第28話 男の意地
大助が的に向かい矢尻の狙いを定める。
引き絞った弓の弦を放ち、矢を射る。
矢は的の中心から少し外れた所に命中する。
「お見事、腕を上げられましたな」
大助に弓矢を指導している仁左衛門が、シワに埋もれた目尻を
下げて若き主人を褒める。
「まだまだじゃ、ど真ん中に当たらねば失敗と同じ」
再び矢を番える大助–––––
その様子を少し離れた渡り廊下からじっと見つめる男が居た。
男は満足げに頷くと、踵を返してその場を立ち去った。
裏の林の木に設えた小さな板貼りに、矢が命中する。
矢尻は見事に板の真ん中を射抜いていた。
「お梅様、命中です!」
矢の刺さった板を外した佐助が、嬉しそうにそれをお梅に掲げ
る。
お梅はチラリとそれを見ただけで、大して喜びもせず弓矢を片
付け始める。それを見た佐助が僅かに眉を寄せ、お梅の元に来る。
「お梅様、何故大助様と御一緒に稽古しないのですか?」
お梅は弓を担ぎ、矢の入った
「嫡男の大助が女と一緒に稽古など、外聞が悪かろう。ここは九
度山と違い浅野家の家人の目がある」
佐助はお梅がその様な気遣いを見せる様になった事に、彼女の
成長を感じ幾分寂しく思った。
信繁一家が浅野家の治める紀伊の国に来てから、早くも半年近
くが経とうとしていた。
信繁達は城下町の外れにある屋敷を借り、浅野家の家臣長山光
昭の手配した下働きの者達のおかげで、衣食住に事欠かない生活
を送る事が出来る様になった。
数名の監視をする為の侍達が外に交代で配されたが、彼等が同
行すれば、城下にも出歩く事が許された。
九度山での厳しい暮らしとは雲泥の、贅沢とも言える暮らしに
子供達はは大いに喜んだが、お梅だけは始終監視の目が自分達を
付け回す生活に幾分息苦しさを感じていた。
季節は春の終わりに差し掛かり、温暖なこの地では日毎に日差
しが肌を焼く程に強くなって来ていた。
浅野家の当主幸長は徳川方として関ヶ原では、信繁達豊臣勢と
刃を交えたが、元々幸長の父長政は秀吉の正妻寧々の義弟で、豊
臣家古参の家臣だった。
故に幸長は関ヶ原の合戦以降も豊臣家と徳川家の和議に尽力し、
昨年は家康と秀頼の二条城での会談を加藤清正と共に警護した。
会談後国に戻った幸長は、その後体調を崩し床に伏せる事が多
くなったが、彼は自分が預かる信繁達の行く末を案じ、病を押し
て家康に信繁達の恩赦を何度も願い出ていた。
家康としても元々は信幸、信繁兄弟共々味方に引き込めればと
信繁にも徳川家の親戚筋から誰かを娶らせ様とした事もあった。
だが信繁は、豊臣家の家臣で石田三成の盟友大友刑部の娘を妻に
迎え、家康の目論見は果たせなかった。
しかし、家康はここに来て幸長を通し、ある提案を信繁に用意
していた。
「大助を、浅野家の養子に?」
その日、光昭に伴われ幸長の元に呼び出された信繁は、突然の
幸長の申し入れに驚いた。
「左様、私には残念ながら跡継ぎの男子が居りません。このまま
もし私の身に何かあれば、弟の
正直弟は‥‥当主としてはいささか––––」
青白い顔の幸長が言葉を濁し、眉を顰める。
幸長より五つ下の長晟は今年三十二歳になる。
当主となるに不足のない年齢だが、若き頃より素行の悪さで家
臣達を困らせている問題児で、その噂は幽閉の身の信繁も多少耳
にしていた。
「世話役の光昭が何度か大助殿を屋敷で見かけ、武道に学問に精
を出す様子に感銘を受けたと聞きましてな、信繁殿のお子ならば
間違いなく将来有望かと」
「いや、暫しお待ち下さい。大助は未だ元服も済ませておりませ
