vs " Z "(1)

 10mほど先、目の前からゆらりと迫ってくる、1匹の獣。

 胴体に穿たれた2本の鉄杭を体躯の下に引きずりながら、じわりと近づいてくる。

 四つ足で立ったその高さは、俺の胸の高さほどある。

 黒い鼻梁から、伏せるように曳かれた尾までの長さは、3mほど。

 自動車かと見紛うほどの、大きな体躯。

 現実では決して出逢うことのないであろう、巨大な獣。

 その姿は、『犬』における最初のイベントで、俺を殺した獣に似ている。

 異常進化し、幾多の人を殺戮し、その死肉を喰らい続けた、アミー種の獣。

 アルファやらブラボーやらの個体名が与えられたそれらに準じて、目の前の獣を名付けよう。


 ―― " ズール " 。


 お前が、この世界で出逢う、最後の異常種であると信じたい。



 *────



「んじゃ、行ってくる」

「んっ」


 敢えて気楽にそう言って、カノンに道具袋を渡す。

 手に持つは一振りのナイフのみ。

 今回の探索に来る前に作ったばかりの、花崗岩製のボウイナイフ。

 生憎試運転もまだだが、せめて簡単に壊れてくれるなよッ!!


「では――行くぞ、ズールッ!!」


 裂帛の掛け声を放ち、前方左手へと駆ける。

 目の前から近づいてくる獣の左側に、距離を離して回り込む。

 身体の前面は、つねに獣の方に向けたまま。

 なにが来ても、なにが起こっても対応できる。

 さぁ、まずはどう出る……!?


   ――……っ


 獣の頭は、横手を駆ける俺を追うように、ぐぐっ、と動き。

 しかし、その振り向く速度は、俺が駆ける速度よりも遅い。

 その四つ脚がなんらかの動作を始める前に、俺の身体は獣の横を通り過ぎる。

 そうして俺は、獣の後方――獣のいた、空き地の方へ。


「――おいおい、鈍いぞッ!!」


 獣の方を向いたまま、煽るような声を掛け、バックステップを繰り返して距離を取る。

 獣もまた、こちらを追うように、その巨体を旋回させる。

 10mほど距離を離したところで、その動きを観察する。

 その動作は、明らかにぎこちない。


(……なんだ、あの動きは?)


 眠たい、とか。だるい、とか。

 そんな感じの、緩慢な印象を受ける。

 アミー種特有の俊敏さがまるで感じられない。

 身体を穿つ2本の鉄杭に動作を制限されている、というよりは……

 最初から機敏に動こうとしていないかのように見える。

 そもそも、かたちを保ったまま動けているということが、もうどうしようもなく理解できないのだけれど。

 しかし少なくとも、目の前の獣の身体は、十全な状態ではないようだ。


「……こっちだッ!! 来い、ズールッ!!」


 再び声を掛ければ、その獣はゆっくりと、こちらの方に動き出す。

 四つ足を動かして、のしのしと。

 どの足も、庇われたり引きずられたりしているような様子はない。

 頭部を見れば、開かれた眼孔に瞳はない。

 前に倒れた細長い三角耳が、時折、思い出したかのようにピクリピクリと動く。

 中途半端に開かれた口吻からは、滴るものはない。

 獣特有の荒い息遣いのようなものは、聞こえてこない。

 その身に穿たれた鉄杭が、地面をひっかく。

 獣が移動した後ろには、擦過痕以外の痕跡は――ない。

 血液、体液、腐り落ちた雫、化学溶液、その他もろもろ。

 そうしたものが、滴っているということはない。


(……。)


 この獣が、どういう状態なのか。

 それがいまいち、見えてこない。

 こいつは――生きているのか?


