楔(2)

    ザァァァァアアアア――――



   ぴちゃ ぴちゃ



             ――――ァァァァアアアア



   ずぶっ ずぶっ




 インナースーツ越しに打ち付ける、雨。

 生地に染み入ってくるその冷たい水は、わたしの身体から熱を奪う。

 なにも覆うもののない素足は、濡れた地面をこすり、湿った音を立てる。


 小石を踏むたびに、刺すように痛い。

 水溜りに足をつけるたび、灼けるように冷たい。

 痛くて、冷たくて、痺れて。

 すぐに……なにもわからなくなる。


(……あ)


 そういえば、フーガくん、さいしょ、裸足だったよね。

 この世界ではじめてあったとき、かれはいまの自分と同じ格好をしていた。

 そうして同じように、この樹林帯を歩いていた。

 足裏が気になるのか、ちょっと歩き方が変だった。

 歩く速さも、途中からちょっぴり遅くなっていた。

 かれと同じ体験をしていると思うと、少し心が暖かくなる。

 暖まる心と、冷えていく身体。

 痺れていく手足。


(……う)


 ……つめたい。

 ちょっとさむい、かも。

 でも、そんなに長く歩くわけじゃないから。

 だから、だいじょうぶ。

 わたしは、あるける。

 そこまで、たどりつくことができる。

 さまようように、歩き続ける。

 迷うことはない。

 まっすぐ、まっすぐ。

 歩き続けるだけだから。



 *────



(……ふーが、くん)


 いっぱい、歩いたなぁ。

 フーガくんと再会して。川から拠点へ。

 拠点からマキノさんのところへ。

 マキノさんのところから拠点へ。

 拠点から北の倒木へ。北の倒木から拠点へ。

 拠点から川へ。川から南へ。

 モンターナさんのところから南の岩壁へ。

 岩壁を登って、岩壁の果てへ。

 岩壁の果てから、岩壁の下へ。

 岩壁の下から岩場へ。岩場から拠点へ。

 拠点から川へ。川から北へ。

 セドナの中央へ。セドナの中央からまた拠点へ。


 そうして――それだけだ。

 わたしがあるいた道のりは、それだけ。

 そのすべてが、フーガくんと歩いた道のり。

 フーガくんと過ごした、しあわせな時間。


(……手、大きかった、なぁ――)


 ずっと不思議に思っていることがある。

 わたしはそんなにわかりやすい人間だろうか。

 そんなことはないと思う。むしろ逆だと。

 どちらかといえば、陰気で、根暗で、口下手で。

 感情表現も下手で、想いもうまく伝えられなくて。


 それなのに。


  『ちょっと首まわりがれてるかも。――任せてみ』


 なんで。


  『カノンは、今回の探索でなにか、したいこととかある?』


 どうして。


  『――いいぞ』


 なんで、フーガくんは。

 わたしのして欲しいことが、わかるんだろう。

 わたしのして欲しいことを、してくれるんだろう。

 わたしはそんなにいやしい顔をしていたのかな。

 ねだるような顔を、してしまっていたのかな。


 4年前の、あの日と同じように。

 彼におねだりを、してしまっていたのかな。


(――っちがう。……ちが、う)


 ちがうんだ。

 わたしは、もう、ちがうはずだ。

 変わらなかったけど。

 変われなかったけど。

 でも、もう、わかってはいるはずなんだ。


 4年前のあの日、わたしがねだったものと。

 この世界で、わたしがねだっていたものが。

 同じでないということに。

 ちがうということに。

 わたしは、そのちがいを知って、この世界に来た。

 それらは一緒にしてはいけないのだと知って。

 今度こそ、まちがえることはないと誓って、フーガくんに手紙を出した。


 4年前のあやまちを、やりなおすために。

 離れてしまった彼との距離を、もう一度、縮める。

 あやまちの、やりなおしの機会を、もらうために。


 でも。


 でも――



 *────



 どれくらい歩いたのか。

 やがてそれは、わたしの前に姿を現した。


(……。)


 まるで暗い色のカーテンのように前方を閉ざす、岩の壁。

 拠点の真南にある、花崗岩の岩場。

 以前、フーガくんと散策した場所

 トンボみたいな生き物に出逢ったり、花崗岩を拾ったりした場所。


 そして―― それだけでは、ない。


 暗い色に染まる岩壁の、わたしの目線より高いところにある、段差の上。


 そこに、黒より黒い穴が、開いている。


 そこに、亀裂が空いている。


 岩壁を縦に裂くようにして開く、大きな亀裂が。


(……。)


