第80話 大逆転

 此度こたびの婚約話を辞退するのは、自分としてもやぶさかではない。

 しかしその条件として、ムルシア公バルタサール卿から一筆「詫び状」を取り付けてほしい。



 リタのその言葉を聞いたムルシア侯爵家次期当主夫人シャルロッテは、即座にその言葉の意味を理解できなかった。

 ともすれば作り物かと思えるほどに整ったその顔に「ポカン」という擬音が似合うような表情を浮かべたまま、彼女は固まっていたのだ。


 まさか目の前の四歳児の口から、そんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。

 そもそもその提案はリタの父――フェルディナンドが出してくるべきものだったが、思慮が足りないのか、それともこのような交渉事に慣れていないせいなのかはわからないが、とにかく彼の口からその言葉が出てくることはなかったのだ。



 駆け落ちのために忽然こつぜんと姿をくらましたために、結婚に際しての正当な教育を受けられなかったこと、そして次男という立場への甘えもあったのだろう。

 実際に彼らは、こういった貴族間での話し合いに不慣れなのは否めなかった。


 そして駆け落ち騒ぎのバツとして、現在は派閥の会合などの公式な場に一切姿を見せられない事情が更にそれを助長していた。

 その全てが彼らの責任ではないとしても、その危機感のなさ、見通しの甘さは、彼らをして頭の中に「お花畑」が咲き誇っていると言われても仕方のないものだったのだ。


 そのために、本来父親が言うべきことをこの幼い四歳児がまさに「代弁」したのだ。

 彼女はこのタイミングでまさに正論とも言える言葉を吐きながら、当主から詫び状を取り付けろとまで要求してきた。



 実を言うとシャルロッテは、フェルディナンド、若しくはエメラルダの口からその話は出るだろうと思っていた。

 もちろんそれを見越したうえでの婚約辞退の要請だったのだが、結局彼らはあっさりとそれを認めそうになったのだ。


 その様子を見た時、この夫婦はなんと愚かなのだろうかとシャルロッテは思ったものだった。

 いくら公式な発言ではないとしても、相手の真意が未だ不明な間は容易なことは言うものではない。

 何故なら、その発言が後になってどんな形で返って来るかわからないからだ。


 それをこの二人は愚かにも即答しようとした。

 それもこちらが一番望む形でだ。

 その浅慮さ、迂闊さは他家のシャルロッテをして心配になるほどだった。 


 しかしその言質げんちを取れそうになる直前に、その言葉を筆頭執事に遮られてしまった。

 そして気付けば、まさに今回の当事者とも言える四歳幼児の口から、もっとも面倒な条件を付きつけられてしまったのだった。




 おのれ……

 まさか今の発言はリタ自らが考えたものではないだろう。

 それならば、一体誰が入れ知恵をしたのか……

 さすがにこの愚かな両親でないとするならば…… 


 あぁ、先ほど二人の言葉を遮った、あの筆頭執事の仕業に違いない。

 間違いない、彼が事前にあの幼児に言い含めていたのだ。


 ……面白い。

 それならば、このまま執事が介入できない状態で話を進めてやろうではないか。


 ふふん、こんな幼児など一瞬で論破してくれる。



 

「ふふふ……詫び状ですか。なかなか面白いことを仰りますわね、リタ嬢。しかしこの場のお話だけでは、そこまで必要あるとは思えませぬが? あくまでもこれは私的で非公式な場なのです。これを以て両家の取り決めに何ら影響を与えるものではありませぬ」