 それはわからないが、ここまでの観察で、思い当たったこともある。

 獣の向こう側、不安げな表情でこちらを見つめるカノンに、ジェスチャーを送る。

 口元に、1本だけ立てた人差し指を当てる。

 カノンが頷いたのを確認し、更に下がりながら叫ぶ。


「眠そうなとこ悪いが――ちょっと検証に付き合ってくれッ!!」


 昔馴染みのよしみって奴だ。

 お前の近況、ちょっと聞かせてもらおうか。



 *────



「こっちだッ!!」


 引き続き声を出しながら、獣が横たわっていた空き地まで戻ってくる。

 身体は獣の方に向けたまま、更に下がり、獣が横たわっていた地点まで下がる。

 足元を見れば、半径2mほどの、植物の生えていない、円状に露出した土壌がある。

 そこには、なにか輪っかのような形をした、赤錆びた金属片が無数に散乱している。

 そのどれもが、割れ欠け、ボロボロに崩れてしまっている。

 その一つをグローブ越しの指先で摘まみ上げてみれば、ほろりと砕け散る。

 それはもはや、脆い砂の塊のようだ。

 露出した土壌の中央付近には、2か所、なにか太い柱のようなものが刺さっていた穴の跡がある。

 その跡は、単になにか刺さっていたものが抜けたという感じで、特にそのなにかを固定していたような機構は見受けられない。

 穴の内側には赤茶色の錆が付着している。

 鉄杭は、随分と長い間、ここに刺さっていたらしい。


(……。)


 それらの痕跡がもたらす推測をまとめあげながら、眼前を見据える。

 向こう側にいるカノンのことなど気づいていないかのように、こちらに近づいてくる獣。

 その体毛は色素が抜け落ちたような色褪せた灰色。


「なぁ、ズール。……お前、いつから寝てたんだ?」


 声を掛けたところで、答えが返ってくるはずもないだろうが。

 それでも、言葉を掛け続ける。


「なぁ、ズール。……お前、どうして起きたんだ?」


 俺たちが近寄ったことで、ズールは起きた。

 俺たちの接近が、ズールの覚醒を促したことは、おそらく間違いない。

 だが、俺たちの接近の中に含まれる、どの要素が、お前を目覚めさせたんだ?


「なぁ、ズール。……お前、どうして寝てたんだ?」


 足元、散乱する金属片。

 錆び果てた、鎖のようなもの。

 それらはとっくの昔に風化し、劣化し、その強度を失っている。

 金属の鎖が、砂のように脆くなるほどの、遥か昔に。

 獣の身体を拘束していた縛めの効力は、とうの昔に失われている。


 ――そして、もう一つ。

 この鎖のようなものは、先ほどまで獣の身体に纏わりついていた。

 一度崩れ落ちた鎖は、もう二度と、その身体を縛ることはないはずだ。

 ならば。


 晴れの日も、雨の日も。

 轟轟と風の吹く台風の日も、ガラガラと鳴り響く雷の日も。

 雨風に晒され、その身を自然の猛威に晒しながら、眠っていたのか?

 俺たちが来るまで、お前は、悠久の時の中で、目覚めなかったのか?

 ただの、一度も?


   ――……


 じりじりと近づいてくる獣から目を離さぬまま、ズボンのホルダーから1本の石楔を抜き取る。

 その先端を、茶色い土壌を覗かせる地面に当てる。

 その柄尻を、同じくナイフの柄尻で、強く叩く。


  ――カァンッ!!


 石同士がぶつかり合う硬質な音とともに、楔が地面に打ち込まれる。

 楔はその身を半分ほど地面に食い込ませて、垂直に立つ。

 石灰色の花崗岩は、茶色い土壌を背景に、遠くからでも見えやすいだろう。


(……よし)