ぬ若輩です。とても名家浅野家の次期当主など」
手を上げ断ろうとする信繁の手を幸長は、しっかと握り声を落
として言った。
「この養子縁組みが纏まれば、家康様からの恩赦も叶います」
信繁ははっと顔を強張らせ、幸長を見た。
「‥‥‥この話は、家康様からの––––」
幸長は信繁の目を見つめ、さらに言い募る。
「家康様は信繁殿が恭順を示せば、五万石で召抱える事を私に
約束してくださいました」
言葉を失い、膝頭をじっと見つめる信繁を口説き落さんと幸長
は重ねて言う。
「信繁殿、貴殿にはもう一人男の子が居ります。例え五万石と言
えども、自分の支配出来る領地があれば、妻子に苦労を掛ける事
も無くなりましょう」
信繁は幸長に向き直り姿勢を正すと、手をついて頭を下げた。
「お心遣い、ありがとうございます。しかし何分急な話、大助の
意向も聞かねばなりません。返事はまた改めて」
信繁は幸長の元を辞すと、再び光昭に誘われ妻子の待つ屋敷へ
と戻った。
大助が信繁に呼ばれ、書斎として使っている小さな3畳程の部屋
に赴いたのは、夕餉を終えとっぷりとと日が暮れた頃だった。
大助は部屋に入ると、父の様子がいつもと違う事に気付く。
常日頃泰然として朗らかな気を纏う信繁が、この日は燭台の灯り
の下厳しい顔で正座して瞑目し、何かを考えていた。
「父上?」
大助が恐る恐る父に声を掛ける。
信繁は目を開けると、大助に向き直り単刀直入に切り出した。
「お前に浅野家の養子縁組みの話が来ておる」
大助は驚いて父を見つめる。
「お前の返答次第で今後の事が大きく変わる。お前はどうしたい?
浅野幸長殿は嫡男となる男の子が居らぬ。お前が養子となれば、間
違いなく次期当主として大切にして貰えるだろう」
「父上と母上、姉上や大八菖蒲はどうなりますか?」
信繁は後に残る家族の心配をする大助の優しさを、内心微笑まし
く思ったが、それを顔には出さずに言う。
「お前がこの話を受ければ、私は家康様より恩赦を受け、五万石を
賜わる」
「五万石‥‥‥」
大助が呆然と呟く。
半年前まで、罪人として九度山に幽閉されていた者が、五万石で
召抱えられるなど、破格の待遇だと世間知らずの大助でも分かる。
「父上は、私が養子となる事を、望まれますか?」
信繁は大助の目をひたと見つめ、感情を表さずに言った。
「お前の将来を思えば、悪い話ではないと思う」
その言葉を聞いた時、不意に大助の脳裏に姉の顔が思い浮かんだ。
大助は腹に力を込めると父に問いかけた。
「もし、縁組みの話が私ではなく姉上であれば、父上は如何致しまし
たか?」
予想外の大助の問いに、信繁は目を見開き大助を見つめた。
「何故そこでお梅の話が出る?女子ではこの話は––––– 」
「分かっております!例えば、姉上が私の兄で、他家への養子の話が
来たら、父上は‥‥父上はきっとその場でお断りした筈です」
確信を込めて語る大助に信繁は暫し言葉を失い、息子の悲壮な顔を
只見つめた。
「私は、真田信繁の子としてこれからも生きる所存です。例えその先
に死が待ち受けるとも、私の決意は変わりません」
大助は手をついて頭を下げると、勢いよく立ち上がり部屋を出て行
った。
信繁は暫く呆然と後を見送り、右手を額に押し当てた。
「いやはや、参ったな‥‥‥」
そう言いながらも、初めて己の意地を見せた息子を頼もしく思い、
信繁は我知らず笑みを浮かべていた。
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