「そうでしゅか。しかしこの場でのわたくちたちの発言は、奥しゃまとしては侯爵しゃまとの交渉材料にお使ちゅかいになるおつもりなのでしょう?」


 その言葉とともにリタが灰色の瞳で上目遣いに見つめてくると、シャルロッテはそのまま漆黒の瞳で見つめ返す。



 まさにそれは図星だった。

 そのためにシャルロッテはここに来ていたのだから。

 もちろんそれは、義父との交渉の材料として彼らの言質げんちを取るためだ。

 しかもレンテリア伯爵夫妻が不在のタイミングを見計らって、わざわざ侯爵家の若奥方自らが足を運んだのだ。



 目の前の幼女にズバリと本音を言い当てられたシャルロッテだったが、一切そのポーカーフェイスを崩すことなく澄まし顔のままだった。

 さすがは本音と建前と魑魅魍魎が蔓延はびこる上級貴族社会で揉まれてきているだけはあると、ここは褒めるべきところだろうか。


 それでも、相変わらず弧を描く彼女の口角が微妙に震えているところを見ると、その内心の動揺は計り知れなかった。

 なにせ、こんな幼い幼児にその真意を言い当てられたのだから。



「うふふ……本日はそのようなつもりで訪れたのではありません。わたくしはあくまでも息子の婚約者として推された娘に会いに来ただけなのです。しかしあなたはわたくしの眼鏡に適わなかった。ただそれだけのことなのです」


「ふむぅ……」



 

 ほう、言うではないか。

 先ほどの強い言葉は、間違いなくこちらの言質げんちを取りに来ていたものを。

 それなのに、そんなつもりはないなどと、どの口が言うのか。


 いくら非公式だからと言って、こちらから婚約話の辞退を口にするのは悪手だ。

 その発言が後でどのような形でこの家に降りかかって来るかを考えると、絶対にそれはできないだろう。

 さきほどエッケルハルトが慌てて言葉を遮ったことからも、それは正しい判断に間違いないのだ。


 とは言え、いまのこの状態では、シャルロッテがバルタサール卿の決定を覆すほどの力があるかも微妙だ。


 今はまだこの女の実家に気を遣ってバルタサール卿が己の決定をゴリ押しするのを避けているが、もしも彼がその気になればこの話を強行できるのだ。

 それがわかっているからこそ、焦ったこの女は今日この場に足を運んだのだろう。

 なんとかこちらから辞退の意向を引き出すために。


 


 面白い。

 実に面白い。


 もとよりこの婚約話は振って湧いたようなものだし、決して自分が望んだものでもないのだ。

 かと言って後のペナルティーを考えると、こちらから辞退はできない。

 それならば、この場で徹底的にこの女に嫌われてみるのも悪くないだろう。


 もしそうなれば、この女は力の限りこの婚約に異を唱えるはずだ。

 そして彼女が感情的に侯爵を攻め立てれば、彼とてもこの話を見直す可能性も高くなる。

 その結果として国王からムルシア家に咎めがあったとしても、そんなものはこちらの知ったことではない。


 こちらとしては、両親の結婚がこのまま認められることと、自分の婚約が流れさえすればそれで良いのだ。


 よし決めた。

 ここでこの女に徹底的に嫌われてやろうじゃないか。

 ふふふ……


 

 一瞬でそこまでの考えを頭の中で組み立てたリタは、見えないように俯くとニンマリとした笑いを浮かべたのだった。




「承知いたしました。しかし、やはりこの場では辞退の言葉は申し上げられましぇぬ。もしも奥しゃまの意向に沿う発言をお望みであれば、やはり侯爵しゃまより一筆いっぴちゅ必要かと」


「そうであれば、わたくし義父ちちを説得せよと? ムルシア侯爵家当主バルタサール・ムルシアに直談判せよと申されますか?」


「そこまでは申しておりましぇぬ。わたくちとしては、侯爵しゃまより一筆いただければしょれで結構でごじゃりましゅれば、その方法までは関知しましぇぬゆえ


 まるで突き放したような物言いに、シャルロッテの眉が上がる。 

 そして見る見るうちに、陶器のように滑らかな眉間に深いシワができあがった。

 その姿は美しいを通り越したまるで般若のような形相で、ともすればそれが彼女の本当の顔なのかと思えるほどに違和感がなかった。


 それは、並みの四歳児であればその場で小便を漏らして泣き叫ぶような姿であるにもかかわらず、リタは全く恐れる素振りを見せない。

 それどころか、更に挑発するかのような薄笑いを浮かべていた。



「なっ……!! そ、そうは仰いますが、当家は未だこの婚約に対して統一した結論が出ていないのです。それなのに、義父ちちから一筆もらってこいとは…… そんなことができるわけ……」


