3-17 帳消
「俺ですか!?」横山は驚いている。しかし冗談なんかではない。
三年生の中で圧倒的にレギュラーに遠退いていた横山。しかし、彼は繁村のバッティング指導を仰ぎ、最近は体幹も強化され、長打が打てるようになってきた。140 km/h代の速球は無理だが、120 km/h前後のボールには充分対応できる。しかも変に試合慣れしていない分、左のアンダースローという特異な軌道のボールでもついていけるのではないか。そんな希望的観測が生まれたのだ。
「代打、横山! 代走、釈迦郡!」
さらに確率を上げるためランナーも釈迦郡に代える。ここが勝負時の様な気がした。
「横山ぁ! 絶対打て! 打ったら何がいい!? デートけ?」
「
そう冷たく言い放った横山がゆっくり右打席に入る。
「メグルちゃん! 俺は?」
「さっさと一塁行けや、チャラ
釈迦郡には、俗に言う塩対応がここでも炸裂する。
横山は初球は空振りするも、スイングのタイミングは悪くない。釈迦郡がリードでしきりに揺さぶりをかけているからか、飛松はしきりに牽制球を放る。左ピッチャーで身体が一塁に向くので否が応でも釈迦郡による大きいリードは目につくことだろう。打者に集中できていないようだ。
ようやく横山に投じた2球目、甘く入った球を見逃さなかった。しっかり身体の軸を残して放った打球は、レフトの頭上を越えた。
楽々ホームインの釈迦郡をベンチが迎える。横山は二塁打。ここに来て3点差と2点差では雲泥の差だ。
「よっしゃ! 横山! アタシとデートっちゃ!」
「だから嫌やって!」二塁塁上でデートの誘いを断固拒否するシーンも珍しい。
続くバッターは畝原だが、繁村は畝原を代えることにする。足を痛めている選手を出したくない。
「代打、中武!」
サードの控えとして、実力は泥谷に肉薄している中武。同じくらいの実力ならできれば上級生を優先したい繁村だが、中武はどこまでもレギュラー獲りに貪欲で、いまのポジションに甘んじていない選手だ。もちろん普段からの繁村への、俺を使え、と言わんばかりのアピールも凄い。
しかし、いくら押せ押せの雰囲気でも幸運が続くとは限らない。三球目を強く叩いたが、惜しくもショート真っ正面のゴロ。これでは進塁もできない。一死ランナー二塁に変わる。中武は大いに悔しがる。
続いて泥谷。2点差で一死二塁。ここで送りバントでも良いのだが、最近この選手は何かやってくれそうな期待を抱かせてくれる。流れは
そのとき仕掛けたのは泥谷……、ではなくランナーの横山だった。初球から盗塁をしようとしている。盗塁のサインは出していないはずだが、と呟くと同時にランナーを黒木に代えておけば良かったと後悔した。
泥谷は盗塁を助ける空振りをする。しかし、横山は足が遅かった。三塁への送球は素晴らしかった。タイミングは絶妙だったが、アウト判定。二死ランナーなしに代わる。
「横山に盗塁の指示をしたんですか?」
ベンチの上から愛琉が聞いてきた。
「いや……」と否定した瞬間、「こら、横山! サインしっかり見ろ!」
愛琉が横山を叱咤する。これに関しては、サインの出し方が悪かったかもしれない。いつもキーとなるサインの次に触った部位で盗塁なのかバントなのかエンドランなのかそれ以外なのかを指示している。盗塁はキーである帽子のつばを触った後、あごを触るのだが、口を触ってしまった。あごと口のサインを繁村は使い分けているのだが、出場慣れしていない横山にとって、このサインは判別つきにくかったかもしれない。
「ナイスヒッティング。悪い、サイン見にくかったな」
「すんません。僕に盗塁なんて不自然でしたね」
「いや、走塁は悪くなかった」
横山をフォローする。バッテリーも盗塁を決められるようになって警戒されていたし、二盗より難しい三盗で際どいタイミングに持ち込んだのは、横山の走塁技術が向上しているということだろう。
カキン。そのとき快音が聞こえてきた。状況が変わったのに、繁村はサインを出し忘れていたことに気づく。とは言っても二死ランナーなしなのでサインも特にないのだが、と思ったら、白球はレフト方向に大きく飛んでいた。
「よっしゃあああー!!!」
愛琉の、もはや何かの獣の
続く銀鏡はあっさりと凡退。先ほどのデート帳消しが相当ダメージだったのか分からないが、とにもかくにも、ついに1点差まで迫ることができた。
七回裏は岩切がマウンドに立つ。先ほど畝原への代打、中武に代わる形で入る。岩切もこの大会強豪相手が続いてマウンドに上がるのは初めてだが、身体が鈍っているわけではない。むしろいつでも出られるように、山田を座らせては投げて身体を温めていた。ベンチに腰掛けて応援していることはあまりない。
