第78話 スミレとG線上のアリア
その夜、自分はベッドで幼い頃のフラッシュバックと突然襲い来る吐き気に悩まされていた。
自分は自殺の衝動とも戦っていた。
夜通し震えが止まらず、いつベランダから飛び降りるのか、自分でも恐ろしくてたまらない。
ベッドで横向きに、目を見開いて、震え続けている。
その目の奥には、幼い頃の情景がありありと浮かんでいた。
母親が自分を無視して、義父と楽しそうに外にでる風景。
義父が、浮気相手と会っているのを悔しそうに眺めている母。
義父の浮気がきっかけで、母の怒りが頂点に達している。そんな生活の中、ふと茶をこぼしてしまった自分を般若の顔立ちで打ち据える母。
自分こそは彼らのように修羅の住人にはなるまい、それを誓ったはずなのに、それ以上に堕ちてしまっている。
しかし自分を苦しめているのは、それそのものではない。
今目の前で、自分にとって無き者だった母以上の存在が、幻影と戦っている自分を抱きしめている。
「・・出て行け・・俺にこれ以上かかわるな・・!」
自分は震えながらみどりにそういった。
吐き気と頭痛がとまらない。
みどりが自分にやさしくしようとすればするほど、自分は自分への攻撃をやめない。
銀次郎はただ目を見開いて、震え続けている。
そんな自分をみどりはやさしく抱きしめていた。
「・・だいじょうぶ・・だいじょうぶ・・。」
呼吸も荒くなって、鳥肌がでている。
一体自分はどうしたのか。ここまで弱かったのか銀次郎。
震え続ける自分をみどりはやさしく抱いて、自分の髪を手櫛でずっとなで続けている。
際限なく襲い来る緊張と吐き気・・
いつのまにか自分は疲れ果てて、眠りに落ちた。
翌朝、自分が起きると、みどりは台所に立っていた。
「おはよう・・まっててね・・おかゆ作ってるの。」
まだ自分は放心状態だった。
昨夜のような経験は初めてだ
みどりのやさしさが発端となったのか、自分の罪悪感が自らの心を責め苛み、自己崩壊寸前だった。
フラッシュバックが現実に起こるとああなるともわからなかった。
フラッシュバックの渦中は、幼い頃住んでいたアパートの匂い、母の香水、義父の汗の臭いまでがリアルに感じられた。
「・・やめてくれ!」
と気が狂いそうになったところで、みどりが表れ、自分を抱きしめた。
そんな夜が明けた。
「・・あのね・・バナナのジュースだとかそういうのが吐き気に効くそうよ・・ミックスジュースにしているの・・まっててね。」
自分はそんなみどりに返事せず、半ば放心状態になり、椅子にすわってうなだれていた。
みどりがおかゆなど朝食を用意した。
彼女は自分の横にすわり、スプーンでおかゆを口に運んでくれた。
思えば自分ほどのわがままな男もいない。
地元の会社で働く自分には、友人はほぼいないに等しいにせよ、会社があって、そこでの知り合いがあり、社会での接点がある。
みどりほどの将来を誓った女がいるのに、あろうことかY子という存在までいるのだ。
一方みどりはどうか。
自分との諍いもあって過去と決別し、周囲の人間とは連絡を一切断ったようだ。
彼女自身、しゃべりたくない過去もあるだろう。
しかしそれ以上に、彼女は銀次郎のためにも過去を封印しようと心に決め、携帯電話に2度と電源をいれず、友人とも家族とも接触が無い。
幽閉状態に近かった。
いかに銀次郎と2人でやっていこうと思っても、どれだけ故郷から遠く離れて辛かったか。
彼女は自分がY子を抱いていた夜も1人で耐え抜いていたのだ。
自分がそんなこんなを考えていて、相変わらず椅子で放心状態になり座っていると、彼女はおもむろにこういった。
「・・あのね・・銀次郎さん、この前、銀次郎さんにバイオリン買ってもらったでしょ。・・それね、弾いていい・・?」
そういえば、ふだん何かを買ってくれとはほとんどいわないみどりが珍しく
「・・わたしバイオリンがほしいな・・」
と言ったことがある。
彼女は大学でバイオリンをしていたらしい。
そこで銀次郎は、ふだんのお礼の気持ちもこめて以前に買ってあげたのだ。
一方で彼女がそのバイオリンを実際弾いたのを見たことがない。
彼女はなぜかあまり弾こうとせずに、時たま触った形跡はあるものの、過去を思い出すのか、少なくとも自分の前で演奏したことはなかった。
そのみどりが銀次郎の目の前で今弾くというのだ。
「・・じゃあ、はじめるね・・」
静かに彼女の演奏が始まった
聴いたことがある、音楽の知識がほぼない自分でも分かる。
たしかこれは”G線上のアリア”だ。
春の朝陽のやさしい光につつまれながら、みどりがそれを弾いている。
彼女の奏でる音色ひとつひとつは、百万言の言葉より効果があった。
その旋律が自分にやさしくささやいているように思えた
”・・・あなたを愛している。だれよりも、なによりも。”
誰かがいったことを思い出した。
赦しとはスミレの花と同じだと。
だれかに踏みにじられたその後、踏みつけた者のかかとでやししくその香りを放つという。
その”G線上のアリア”はそういう意味で、スミレの匂いを銀次郎に届けていた。
演奏が終わるとミドリはバイオリンを静かに傍らに置き、銀次郎をやさしく抱くとこう言った
「・・あなたが今ここにいてくれて、私ほんとうにしあわせ・・・・・。」
みどりの肩越しに、自分は目にあふれる何かを感じてしまった。
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