 響かせた音に反応したのか、そうでないのか。

 5mほど先、動きの仔細が観察できるぎりぎりの距離。

 こちらを見る獣が、唸るような仕草とともに、その身を低く伏せる。

 杭の刺さったままの右前脚を前に、左前脚を少し後ろに。

 後ろの両脚は、折りたたむように小さく竦める。


「……そろそろ、目ェ、醒めてきた感じ?」


 空気が、重くなる。

 呼吸が、少しだけ苦しくなる。

 空間の密度が、一段階上がった。

 なにかが、始まろうとしている。


 軽く足を広げて、正面から相対する。

 俺は、目の前の獣のポテンシャルを知っている。

 その本領が発揮された時、どこまで至るのかを知っている。

 そして、それ以上をも想定するならば、どれだけ警戒してもしたりない。


   ――……


 音も、動きも、時間までも。

 なにもかもが止まったような、一瞬の静寂ののち。


 獣の四肢が強張る。

 その体躯が、ぎゅっと縮むように引き絞られる。

 ……来るッ!!


   ――……ッ!!


 ズァッ、と、獣が巨大化したような錯覚。

 いや、錯覚ではない。

 引き絞られた体躯が、瞬時のうちにわずかに膨張し、その巨躯を前方へと撃ち出したのだ。

 すなわち――こちらへ向けて。


「うおおおぉぉぉっ!?」


 巨体を貫く2本の鉄杭も、まるで己が身体の一部に過ぎないと言わんばかりに、巨大な獣がこちらに向けて突進してくる。

 先ほどまでの鈍重さとは話がちがう。

 これは、紛れもなく狩りに来ている動きだ。

 回避方向は――以後、左で固定ッ!!


「ふっ――!!」


 身体を左に跳ね飛ばし、前傾に保った姿勢を獣の方向に向けて着地。

 そのまま後退すれば、ほどなくして俺が立っていたあたりを、獣の前足が薙ぐ。

 ズザァァ、と、巨体が地面に擦りつけられる音がする。

 ……やはり、か。


「……ズール。おまえ……見えてない、な?」


 俺の声に応えるように、ずい、とこちらに向けられた、獣の眼孔。

 そこには、なにもない。

 そこには、眼球がない。

 ただ、暗い孔だけが開いている。

 だから、見えているわけがないのだ。

 俺のことを、視覚で捉えているわけがない。

 だが――


「――……っ」


 足音を殺したまま、じわりと右後方へ。

 獣の暗い眼孔は――こちらを追ってくる。

 その身体が再び、ぐっと弓を引き絞るように伏せられる。


(……音だけ、じゃない、か)


 元より、そんな気はしていた。

 最初にこいつから逃げたとき、20メートルほどの距離を一息に離したのにも関わらず、こいつは俺たちの方向へ過たずに近づいてきた。

 俺たちが、獣に届かないくらい声を潜めて話していても、獣はまっすぐ近づいてきた。

 だからたぶん、こいつが感覚するのは音だけではないのだ。

 匂いか、熱か。それとも別のなにかによっても、世界を視ている。

 大抵の獣が、そうするように。

 視覚が失われても、別の感覚器官によって、俺たちを把捉している。


 現状のところ、その把捉手段の中でもっとも優先順位が高いのは、音のように見える。

 基本的には耳、すなわち音で周囲を把握し、それでわからなくなったら他のなんらかの手段による把握に切り替える感じだろうか。


(……わからん、な)


 決めつけるのは危険、その事実に変わりはない。

 今わかるのは、どうやら音に強く反応しているらしいということだけだ。

 それ以外については、動作も見ていない、単なる憶測にすぎない。

 静かに動いたはずのこちらの姿を追えているのだって、俺が殺したつもりの足音すらも拾い上げているだけという可能性もある。

 そもそもこいつに、そういう常識的な理解を当てはめていいのかもわからない。


 巨獣の身体が、再び膨れ上がる。


   ――……ッ!!


「――っ!?」


 先ほどと同じように、左手に跳ね跳び、大きく回り込むようにして突進を躱す。

 だが、気のせいでなければ――


(さっきより、速く――)


 轟ッ、という風鳴りの音すら錯覚しそうなほど、高まる圧力。

 地に手をついて、獣のように身を屈めたまま前を見れば、先ほどまで俺のいた場所に振り下ろされる、獣の前脚。


  ――ズザァァァンッ!!