「しょのようなご家族間の問題をここに持ち込まれても困りましゅ。もとよりしょれは、しょちらで解決すべき問題なのでしゅ。過程などは必要ありませぬ。こちらへは結果だけをお示しくだしゃりませ」


「なっ……!!」


「できない、無理だ、大変だ、などという言葉をこちらに言われましても困りましゅ。しょうであれば、まずご自身の要求を取り下げるべきかと」


「うぅ……」



 リタの言葉はまさに正論だった。

 その言葉はあまりにも正論過ぎて、全く隙が見当たらないくらいだ。

 そのせいでシャルロッテは言うべき言葉が見つからなくなった。


 そもそもこの婚約話を言い出したのはムルシア家だ。

 確かにリタの両親の立場をおもんぱかったバルタサールに感謝はするが、これは既に三つの貴族家で合意を済ませた問題なのだ。

 それを家族の同意が得られないからと言って、こちらにその辞退を迫るのはお門違いだろう。


 そしてムルシア家が一枚岩ではないと言われても、そんなことはレンテリア家の知ったことではない。

 バルタサールの詫び状が必要であるならば、それを取り付ける方法を考えるのがシャルロッテの仕事であって、その困難さをこちらに訴えられても困るだけだ。


 目的を達成するために必要であるならば、それを必要とする者がその方法を考えればいい。

 ただそれだけのことだった。



「それがご用意できないと仰るならば、このお話はこれで終わりでごじゃいましゅ。どうぞ、お引き取りを」


「う……」


 目の前に座るムルシア家次期当主夫人が、二の句が継げずに押し黙る。

 その姿を確認したリタは、そのまま周りを見廻した。


 シャルロッテの後方には、驚きの表情のまま自分を凝視するムルシア家の付き人。

 そして真横には驚愕の表情で自分を凝視する両親がおり、両壁際には同様に驚愕の顔のまま固まる数人のメイド。


 さらに後方を振り返ると、一番後ろの壁際に筆頭執事のエッケルハルトが立っていた。

 初めは驚いた顔のまま直立していた彼だったが、リタと目が合った瞬間、彼は小さく親指を立てた。



 ゆっくりと周りに目を走らせたリタは、再度目の前で固まるシャルロッテを見上げる。

 そして心の中でほくそ笑んだ。


 これで自分は確実にこの女に嫌われた。

 誰がこんな小生意気で自分のプライドをズタズタにした幼児などと仲良くしようと思うのか。

 ――どう考えてもいるわけないだろう。


 ドレス姿では一人で用も足せないような幼児が、薄ら笑いを浮かべながら正面から論破したのだ。

 如何にもプライドの塊のような女の鼻っ柱を、多くの人間の見ている前でへし折ってやったのだ。

 しかもお付きの者たちの見ている前で。


 これほど彼女を怒らせる状況もそうないだろう。

 まさにこの場の出来事は、彼女は生涯忘れられないにちがいない。


 さぁ、言え。

 この婚約を破棄すると言うのだ!!

 自分はそのためにここまで言い放ったのだから!!




 してやったりと、思わず笑ってしまいそうになったリタは、それを隠すためにジットリとした目でシャルロッテを見つめる。

 すると彼女は、その般若のようなまま固まっていた表情を少しずつ動かし始める。


 そして――笑い始めた。



「ふふふ……あははは、おほほほほほ……!! あぁ、愉快、本当に愉快です!! まさかここまでこのわたくしが言い負かされるとは!!」


「はぁ?」


「いいでしょう!! 気に入りました!! あなたのその気骨、その気迫、そのくち!! それこそが我がムルシア家に必要なものなのです!! わかりました、わたくし義父ちち同様にあなたのことが気に入ったのです。是非とも我が家へ嫁に来ていただきましょう!!」



「――はぁぁぁぁぁ!?」


 今度はリタが驚きの声を上げる番だった。

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