vs " Z "(2)

 四方を隔壁に覆われた、箱庭のような森の中、その中央付近にぽっかりと開いた空き地。

 吐息、足擦りの音が聞こえるほどの距離、数メートルを挟んで対峙するは、1匹の獣。

 それはかつて、アミーと呼ばれた獣に見える。

 だが……それは見た目だけかもしれない。

 アミーの皮を被った、なにかよくわからないものかもしれない。

 今やるべきことは、こいつの正体を見極めることだ。

 こいつの世界の把捉方法が聴覚のみではなさそうだということがわかった以上、下手に逃げ隠れるよりは、正面から相対していた方がいい。

 少なくとも、いまはまだ。


  ――……ッ!!


 一息に仕留めるような動きから、徐々に駆り立てるような動きに変わった獣と対峙する。


 獣の狩りは、まだ――始まったばかりだ。



 *────



「ぬぉッ!! ――ぬぃッ!!」


 はしるように距離を詰めてくる獣から逃れ、跳ねるように左後方へ下がるのを繰り返す。

 いまのこいつの全速力は未知数だが、身体の規格がちがいすぎる。

 正面きって追いかけっこで勝てるビジョンはまったく見えない。

 アウトボクサーのように、獣の周囲を旋回するように距離を取り続ける。

 さいわいこの空き地は十分に広い。

 獣が横たわっていた、金属片が散乱する中央付近さえ避ければ、地面には足を滑らせるようななにかもなさそうだ。


「へいへい、どうしたズールッ!!

 そんなんじゃいつまで経っても――」


  ――……ォ!!


「ヒェッ」


 相変わらずノーモーションでこちらに迫る巨体から、弾けるように距離を取る。

 俺の煽りに苛ついたわけではないだろうが、また一段、動きの機敏さが上がった気がする。

 現実で大型犬が迫ってくる程度の速度はある。

 つまり――まだまだ余裕だ。

 実際、向こうもまだ、荒い息を零してすらいない。

 いまはまだ、こちらの挙動を測るような動きのままだ。

 この程度のじゃれ合いなら、このまま闘牛のような回避を続けることもできなくはない。

 だが――


(……それは、分が悪い、か)


 このままのらりくらりと距離を取って逃げ続けるのが、一番穏健な耐久方法だというのはまちがいない。

 予想外の挙動を採られることも少なそうだし、もしされても対応が容易だ。

 下手に手を出した結果、藪をつついて蛇を出すことになる可能性もある。


  ――……ッ!!


「ひゅぃっ」


 だが、逃げ続けている間に、向こうのギアは上がっていくだろう。

 どこまで上がるのかは、正直分からない。

 かつて出逢った異常種たちと同じくらい、機敏になるのか。

 重たげな鉄杭も刺さっているし、それほどでもないのか。

 それとも、逆にあいつら以上の性能スペックになるのか。

 少なくともあいつらに近いところまで上がり続けるなら、今のように悠長したまま、二時間も耐久できる自信がない。

 それに――


(……このあと、状況はどんどん悪化していくんだ)


 獣の動きが機敏になっていく一方で、俺の動きは悪くなっていく。

 フーガの体力と俺の集中力は、無限ではないのだ。

 スタミナゲージこそないが、単純に息が切れる。

 運動スペックは落ちるし、レスポンスも低下する。

 気づけることにも気づきにくくなるし、凡ミスもやらかすだろう。


  ――……ォ!!


「ステイッ!?」


 つまり、なにかを試したり確認したりなら、早いうちにやるのがいいのだ。

 俺の体力に余裕があるうち、目の前の獣の動きがいまだ緩慢なうちにしかできないことについては、いまのうちにやっておきたい。

 ついでに、こいつの弱点、こいつの癖のようなものを掴んでおければ、なおいい。

 そのためには――多少の藪蛇は覚悟する必要がありそうだ。


「一応聞くけど――ズール。

 お前、単にじゃれついてきてるだけ、ってことは、ないよな?」


  ――……ォ!!


 丸太のような太い四肢に力を漲らせ。

 繰り出されるのは、こちらを轢き潰すような突進。


「――……ぉおッ!!」


 今までよりもほんの少しだけ、逃げるのを遅らせる。

 そうして獣との距離が詰まった直後、気合の一声をその場に残して、左に身体を飛ばす。


  ズダァンッ!!


 地面が踏み砕かれる音を横手に距離を取る。

 振り下ろされた左前脚。叩きつけられる質量。

 そのまま立っていたのなら、俺の身体はぐしゃりと踏み折られていただろう。


  ――……ッ


 俺のいた場所を、その巨大な前脚で踏み砕いたその獣が、ぐいっ、とこちらに頭部を向ける。

 対峙する獣の、暗い眼窩。

 やはりそこには、なんの意図も読み取ることはできない。

 だが――


「――腹、減ってるのか?」


 そこに眼球があったのなら、その眼はじっと、俺を見据えていただろう。

 頭部を微動だにさせず、ピクリピクリと耳を動かし。

 その鼻梁が、なにかを嗅ぎ取るかのように、ひくひくと動く。

 だらりと開かれた口腔から垂れ落ちる、一滴の、透明な液体。


(……生きて、いる?)


 目の前の獣の身体には、体液が、流れているのか。

 動いているのだから、当然なのか。

 ……いや、それはやっぱりおかしいだろう。

 ここらで一度、確かめて、みるか。


「いいぞ。喰えるものなら、喰ってもいい。だけど――」


 万が一に備えて利き手に持っていたナイフを左手に持ち替え、太股の外側に設えたホルダーから、楔を抜き取る。

 細長い形をした、石の杭。

 計らずもそれは、目の前の獣の右前脚に刺さったままの鉄杭に似ている。


「――そのときは、殺し合いだぞ」


 そのときは、俺も覚悟を決めよう。

 目の前の獣が、どんなに惨い目にあったのかは知らないが。

 いまのお前が生きていて、俺の命を奪おうというのなら。

 その時は俺も、お前の命を奪うことに躊躇いはない。

 お前の身体を、楔で穿つことに躊躇いはない。


「……。」


 右手の革グローブを外し、その場に落とす。

 その手の内に楔を隠すように握り込み、右腕を前に突き出す。

 目の前の獣は――微動だにしない。


「……行くぞ、ズール。」


 腕を突き出したまま、じりじりと、摺り足で獣との距離を詰める。

 彼我の距離は、5mほど。

 この距離が、なにがあっても対応できる自信のある限界距離。

 その境界線を――踏み越える。


  ――……ゥル……


 近づいたことで、獣が発する音が聞こえる。

 深い洞窟の奥から響く、風鳴りのような音。

 それは前作でも聞いた、アミー種の獣の唸る声で。


「――お前、ふつうに声、出せるんだな」


 周囲の音を察知することができる。

 そのかたちを保ったまま、動くことができる。

 唾液も出せるし、声も出せる。

 緩く開かれた口腔からは、呼吸の音もする。


「なんだ。ちゃんと――生きてるじゃないか」


 こいつの現在の状態は、当初俺が思っていたような状態ではないらしい。

 ゾンビ、とか。操り人形、とか。

 アミーの皮を被せられているだけのなにか、とか。

 そういう冒涜的な存在ではないように思える。

 こいつはここまで、正しくアミー種の獣として動いている。

 こいつの生前の動きを知らないなにかに動かされているような気配はない。

 少なくとも、俺にはそう見える。


 つまり、こいつは、生きている、らしい。

 なぜかはまったくわからんが。


「――……。」


 獣との距離は、2m半と少し。

 そこで、ぴたりと足を止める。

 足が――止まる。


  ――……ゥゥル、ル……


 獣の放つ、気配が変わる。

 張り詰める空気。四肢に漲る力。強張る筋肉。

 俺の方を向いていた頭部が――スッと下がる。


「――ぅぅぉぉおおおッ!!」


 突き出した右手を後ろに引き、そのまま上体をひね――


  バヂュンッ!!!


 ――った直後、俺の眼前。

 なにか重く湿ったものがぶつかり合う水音。

 目の前の空間を噛み砕く、巨大な獣の顎が。

 その音、その光景を、かつて俺は味わったことがある。

 だがあの時は、その衝撃までは感じなかった。

 目の前で弾ける、空気の震えまでは感じなかった。

 宙に飛び散る唾液。押し出された熱い呼気。


「ぐッ――」


 呼吸する余裕すらなく、しかし目は見開いたまま。

 右後ろにひねるように回した上体を、そのまま更に引き付ける。

 小さく跳ねるように地を蹴りつければ、そこは獣の右前脚の外側。

 目の前にある、白い体毛の壁。

 それに、剥き出しの右手で触れ、


(……ッ!!)


 すぐさま目の前にある白い壁を蹴りつける。


(……【跳躍】ッ!!)


 獣の右前脚を足場として、水平に跳躍。

 足裏に感じる、岩のような硬い感触。

 瞬間、俺の身体が水平に打ち出される。


  ズァッ―― ズダンッ!!

  

 その直後、空気の擦過音。

 前肢が地面に叩きつけられる音。

 右前脚を軸として急旋回した獣の左前脚が、俺のいた場所を横薙ぎにする。


「……っぷぁっ!! はぁっ……」


 土埃を巻き上げる獣から、跳ねるように距離を取る。


(……やっぱり。あいつは生きている……ッ!!)


 体毛越しに一瞬だけ触れた、獣の体躯。

 その身体には、明らかに、暖かな体温があった。

 その体毛はごわごわではあったが、しかしちゃんと毛の質感をしていた。

 見た目だけじゃない。

 目の前の獣は、たしかに生命活動を行っている。

 呼吸をしていて、体温があって、動いている。

 だが――


(――わからん。わからんぞ……ッ!?)


