第86話
洗面所で顔を洗うと目の前にピンク色の歯ブラシが置いてある。以前、蛍が置かせて欲しいと言ってきた、食事のあとに口が接触する際のエチケットの為だ。
そして浴室には蛍の家のボディソープと同じものを置いてある。これもまぁ一人娘が知らない石鹸の香りを纏って帰ってきたら……気にされるだろうなと。どんどん蛍の存在が俺の生活圏を侵食してゆく、だがそれは嫌なものではなかった。
「……さて最後の片付けをするか」
昨夜はご両親の許可もあり、いつものご休憩ではなくご宿泊を蛍と経験した。
蛍の細い腰を両手で抱えた感触を思い出す。昨夜はいつものように優しくではなく、蛍の身体に俺の残痕を刻むように激しく抱いてしまった。
普段は薄明かりの中で身体を重ねるのだが、昨夜はお互いの姿を目に焼き付けておきたいと明るい部屋の中で蛍の裸体を目の当たりにし、恥ずかしがる蛍の表情を見ては……とてもじゃないが自分を抑えることができなかった。
……ごめん、蛍。でも、すべては蛍が可愛すぎるのが悪い。
蛍と過ごした日々を思い出しながら引っ越しのために部屋を片付ける。見送りは良いからと蛍に言ってある。
「……先輩、浮気しちゃ駄目ですからね」
と蛍が最後に言っていた。しばらく遠距離恋愛になってしまうことを心配していたんだろう。
「……本当に……まだ、わかってないのかなぁ?」
俺がどれだけ蛍に夢中なのか、他の女の子に目移りなんてしないってことに。
そんな風に苦笑いしながら引っ越しの準備をしていたら……
「……先輩、行ってしまうんですね」
「あぁ、市井か。見送りに来てくれたのか?」
一年生の市井がアパートの下に来てくれていた。
「……寂しくなりますね」
「……まぁ、こっちに来ることがあれば声かけてくれ、飯食いに行ったりしよう」
「絶対ですよ、本当に遊びに行きますからね」
そんなことを話していたら
「……そう言えば鳴海先輩はどうしたのですか?お見送りに来ないのですか?」
不思議そうに聞くので
「……蛍は昨日泊まって、朝帰っていったから……この話は内緒な?」
市井は話を聞いて顔を赤らめた、俺と蛍がなにをしていたかは言わないでもわかるだろうから。
「……はい、誰にも言いません。安心してください」
「……あぁ、頼む。そろそろだな……」
「……はい、先輩。必ず遊びに行きますから。あとこれは車中で食べてください」
お菓子を渡してくれた市井は目に涙を浮かべていた。俺の旅立ちに蛍以外に泣いてくれる奴がいるとは思ってもみなかった。
「……じゃあ、またな」
そう言うと同時に荷物を積んだ車が走り出した。市井から貰ったお菓子を口の中に放り込み、窓から遠ざかる景色を見る。これから慣れ親しんだ街と恋人から離れ新しい場所での生活が始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます