第39話 回想––– 初恋–––

 信繁の最初の妻の名は梅乃という。


 彼女は生まれた時から右頬に赤い梅の花の様な形の痣があった。

 当時昌幸の配下の真田家の“草の者”と呼ばれる忍び衆の頭目だ

った横谷孝之助の娘として生まれた梅乃は、幼き頃より父に連れ

られ昌幸の屋敷を足繁く訪れていた。

 自ずとそこで昌幸の息子達とも親しくなり、彼等は妹の如くお

梅を可愛がり、お梅も幼き頃は「兄様」と二人を呼んで慕った。

 この時源二郎は八歳、梅乃は三歳だった。

 兄の源三郎も梅乃を可愛がっていたが、弟の源二郎は自分の下

に兄弟がいなかった分年下の梅乃をいたく可愛がり、よく小さな

梅乃をおぶって庭先を駆け回り、梅乃を喜ばせていた。

 

 やがて、そこに孝之助が養子に迎えた佐助が加わり、昌幸の家臣

高梨内記の娘、桐が屋敷に訪れる様になった。

 桐は元々、源三郎付きの侍女として年頃になったら屋敷に上げる

つもりで、内記が事前の顔合わせとして屋敷へ連れて来たのだが、

大らかな主人の昌幸が、どうせ上げる予定ならこのまま屋敷に来れ

ば良いと、梅乃や佐助と同じ様に息子達の遊び相手として彼等に引

き合わされた。

 最初に彼等に会った時、桐は身体の大きな源二郎を自分が仕える

事になる真田の嫡男源三郎と勘違いして挨拶をした。

「お初にお目にかかります。高梨内記の娘、桐と申します」

 桐はこの時源二郎と同じ十一歳、大人びた様子で隙のない佇まい

で、挨拶する彼女に気後れしながら、自分は二男の源二郎だと訂正

した。

 澄まして頭を下げていた桐の顔が、恥ずかしさに朱に染まる。

「‥‥‥ご、御無礼を、申し訳ありません」

 小さな声で詫びる桐の姿が、年相応の女子らしく好ましく感じた

源二郎と源三郎は直ぐに桐とも打ち解け、佐助と梅乃を引き合わせた。

 元々姉御肌で面倒見の良い桐は、佐助と梅乃の世話を進んで引き

受け、母親を早くに亡くした梅乃と佐助は、何時も桐の後を追って

無心に甘えた。梅乃より年下の佐助は特に気弱で、よく孝之助から

教わり始めた忍びの修行が辛くなって、屋敷に逃げ込んで来た。

「佐助は泣き虫ですね。いくら修行が辛くとも男の子が無闇に涙を

見せてはいけませんよ」

 桐がたもとで佐助の涙を拭いながら、優しく言い聞かせる。

 梅乃をおぶった源二郎が笑いながら、桐に話し掛ける。

「そうして居るとまるで親子みたいじゃな。桐は佐助の母様じゃ」

 源二郎のからかう様な物言いに、ムッとした桐がすかさず言い返す。

「源二郎様こそ、梅乃に父親だと思われているのでは?」

 源二郎が眉を上げて、心外そうに言う。

「私がそんな年に見えるのは無理があろう。のう梅乃」

 源二郎が後ろに背負われている梅乃に声を掛けると、梅乃がに

こりと微笑み源二郎に言った。

「梅乃はいつか源二郎兄さまのお嫁様になりたい」

 これには源二郎も桐も驚いて、一瞬言葉を失う。

「梅乃、お嫁様の意味分かっていますか?」

 桐が呆れ顔で梅乃に尋ねる。

 梅乃はこくりと頷くと桐に向かってこう言った。

「信繁様のお嫁様になれば、何時も一緒にいられるもの」

「‥‥‥梅乃は私と一緒にいたいのか?」

 源二郎が梅乃を背から降ろし、振り返ると梅乃の顔をじっと見

つめる。その目が思いがけず真剣な光を帯びているので、桐は胸

の詰まる様な気持ちがした。

「はい、梅乃は大きくなっても、ずっとずっと、源二郎兄さまと

一緒に、暮らしたい」

 瞬間、源二郎が嬉しそうな笑顔を見せて、その手を梅乃の頭に

載せて愛おしげに撫でる。

「よし、分かった。梅乃が大きくなったら私が嫁に貰う」

 約束だと源二郎が小指を梅乃の小さな小指に絡め、指切りをする。

 子供同士の戯言と思いながら、その様子を見ていた桐だったが

何故か酷く胸が苦しく感じられ、我知らず二人の様子に嫉妬をして

いたのだと後になって気付く。


 源二郎、後の信繁が十二歳、梅乃が八歳。幼い二人がこの後起こ

る戦禍に引き裂かれる事になるとは、知る由もない幸福な日々の出

来事だった。


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