どろどろ(1)

 フーガくんは、大人だ。


 それは、かれの大人びた立ち居振る舞いを指した比喩表現ではなくて。

 かれは、成人している。

 わたしより4つ年上で、いまは25歳のはず。

 社会に出て、はたらいている。

 社会的な事実として、れっきとした大人だ。


 はじめてフーガくんにあったとき、かれはまだ大人ではなかった。

 6年前、わたしがはじめて『いぬ』の世界を訪れたとき。

 かれはまだ、19歳の大学生だった。

 かれはその時は社会的には子どもで。

 でも、まだ15歳だった私から見れば、もうすっかり大人だった。


 かれと親しくなって、かれのことを知った。

 大学生で、一人暮らしをしていて。

 ゲームが好きなのに、勉強も嫌いじゃないらしい。

 かれが大学で、いったいなにを学んでいるのかは、ぜんぜんわからなかった。

 かれは理系だとか、文系だとか、そういう括りで勉強していなかったみたいだ。

 いろんなことを知っていた。

 いろんなことを教えてくれた。

 たぶん、かれは教えようというつもりで喋っていたのではないだろうけれど。

 かれの話を聞いているだけで、わたしは世界に詳しくなったつもりになれた。


 4年前、『いぬ』が終わるまえ。

 かれは、21歳の大人になっていた。

 それでも、かれはまだ大学生だった。

 わたしにとっては最初からずっと大人だったかれ。

 19歳だろうが、21歳だろうが、あまり大した差は感じなかったのだ。

 成人したことで、かれの中でなにかが変わったようには見えなかったから。

 前と変わらずはしゃいでいたし、前と変わらず輝いていた。

 かれはかれらしく、あるがままに『いぬ』を遊び続けていた。

 前と変わらない態度で、わたしたちと、接してくれた。


 たぶんかれにとって、大人になるということは、20歳を超えるということではなかったのだ。

 だからかれは、わたしにとって、変わらず「大人」のままだった。

 そしてわたしもまた、かれと出逢ってから別れるまで、ずっと高校生だった。

 だからわたしは、安心して、かれとの時間を味わうことができた。

 かれが、変わらなかったから。

 わたしも、変わらなかったから。

 お互いの立場が変わらなかったから、安心して、心地よい泥濘に浸ることができた。

 そのまどろみが、永遠に続けばいいと、そう思った。


(……。)


 でも――4年前。

 わたしはそのまどろみから叩き起こされてしまった。

 『いぬ』が終わってしまったから。

 わたしとかれの間にあった世界。

 それが、なくなってしまった。

 かれが輝く世界が。

 わたしがまどろむ世界が。

 なくなってしまった。


 わたしは、あまりにもそれが耐えられなくて。

 あの世界で充足させていた、わたしの衝動を、抑えきれなくて。

 あの世界で与えられていた、しあわせな刻を、引きずりたくて。

 わたしは、小夜ちゃんと、デューオくんに相談した。


 そうしてわたしは、4年前のあの日。

 現実で、フーガくんに会うことができた。




 そして。



 そこで、わたしは失敗した。




 あの世界で充足させていた、わたしの衝動。

 あの世界で与えられていた、しあわせな刻。


 子どもだったわたしは、

 その2つを、分けて考えることができなくて。

 その2つが、ちがうものだと思っていなくて。

 わたしを焦がす存在が、あまりにも大きすぎて。

 その光が、あまりにも眩しくて。

 わたしの後ろに落ちた2つの影に、ちがいがあるなんて気づかなかった。


 だから、おろかなわたしは、おねだりをしてしまったのだ。

 ぜったいにしてはいけなかった、そのお強請ねだりを。

 すべてをこわした、その言葉を――



  ――ブジィッ


っ……!」


 なにも見えない暗闇の中。

 素足の裏で、なにか鋭いものが走る。

 じわりと、なまぬるい液体が、足裏を伝う感触。


(……。)


 足裏の皮膚が、ひきつれたようにびくりと震える。

 脚に力が入らない。

 膝から崩れ落ちそうになる。


(……ちがう)


 力が入らない、わけじゃない。

 この身体が、その傷口をかばえと、そう言っている。

 切れた足裏を、地面につけるなと。

 脚に力を入れるな、大きく動かすなと、言っている。

 そう言っている――だけだ。



  ぺちゃっ――



 傷口を、硬い岩の上に落とす。

 甘い愉悦が、この身を満たす。

 ぞくぞくと、背筋に震えが走る。

 久しく感じていなかったもの。

 満たされる、どろどろとした衝動。


 なまぬるい液体が、足裏を滑らせる。

 傷口から漏れ出るそれは、止まらない。

 思考を染める、本能の警鐘。

 ちかちかと脳に電気が走る。


 痛い。熱い。

 冷たい。さむい。

 びくりと痙攣するあし。

 視界が明滅する。

 予感に震える。

 このままでは――になる。



(……ぅ、ふふっ――)