 思考がぐるぐると渦を巻く。

 事実として確認すればするほど、目の前の存在がよくわからなくなる。

 目の前の獣は、どう見ても、アミーだ。

 異常進化したアミーそっくりだ。

 かつて俺が出逢った、凶暴な獣にそっくりだ。

 仮にあいつらがこの世界でも生まれていて、俺たちの前に現れたら、こんな感じだろう。


 だが――そんな単純な話じゃないだろう。

 この事態は、どう考えてもおかしいのだ。

 なにか、異常なことが起こっているにちがいないのだ。

 だが、そのおかしさが、どんどん薄らいでいく。

 確認すればするほど、おかしくないような気がしてくる。

 つじつまが合わない点が、思考のノイズとして取り除かれようとしている。

 だが、そうして生まれた結論は、恐らく間違っている。

 目の前の存在が、異常進化した手負いのアミー種だという認識。

 ついさきほどまでは単に寝ていて、今こうして起きただけだという理解。

 そんな単純な理解は、きっとどこかが、致命的にまちがっているにちがいないのだ。


「はぁっ……はっ……はぁ」


 冷静に考えろ。

 こいつが、生きているということ。

 それは、どう考えてもおかしいだろう?

 なにがどうなったら、そうなる?

 目の前の存在は、どう説明できる?

 こいつは、いったいなにものだっ!?


  ――……ゥゥル、ル……ッ!!


 距離を離しても聞こえるほどの、低い唸り声。

 喰えると思ったものを食べ損ねたからか、それとも俺に身体を蹴りつけられたからか。

 目の前の獣の姿勢が――また変わる。


「……っと。そろそろ、本気出す感じ?」


 前方に突き出した両の前脚を、軽い八の字に開き。

 重心を載せた後ろ足を、軽く撓ませ。

 三角の耳をピンと立て、鼻をひくつかせ、鋭い犬歯を剥き出し。

 胴体をぐっと低くして、じっとこちらを見据える。

 奇しくもそれは、俺が先ほどしていたのと同じような姿勢

 それは飛び掛かるための姿勢でも、走るための姿勢でもない。

 前後、左右のどちらにも、身体を跳ねさせることができる。

 すべての四肢を、十全に振るうことができる。

 それは――闘争の姿勢だ。


「……お前、さっき、俺を喰おうとしたよな。

 だから、もう――躊躇いはしない」


 手の中でくるりと回した楔を、ぱしりと掴み。

 目の前の獣に、その切っ先を向ける。

 左手に提げたナイフを逆手に構え、目の前の獣に対峙する。

 冷たい闘争心に、心が湧きたつ。

 屈服させたい。上回りたい。凌駕したい。

 目の前の獣に、鋭い切っ先を振り下ろしたい。

 殺すか殺されるかの闘争に身を沈めたい。

 どろどろとした暗い衝動が、湧き上がってくる。


 だが――


(……びぃくーる。クールになれ)


 この楔を、このナイフを、積極的に刺しに行く必要はない。

 当初の目的を思い出せ、俺たちの方針は持久戦だ。

 目の前のこいつがどうやら生きているらしいというのなら、むしろ好都合だ。

 こいつが、生物という枠組みに囚われてくれるのなら。

 ここまで目論んできた通りのことを、引き続き遂行すればいい。

 それに――まだまだ確認すべきことはあるのだ。

 殺すか殺されるか、血みどろの闘争を始める前に、やっておくべきことが。


(……カノンと、相談もしたいしな)


 目の前のこいつが、なにものなのか。

 生きているというのなら、どう対処するべきなのか。

 殺すのを試みるべきか、ひたすら逃げに徹するべきか。

 わずかでもいい、その辺を話し合う時間も欲しい。

 となると――よし、このプランで行こうか。


  ――……ゥゥル、ゥウウ……ッ!!


 はち切れんばかりに張り詰めた空気。

 目の前の獣は、今まさに俺との死闘を始めようとしているようだが――すまんな、ズール。

 俺たちは別に、おなかが空いているわけじゃないんだ。

 殺されるつもりはないし、殺される覚悟も殺す覚悟もあるが、殺し合いたいわけじゃない。


 ゆえに。

 身体をひねり、手のうちに挟み込んだ楔を――


「――ぃょぃしょぉッ!!」


 ――全力で、目の前に【投擲】する。


  ビュンっ!!


 大気を裂き、高速飛翔する石楔。


    ――……グゥッ!!


 それは、弾けるように後退した獣がもと居た場所、そのわずか前方に、


  ズシャっ!!


 いい音を立てて刺さる。

 だが、獣はとうにその身を退いている。

 それでいい。もとより退かせるための牽制だ。

 しかし――当てようとしても躱されてたな、あの動きは。

 あれか、飛翔する物体の、空気の擦過音でも察知しているのか?

 視覚がなくなったことで、聴覚が発達しているとか?

 素直に当てに行くのは難しそうだな。注意しておこう。


「――よっし、次の検証行くぞ! ついてこいッ!!」


 離れた獣に向けて、そしてカノンにも聞こえるように声を張って、空き地の外側へと逃げるように駆ける。

 少し戦場を変えるとしよう。


  ――……グァォ!!



 俺の掛けた声に応じるように、巨獣が追ってくる。


 緩慢な狩りは、徐々に、剣戟相交わす闘争へと移行する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る