外するなと固く命じていた。
そして真面目で堅く、融通の利かないロレンツォは、この期に及んでもその約束を頑なに守ろうとしていたのだった。
無詠唱魔法は確実に存在し、それを行使できる。
それは間違いようのない事実として魔術師の間では認識されていた。
しかしその道のりは困難を極める。
ブルゴー王国宮廷魔術師アニエス・シュタウヘンベルクに代表されるように、実際に使用する者がいる以上、それが実現可能な技術であることはわかっている。
しかしその秘術にも近い技術を他人に教えようとする者はおらず、著名な魔術師が残した文献にも殆どその記述は残っていなかった。
特に魔術師に代表される知識欲の塊のような人種は、偏屈な性格が多いうえに積極的に他人と関わろうとする者も少ない。
自分の部屋に閉じこもり、ひたすら自分の興味のみを追及する。
そんな「陰キャなオタク」とも言える彼らが、他人のために自分の秘術を教えようとするなど、そんな奇特なことをするはずもなかったのだ。
しかしアニエスは独力でそれを成し遂げていた。
切っ掛けは王立図書館の奥に死蔵されていた一冊の文献だった。
もちろんその理論を理解して実践したのはすべて彼女の努力だったが、もしもその本を発見していなければ、いまでも彼女は無詠唱魔法を使えるようになっていなかったかもしれない。
そんな事情もあり、この広い世界でも「無詠唱魔法」を現役で使える者は数えるほどしかいなかった。
そしてその筆頭が世界最強の魔術師と名高いアニエス・シュタウヘンベルクだったが、現在彼女は行方不明になっている。
「言え!! お前の師匠は誰だ!! まさかその若さで独学で辿り着けるとも思えん。絶対に師匠がいるはずだ!!」
ここが戦場であり、且つ戦闘中であることさえ忘れてステファンが言い募る。
直前までの小馬鹿にしたような表情は消え失せ、その顔は真顔になっていた。
「エスビョルン、シーウェルト、メーレンベルフ、この三人は違うだろう。奴らは弟子を取らんからな……」
「……」
「ではパンチュローか? あの
「……」
「いや待て……まさかアニエスではあるまいな? しかしあの
「だ、黙れ!!」
まるで独り言のようなステファンの語りに、遂にロレンツォが反応した。
彼とても思わず手を止めて目の前の魔術師に耳を傾けてしまっていたが、敬愛する師匠の名が出た途端、彼は攻撃魔法を繰り出した。
しかしそれも、ステファンの分厚い
そして実力ではまるで敵わないと悟ったロレンツォは、まるで気圧されるようにジリジリと後退していった。
頼みの綱の魔術師のうち、既に一人が潰された。
そして明らかに手強そうな敵の魔術師と、ロレンツォが対峙している。
さらに牽制の魔法攻撃が途切れたことで、周り中から敵兵が押し寄せて来ていた。
その光景を目にした隊長ハーマンは、額から冷や汗を流しながら砦に逃げ込む仲間に向かって大声を出した。
「急げ!! 時間切れだ!! 跳ね橋を引き上げて扉を閉めろ!!」
その言葉を合図にして、ロレンツォを含めた最後の数人を残しながら、砦の堀に掛けられた跳ね橋がゆっくりと引き上げられていく。
もちろんその光景はロレンツォの視界の隅にも映っていたが、今の彼にはどうすることもできなかった。
無詠唱で魔法を放つ魔術師相手に背を向けるなど自殺行為だ。
かと言ってこのまま対峙していても、周りからは続々と兵士が押し寄せて来る。
そんな焦りと絶望に彩られたロレンツォの顔を眺めながら、ステファンはその馬のように面長な顔に趣味の悪い笑みを浮かべた。
「どうやら話すつもりはないようだな。 ――まぁいい。それではこの後、ゆっくりとお前の口を割らせてもらおう。 ――お前の師匠は誰なのか、どこまで無詠唱が使えるのか、どれほどの知識を持っているのか…… あぁ、楽しみだな」
まるで獲物に舌なめずりをするようなその顔に、
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