 大質量が地面に打ち付けられるとともに、地面が微かに揺れる。

 そして――ぐるり、と、迷いなくこちらを向く獣の頭部。


(……っまちがいない!!)


 音だけじゃない。

 なんらかの方法で、こいつは俺のことを把捉している。

 この分だと、音を囮に使う戦法も、そう上手くいくとは限ら――


   ――……ォ!!


「うおぉっとぉぉぉい!!?」


 直後、ノーモーションでかっ飛んできた巨体を低く躱す。

 地面から跳ね飛ばすように身を持ち上げ、たたらを踏むようにして数歩下がる。

 そこに、


   ――……ッ!!


 再び巨体が飛んでくる。

 左方向へと跳ねるように後退しながら、目の前の獣の行動パターンが変化したことを察する。

 飛び掛かるような動きではなくなった。

 一息に仕留めるような動きではなくなった。

 俺のいた場所を、薙ぐようなことはしない。

 俺がその場所にいることを、想定していない。


   ――……ォ!!


 これは――追い立てる動き、だ。

 逃げる獲物を追いかけ、消耗させ、

 動きが鈍ったところで、一息に仕留める。


   ――……ッ!!


 肉食動物による、狩りの動きだ。


「――おいおい、寝てる間に、狩りの仕方も忘れちまってたのか?」


 地を跳ねるような急制動を繰り返して、愚直な突進を回避。

 ここまで、随分らしくない動作を繰り返すと思ったが……まさか本当に忘れていたのか。

 それとも、ここまではただの慣らしだったのか。

 あるいは、俺という獲物を見極めようとしていたのか。

 わからないが――どうやら目の前の獣は、ようやくエンジンが暖まってきたらしい。


「差し詰め俺は、鈍った狩りの腕前の練習台か?」


 これほどの巨獣。本来のスペックは、全然、こんなものじゃないはずだ。

 悠長に観察しながら、こいつの攻撃を回避できているということ自体がおかしい。

 その巨躯にどれだけの筋肉が残っているのか、どれだけの劣化が起こっているのかはわからないが、今のところのこいつのスペックは、往時の10%にも満たないだろう。

 速度、瞬発力、旋回性能、破壊力。

 視野の広さ、判断の速さ、動作の連続性、立ち回りの狡猾さ。

 どれをとっても見るに堪えないほどだ。


 だが――

 徐々に、その動作が、鋭くなりつつあるような気がする。


   ――……


 暗い眼窩でこちらを見る獣の、ビクリビクリと痙攣するように動く耳。

 半開きの口が、ゆっくりと開かれ、そこに並ぶのは――綺麗な白い牙。

 きちんと生え揃った、鋭い牙。


(……こいつ、どういう状態なんだ?)


 動けていることがおかしいのは当然だが、そもそも形を保っていること自体がおかしい。

 なぜ腐り落ちていない?

 なぜ毛が抜け落ちていない?

 なぜ皮膚が分解されていない?

 なぜ筋肉が残っている?

 なぜ牙が残っている?


 そもそもこいつは、まともな生き物なのか。

 その答えは、恐らくノーだ。

 こいつの存在は、明らかに異常がすぎる。

 では、どこがどのくらい、まともじゃないんだ?

 どのように、まともじゃないんだ?


   ――……


 こちらにじりじりと近づいてくる、奇怪な獣。

 目の前の動物を、自身の脅威となる存在ではなく、狩る対象として認識したのか。

 死力を尽くして戦う必要はないと判断したのか。

 距離を詰めるように、逃げ場を潰すように、正面から近寄ってくる。


 ――いいだろう。

 もうしばらくは、お前の狩りに付き合ってやろう。


 まだまだ知れないお前の正体、お前の底。

 それが見える、その時までは。

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