岩切は畝原が先発のときは、レフトに就くことが多いが、本人はレフトとしてよりもピッチャーとしての出場にやり甲斐を見出しつつある。それでも一段高い土の上に立ち動きが硬いように見えるが、緊張というよりは武者震いが原因かもしれなかった。
レガースを装着している銀鏡に代わり、山田がキ投球練習中のキャッチャーを務める。少しずつ身体を慣らし、良い球質のボールがミットに吸い込まれている。
「七回裏、しまっていくぞー!」
レガースをつけ終わった銀鏡がキャッチャープレート上でナインに向かって叫ぶ。
この回は五番バッターからだが、異様なほど岩切は落ち着いていた。速球も畝原に比べれば見劣りするが、とにかく低めのきわどい球を丁寧に投げている。ガタイの良さからは相反するような、力任せではないピッチングで、きっちりとセカンドゴロに仕留めた。六番、七番打者もそれぞれショートゴロ、見逃し三振に仕留め、きっちりリリーフの役目をこなす。得点の次の回の守備のイニングを無失点、しかも三者で抑える意義は非常に大きい。
「ナイスピッチだ! フトイ!」
愛琉は岩切を讃える。ベンチの上にいる愛琉とはハイタッチできないが、右手グローブを軽く上げて、ハイタッチのジェスチャーを示した。
八回表。ここで綾高校はピッチャーを交代してきた。変則中の変則、左打者キラーの飛松を降板させ、右のオーバースロー投手、
こちらはとしても、どうしても出してやりたい選手がいたところ。それが左バッターなので都合が良い。
『下水流くんに代わりまして、バッター、黒木くん』
黒木は、数少ない外野のポジションを争う三年生だ。岩切がマウンドに上がるときはレフトの座につくが、今大会では岩切が投げる出番が少なく、守備の機会が少ない。比較的小柄でパワーはないが、素直な選手である。変な癖がなく、左打者なので右投手に相性が良いはず。そして俊足である。
「行けー、黒ユメ!!」
愛琉がガラガラの声で声援を飛ばす。
二番手のピッチャーは正直情報がないが、相手にとってもそれは同じことだろう。
ストレートとスライダーと思しき球を見逃し追い込まれる。出番が少ないだけあって経験不足は否めないが、それでもボールを2球見逃し、その後はファールで喰らいつく。
4球ファールで粘り、フルカウントまで持ち込んだ後、最後は思い切り引っ張った。しかしセカンド正面のゴロ。俊足も空しくアウトに打ち取られる。
「くっそー!」
ファウルグラウンドで天を仰ぐ。
「ナイスファイト!」ベンチはファウルで粘って少しでも執念を見せた黒木を讃えた。
続いて栗原。飛松が異色の投手で、その反動のように二番手、伊藤の投球フォームも投げる球もオーソドックスに見える。目立った特徴もないが、際立って悪いわけでもないように見える。
栗原にとって、そのような素直なピッチャーは、大の得意だった。正直、ドラフトで声がかかってもおかしくない逸材だと思っている。黒木が打ち取られたのと同じようなボールだが、ライト線のフェアの打球は長打コースとなる。快足を飛ばして、一気に三塁を狙う。ライトから良い送球が返ってくるが、見事三塁を落とし入れた。
「栗ちゃん! ナイス!」
これが勢いというものだろうか。一死ランナー三塁で若林を迎えた。綾の内野陣は集まっている。
さて、ここでどうしようかと繁村は悩んだ。スクイズを決めさせて同点としたいところ。悩んだ末にサインを送る。
初球はスクイズ警戒でキャッチャーが立ち上がって捕球する。敢えて外したのだ。繁村は初球スクイズのサインは送っていない。駆け引きだ。何となくだが、2球目も外してくるような気がした。この投手は飛松と異なりクイックモーションでも乱れにくいような気がした。それは投球練習のときにそう思った。だから、敢えて2ボール0ストライクまでは外してくるのではないか。予想どおり2球目もキャッチャーが立ち上がりピッチアウト。
次はきっとストライクを投げてくるだろう。そう思って四番打者にスクイズのサインを送る。
しかし、3球目も捕手はスクイズ警戒で立ち上がりピッチアウトしてきた。しまった、と歯噛みする。しかしながら、若林は低身長ながら右手を伸ばしボールにバットをコツンと当てた。ダイヤモンド内にボールは転がり、ピッチャーは前に突進する。後はバッテリーと栗原との競争だ。栗原は最高のスタートを切っていた。ボールがトスされる頃には、ヘッドスライディングでホームベースにタッチしていた。チーフアンパイアが横に手を振る。七回、ようやく同点に追いついた。
靏野が与えてしまった失点はここで帳消しとなった。
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