第74話 罪の享受

この頃から銀次郎を原因不明の病が襲うようになった。


定期的に立っていられないほどのふらつき、めまい、まるで天井がぐるぐるまわるような、そんな錯覚に見舞われるのだ。


この日が最初だった。


ベッドに倒れ込むように寝てしまってから、吐きに吐きまくった。


翌朝総合病院に担ぎ込まれたが、原因不明とのことだった。


内科、脳神経外科、精神科、すべて異常なし。


しかし内科のとある医師は、メニエールではないかと疑った。


メニエールとは医師によると強いストレスにずっと晒されている人に起きやすい病気で、どうやら耳と強い関係があり、耳の三半規管を司る気管に障害がでることから、強いふらつき、嘔吐感に晒されるようになるのだという。


「・・昔で言う自律神経失調症です。とりあえず点滴を打っておきますから、様子を見てください。」


医師は自分にそうつげた。


病院のベッドで上半身を起こし、点滴を受けながら自分は外を静かに眺めていた。


傍らにはみどりがいる。


「・・よかった・・一時はどうしようかと思ったけど。」


みどりは自分の肩にコートをかけてくれた。


自分はあいかわらず無表情に外の風景を眺めている。


「・・・こんな俺なんて・・・ほっとけばよかったのに。」


というと


「・・あなたのおくさんなのに。・・ほっとくわけないでしょう。」


すこし寂しそうに、笑みを浮かべてそう言った。


「これね・・家から持ってきたのよ。」


彼女は吐き気に効果があるからと朝に作ったらしいジンジャーティーを持ってきていた。


彼女のお手製のお茶を飲むと、たしかに口に残っていた吐瀉物の臭いが若干とれて、気分がいくぶんよくなった。


「・・・俺なんかに、こんなことする価値があるのか。」


と彼女についつい言ってしまった。


「・・あのね銀次郎さん・・。」


「・・・・。」


「・・銀次郎さんはいつも自分のことを謙遜するけれど、女ってね、男は姿形だけじゃないの。」


「・・・・」


「・・いつも抱きしめてくれて、『今日も髪型すてきだね』とか何でもいい、そうやって自分を何か認めてくれてる人って、とても大事なのよ。」


「・・そんなものかな。」


「・・・うん、銀次郎さん私を一切否定しない。いつも『大丈夫だよ』って言ってくれる。・・男のそういう魅力って、女にとってこれほどすごいことはないのよ。」


「・・・実際今の君に不満などあるわけないじゃないか・・・。不満があるとすれば・・今のこんな俺を捨てようとしないことだ。」


みどりの出してくれたお茶を飲みながら、本気でそういった。


自分の人生の中で、これほど自分を大切にしてくれる女性が他にいるだろうか。


銀次郎のそれまでの人生、一日一日、その日の夜まで生きることが精一杯、そんな日がどれだけあったろう。


親兄弟のいない銀次郎にとって人生とはあるいは虚無感の連続である。


家族がいないと正社員の仕事さえ保証人不在ということで断られる。


家族がいないくらいならまだいい。


家を借りることでさえ、そのたびに頭を下げたくもないチンピラである義父の周囲に頭をさげ、たった3万円のアパートでさえ借りることも容易でない。


通常なら家を借りる際に保証人になってくれる家族さえもいない。


その日を生きるということでさえ困難なのだ。


「・・・・俺はいったいなんだ」


と虚空の中で叫びたい衝動に駆られる。


そんなことが人生のうち何度あったろう。


だからというわけではないが、せめて自分の命のあるうちは、自分がされた悲しいこと、辛いことを他人に味あわせたくない。


ちっぽけなことではあるが、それが自分にとっての主題のひとつだった。


そんな矮小な自分にとって、みどりという女性はそばにいてくれるだけで貴重な存在であった。


そんな存在である彼女を苦しませている自分にどれだけ罪悪感を感じるか。


小用とたそうと思い、点滴用のスタンドを片手でもって、立とうとしたら、慌ててみどりがかけよってきて、自分の手とスタンドを手に取った。


「・・・無理しちゃだめ!今はまだふらふらしてるから、倒れちゃう!」


彼女はまるで子猫が巣箱からとびだそうとするのを制する母猫のように駆け寄ってきた。


「・・いいよ、自分で立てるから。」


その後も彼女は銀次郎を甲斐甲斐しく世話をした。


帰りのタクシーで外をじっとみていると、冬の雨が降っていた。


そんな寒い風景の中、彼女の左手がずっと自分の右手を温めていた。

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