第76話 重い抱擁
とりあえず無事空港まで書類を届けることに間に合った自分は車に入ると、どっかりと腰を落として力が抜けてしまった。
Y子は覆い被さってきて口づけをしてきた。
「・・さっきまで吐いてたんだ・・口が汚いだろ・・やめろよ・・」
そう言ってもY子はやめず自分を抱きしめてきた。
ひとしきりその抱擁がおわると自分の肩越しに彼女は悲しそうに言った
「・・なんであれぐらいのが汚いん・・・、ぎんちゃんもっとすごいのいつもわたしに飲ませてるじゃん・・」
Y子はいつもこうだ。男の自分でも顔が赤くなるようなことをときどき言う。
「・・Y子は女の子なんだからさ、そんなこといっちゃだめだな・・・」
「・・・それよりありがとう、来月からわたし専門学校じゃけえ・・」
自分はかねてからY子に時間を無駄にせず、自分のなりたい職業のために勉強をすることと言い続けてきた。
その彼女が選んだ職業とは看護婦だった。
働きながら看護婦になるためには専門学校にいくのが近道だということで、自分はそれに対し全面的に援助し、彼女は経済的なことを心配しなくても、今年から学校に通えることになった。
働きながら2年間通えば、とりあえず准看護婦になれるという。
「・・そうか、よかったなあ・・・。」
「・・・・・。」
「・・おぼえとる?一年前、弟のことでたいへんじゃったとき、しばらく私しずんどったでしょ・・・」
「・・あんときゃまだ私たち、一回ヤッただけで、うちもあんたんこと、ただウザイだけだと思いよった。」
「・・・」
「だけどね・・あんたわたしにこういうことゆうたんよ、『毎日、嫌なことばかりだろ?悲しくなるだろ?責任をとろうとしている人間にとってはそれはなおさら。』」
「・・・そんなこともあったかなあ。」
自分はほぼ忘れかけていた。
「・・うん、続けてこういうたんよ『だけど、孤独のふりをしたり、悲しんでいるふりをするのはやめよう。人間はどっから来たのかじゃなくて・・どこへいくのかだ』だって。」
「・・・Y子さんはよくおぼえてるなあ・・・」
「・・あれね、わたしすごい感動した。」
「・・・それはね、白状するとニーチェの言葉だよ。いずれにしても、進学おめでとう。・・」
「ありがと・・信じられる?このY子がね、近々あの白い制服着られるんよ・・。ぜんぶぎんちゃんのおかげ。・・」
「・・少なくともY子は金属バットより、注射器もってたほうがにあうな。」
「・・・私がなんかいうと、いつもぎんちゃんは恥ずかしがって、そうやって冗談にするんじゃね。」
「・・Y子と会わんようになっても・・学校いっとるあいだは援助はするから、心配しなくていいよ。」
「・・わたしそんなこと心配しとらんよ。心配しとったら、ああやってみどりさんに喧嘩うっとらん。」
自分はそろそろ帰ろうと、車のキーを回そうとした。
「・・・ちょっと待って、学校のことなんて、わたしにゃあどうでもええんよ。」
「・・Y子さんも帰らんといかん時刻じゃろ。急ごう。」
「そんなんええ。・・あんたとおらん将来なんてうちには意味が無い。ぎんちゃんはみどりさんと一緒におってもええ、うちも2度とそこにいかん、だけど、『愛してる』って言って。」
自分は真顔になってY子の相手をせず、車を動かした。
雨が降りしきる中、Y子の家の前につくと、自分は車を止め
「じゃあ・・。」
と言った。
車のワイパーが静かに動いている音が聞こえる。
彼女は沈みきった顔をし、リクライニングを倒したシートで片手で顔を覆い、なかなか車を降りようとしなかった。
Y子は静かにいった。
「・・じゃあ・・・なんなん?じゃあ・・『また連絡する』じゃろう?」
「・・。」
それでもまだ黙っていると
Y子は自分の手を握った。
そして哀願するような目でいう。
「・・『愛してる』って一言だけでええ、言うて。お願いじゃけえ。・・」
しばらくの間をおいて自分は
「・・愛してるよ・・」
と口にした。
そう言うと彼女は悲しそうに車を降りていった。
車のバックミラーには、自分の車が消えるまでそこを動こうとしないY子の姿があった。
彼女は傘をもっていたのになぜか傘を差していなかった。
雨と闇が彼女の姿を徐々に隠していった。
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