 だから、だめだったのに。


 ここまで必死に我慢してきたのに。

 一度思い出せば、止まらなくなると分かっていたから。

 また味わいたいと、思ってしまうから。


 4年前までは、毎日のように満たされていたもの。

 4年間、まったく満たされなかったもの。

 わたしの、影。

 どろどろ。


 あの日、わたしとフーガくんのあいだを引き裂いた衝動。

 それを充足させることを、わたしはあのときから禁じた。

 このどろどろのせいで、わたしは失敗したのだ。

 だから、ありとあらゆる手段で抑えつけた。

 でもわたしの力だけでは抑えきれなかった。

 誰になにを言われても、とまらなかった。

 だからわたしは、別の衝動を満たして。

 その衝動を、ごまかすことにした。

 どろどろに呑まれそうになったときに、

 それを忘れられるほどの、強い衝動。

 それを塗り潰せるほどの、強い悦び。

 そのために、家を引っ越しまでして。

 わたしは、その衝動を押し込めた。


 そうしてここまで、とめてきたもの。

 そのどろどろが、あふれだそうとしている。

 もう、とまらない。

 とめられない。

 だって、とめるりゆうがない。

 ここは『いぬ』とおなじで、

 それをしてもよくて、

 いまはフーガくんも、いない。



  ――――ァァァァァ――――



 前方から、微かに音が聞こえる。

 暗闇の先にある、ほんの少しだけ明るい暗闇。

 それは、この亀裂の果てだ。

 この亀裂には、果てがあるのだ。

 この亀裂は、100mもの厚さの岩壁のなかを、最後まで走り切っている。

 あのとき、この亀裂の奥に見えた、小さな光。

 それは、この岩壁の果ての光。



  ぺちゃっ―― ぺちゃっ――



 このセドナは、高地だ。

 セドナの南の岩壁の向こうには、なにもない。

 遥か眼下に地上を見下ろすだけだ。


 セドナの南を遮断する、火成岩の岩壁。

 その岩壁を、潜った先にあるものは。



   ァァァァァアアアア――――



 雨の音が、聞こえる。



(……。)



 目の前にある、洞窟の暗闇よりも少しだけ明るい、仄暗い闇。

 なまぬるい液体でぬめる足裏を滑らせながら、その闇の方へと歩を進める。



   ザァァァァァアアアア――――



 平たい面を打ち付ける、雨粒の音。

 まったく、見えないけれど。

 どうやら、この亀裂を抜けた先には、地面があるらしい。

 躊躇なく、その先へと進む。



 途端、冷え切った身体に打ち付ける、雨。

 なにも見通せない闇。

 そして――



  ――ヒュォォォォオオオオ



 夜闇を引き裂き、雨粒を横薙ぎにする、強い風。

 ここは、崖のそば、かな。

 だいたい、予想通り。

 降り頻る雨の中で、わたしは、目をつむる。

 見えていないなら、つむってしまえばいい。

 そうして、いつかフーガくんに教えてもらったやり方を、真似してみる。


『雨が地面を打つ音って、けっこう強いからさ。

 雨が降ってるときに目を瞑って耳を澄ませると、暗闇のなかでも、

 まわりに足場があるかないか、どんな質感なのかとか、意外とわかったりするぞ。

 ……テレポバグ先が地底湖だったりしない限りは、役に立つ機会のないテクニックだけどなっ!』



  ザァァァァァアアアア――――


 目の前から、雨音が聞こえる。

 ……1歩、2歩進む。


  ザァァァァアアア――――


 目の前から、雨音が聞こえる。

 ……1歩、2歩進む。


  ザァァァアア――――


 目の前から、雨音が聞こえる。

 ……1歩、2歩進む。


  ザァァァ――――

       ォォォ――


 目の前から、雨音が聞こえる。

 でも、まわりからは、あまり雨音が聞こえなくなった。

 代わりに、下の方から吹いてくる風を感じる。


 さらに、1歩だけ進む。


  サァァ…… 

     ヒュォォォ――


 目の前から聞こえていた雨音が、少なくなる。

 代わりに、下の方から、風の音が聞こえる。

 まわりからは、相変わらず、あまり雨音が聞こえてこない。

 代わりに、下の方から吹いてくる冷たい風を感じる。




 ……。



 なにも、見えないけど。


 冷たい雨と、冷たい風しか感じないけど。



 たぶん、この先が、


 この地面のてなんだよね、フーガくん。

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