第75話 受け止める白い手

家に帰ってからもみどりは甲斐甲斐しく銀次郎の世話をしていた。


ちょっとしたことでも吐き気の衝動に襲われる銀次郎はずっとベッドに寝ていた。


今でも思い出す、この病ほどやっかいなものは無い。


身体などいつでも動かそうと思えばうごかせる。


頭の回転も通常通りだ。


しかし目が届ける情報がすべて回転させ、床を踏む足はつねにベッドの上を歩いているようだった。


だから意識がクリアでも何もできないのだ。


自分自身への嫌悪感から、みどりにもついつい辛く当たっていた。


世話をしようとしてくれる彼女に


「・・1人にしておいてくれ」


と寝室に1人でいることを望んだ。


どう転んでも惨めな男だった。


当たり前のように明日を迎えられる日々を、少年時代の銀次郎はどれほど望んでいただろう。


それが今日、毎日雲の上に寝るようなベッドの上で寝られ、エントランスホールのある白いマンションに住んでいる。


何よりも横に愛する人がいる。


そんな環境を、自ら捨てようとしている銀次郎。


ベッドの横のナイトテーブルに、みどりの活けた白百合があった。


彼女はこういった花や草が好きで、家の至る所に活けてあった。


壁には銀次郎の好みも取り入れてシャガールが飾ってある。


果たしてこれは現実なのだろうか。


夕刻ごろ、銀次郎は会社での仕事を思い出して急いでしたくをした。


「・・今日は寝ていなくちゃいけないってお医者さんいったのよ、まだ動いちゃだめ。」


というみどりさんを無視してシャワーを浴びると、フラフラしながら車に乗りアクセルをふかした。


会社につくと社長はギョッとして自分を見た


「・・なんじゃ銀次郎!お前だいじょうぶか?おくさんから事情きいたけど、寝とらんとだめじゃろうが??」


「・・そうですけど、出さなきゃいけない○○県へのイベント企画書、締め切り今日までなんですよ。」


「・・じゃあ、それすましたら、さっさと去んで寝とけよお前??」


官公庁への書類締め切りは、私企業には死んでも守らないといけないラインである。


ライバル企業にそれを取られたら、その県での売り上げは1年期待できないだろう。


トイレに行っては吐いて戻り、それを繰り返しつつ、なんとか企画書を作製し、その書類を空港まで持って行くことにした。


車に入ろうとした刹那、びっくりした。


車にY子が乗っている。


話し込んでいる暇はないので、助手席のY子はそのままに、広島空港まで車を飛ばした。


「・・急いでいるから、シートベルトをしてくれ。」


そういうとY子はだまってシートベルトをした。


自分が車を運転している傍ら、必死で口を抑え吐き気を我慢しているとY子は心配して


「・・どうしたん?」


と聞いてくる。


「・・いや、ちょっと頭痛がしているだけだよ。」


「・・・」


この車を買って後悔した。


社長のお下がりの2年落ちBMWだが、下取りにだすと異様に安いらしく、それならと銀次郎に社長が安く譲ったのだ。


いい車なのだが、シートの本革がいつまでも革独特の匂いをわずかに放っていて、まるでカツオブシの中にいるようでもあり、銀次郎としてはその匂いがにがてだった。


見た感じは1万も走っていない車なので、新車に見えるが、その匂いだけが欠点だった。


それがメニエールを煩って匂いが倍加しているようであり、吐き気が止められなかった。


「・・・それよりY子、なんであんなことをした?」


Y子は腕組みをしながら窓の外を見ている。


「・・だって腹たったんじゃもん・・・」


「・・俺は、Y子を利用しているのはわかっているし、Y子を責められない。でも・・あんなことをしてもどうしようもないってのはいくら18の君でもわかるだろう?」


「・・そんなこと、いわれんでもわかっとる。わたしも、何度も何度もぎんちゃんと別れようとおもったわいね・・・」


「・・・・。」


「・・・だけど、忘れられんのじゃもん、しかたないじゃん?」


「・・・・。」


「そしたら・・そしたら・・何日も何日もぎんちゃんに会わんで・・抱かれんかったら、ぎんちゃんがあの女抱きよるのが思い浮かんで・・うちとしたあんなこととか・・・思い浮かんだ。どうしようもないんよ。」


「・・・」


「うちのぎんちゃんが、あんなこととか色んなことをあの女と今もしよる・・頭から離れんのよ・・・」


自分は車の中で、もう何も残っていない胃から、いきなり胃液を吐き出しかけた。


車を脇道にとめて、下を向いて口を抑えていると、抑えられない胃液が手からこぼれだした。


Y子は


「・・ぎんちゃん・・」


といいながらその胃液を両手で受け止めた。


自分はびっくりした。


「・・汚いからやめろ」


と自分はY子が両手で受けたその胃液を車外に捨てさせ、タオルで彼女の手を拭いた。


意識がもうろうとしているなか、Y子の手が異様に白く美しく見えた。


するとY子がいきなり口を重ねてきた


「・・ぎんちゃんが汚いわけないじゃん・・!」

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