 わたしは、かつて、その亀裂を覗き込んだ。

 そして、その亀裂の先にあるものを知った。


 あのとき、わたしはとまることができた。

 フーガくんがいたから。

 フーガくんのくれたケープが、わたしを引き留めてくれたから。


 あの岩壁の果ての向こう側に行きかけたときも。

 かれは、わたしの手を引いてくれた。

 致命的な過ちを犯そうとしていたわたしを、とめてくれた。

 あの向こう側に行っては行けなかった。

 死に戻りしてはいけなかった。


 だって、そんなことをしたら。

 かれがくれたケープを、永遠に失ってしまうだろう。

 それは、ゆるさない。

 わたしがわたしを、ゆるさない。


 首元に手をやる。


(……。)


 そこには、ケープはない。

 ここには、フーガくんはいない。


(……っ)


 だから、いいんだ。

 もう、わたしは、とまらなくていい。


 亀裂への入り口がある、岩場の上に手を掛け、無理やりに這い上がる。

 擦れた膝に鈍い痛みが走ったが、どうでもいい。

 こんな身体なんて、どうでもいい。

 わたしにとっては道具でしかない。

 わたしの愉しみのための、道具でしか。


 暗い亀裂がある。

 中は、漆黒の闇。

 いまは夜目をつけてきていない。

 そもそも、いまは深夜、大雨、星明りさえ射さない夜闇。

 この状況では、夜目があってもなにも見えないだろう。

 とてもではないが、この暗闇の中を、まともに進めるはずがない。


 ならば、まともに進まなければいいだけだ。


 ひとは明かりがないところを歩けない。

 でもそれは、本当に歩けないというわけじゃない。

 なにかにぶつかるのがこわい。

 なにかに足を取られるのがこわい。

 なにが起こるかわからないのがこわい。

 自分の身体が傷つくのがこわい。

 そうした不安が、歩みを鈍らせる。


 でも、わたしはしっている。

 かつて、あの世界でそれを学んだ。

 いや、あの世界で学ぶ前から知っていた。

 わたしは明かりがないところを歩くことができる。

 走ることすらできる。

 こわくないから。

 なにかにぶつかることも、足を取られることも。

 なにかに襲われることも、迷って出られなくなることも。

 わたしは、それを恐れていない。

 わたしは、その先にあるものを怖れていない。



 暗がりに、足を踏み入れる。

 亀裂の中は、なにも見えない。

 中からは、なにも聞こえない。

 入り口から入った雨音が、反響するだけ。

 でも、わたしはこの亀裂の先を知っている。

 フーガくんと一緒に、この暗がりを覗き込んだとき。

 夜目の力によってそれを見た。

 この暗がりの、一番奥にあるもの。

 ほんの少しの、小さな、光。

 それが、意味するもの。

 この亀裂の先にあるもの。

 この亀裂を抜けた先にあるもの。


 暗闇の中を、一歩、二歩。

 進んで、そして。


 ……そこで立ち止まる。


 そうして、首元に触れる。

 わたしをとめるくさびは、ない。


 そうして、少し俯く。

 いいのかな。ほんとうに――いいの?


 ……。


 そうして――後ろを振り返る。


(……ぁ――)


 亀裂の外の世界。

 まっくらな、カオリマツの樹林帯。

 打ち付ける雨。止まない雨。


 そこには、誰もいない。

 フーガくんは、いない。


(……っ)


 ああ。

 もう、とまらなくていいんだ。


 ……行こう。

 この深い暗闇の中へ。

 一方通行の、暗闇の中へ。


 この暗闇の先にある、

 わたしのどろどろを落とすことができるところへ。



 *────



 岩場の傍に立つ、カオリマツの老木だけが。


 この亀裂に吸い込まれていった、少女の姿を見ていた。


 擦りむいた膝から流れ落ちた血は、雨によって流れ去り。


 小さな素足がつけた足跡も、雨によって消し去られ。


 亀裂の中に消えていった少女の、足跡を示すものは、


 ――もう、なにも残っていない。

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