第9話:子爵邸での交戦
催眠香、それは嗅いだ者に自身が望む最も幸せな夢をみせ続ける代わりに自力で目覚めなくさせる、一種の強力な眠り薬のようなものである。
しかし、たとえ夢であったとしても、幸せな夢を思い描くことすらできない人間が、一定数存在する。
「……あぁ」
目の前に広がる惨状に、ユリウスはどこか冷めた眼差しを向ける。
シックな壁紙と、アンティークな家具が並ぶ、落ち着いた雰囲気を漂わせる屋敷の中、重厚な絨毯の上に、倒れ伏す男女。
見覚えのある光景を前に、意識が途切れる直前の出来事を思い出すべくユリウスは思考に沈む。
催眠ガスを吸い込んだ影響で意識が落ちたのは確実だろう、目の前のこの光景から考えるに、これは現実ではなく夢か幻覚。
本来であればその人物が望む最も幸せな夢を見られるはずのものだが、そうとは知らないユリウスは、これは記憶の追体験とでもいうべきか、その人物にとって嫌な記憶を思い起こさせる精神的ダメージを狙った悪趣味な睡眠薬か幻覚薬の類かもしれない、と考えた。
夢だと自覚してしまえば、それはもうユリウスにとっては額縁の向こう側の世界の出来事だ。
今更突きつけられたところで、動じることはない、そもそも今まで忘れたことなど一度もない。
ユリウスは、ここで何が起きているのか、全て知っている。全て明確に鮮明に覚えている。それは昔、十五年前に自分が実際に見ていた光景だからだ。
目の前で繰り広げられるこの惨劇が終わるまで見届けないといけないのだろうか。
簡単に言ってしまえば、屋敷に押し入ってきたある一人の吸血鬼が、屋敷の住人を含むその街の人間全てを惨殺するも、屋敷の住人の唯一の生存者である少年が、両親の知人の狩人の男に連れられて命からがら街から脱出する、という流れである。
「……さて」
ここが夢か幻だと自覚したところで、現実に目覚めるにはどうしたらいいのかがわからなかった。
***
森の中に佇む屋敷は、結界術で巧妙に外界と遮断され隠されていたが、そこにあるとわかってしまえばこっちのものだ。
アイザックたちを待つことなく、ツバキは光る糸を追い、先行して屋敷に侵入した。
ただ、薄々と予感はあった。この糸の先にいるのは、おそらく。
ツバキの耳が、目指す先から響く戦闘音を拾った。
――すでに屋敷内で誰かが戦っている?
陽炎一族のヤツらは待機しているはず、先行した者はいない。
ならば誰だろう。
考えられる可能性として脳裏をよぎるのは、神父の存在だが。
気配を絶ち、たどり着いた大広間のような場所の様子を探る。
道標となった糸の終着点に、やはり神父ではなく、倒れているルークの姿を見つけた。
そして少し離れたところで戦闘を繰り広げている二人の人物。
一人はおそらくこの屋敷の主である吸血鬼子爵、もう一人はわからないが、神父でないことだけは確かだった。
どこの誰だか知らないが、利用させてもらおう。
子爵が何者かとの戦闘で気を取られている今のうちにと、ツバキは気づかれないよう目くらましの術式を発動させ、ルークの傍に近づいた。
息はしている、脈もある、噛まれた様子もない。
眠らされているのか、ただ意識を失っているだけなのか定かではないが、こちらとしても時間がない。
ルークの生存を手早く確認したツバキは、息を止めると懐から取り出した気付け薬をかがせる。
「――ッ、うっ」
強烈な刺激臭にむせたルークが、ビクリと身体を震わせて目を覚ます。
野薔薇の本部の研究班が調合した気付け薬は、半ば強制的に意識を覚醒させる効力がある超強力な薬品の一つ。ちなみに本来の使い方ではないが、徹夜続きの時にも使用されたりする。
「目が覚めました? 立てます?」
何が起こったのか理解できていないのであろう、目を丸くして口を開こうとしたルークに、ツバキは静かにと口元に人差し指を立てて見せる。
詳しい事情を説明している時間はない。一刻も早くここから逃げなければならない。
「……俺の実力では、子爵を倒せません。でも、ルークさんが逃げる時間をかせぐぐらいはできます」
屋敷の外では陽炎一族が待ち構えているし、そろそろ彼らも邸内に突撃してくることだろう。
ルークが彼らと合流さえすれば安全だ。
口早に紡ぐツバキの提案に、ルークは首を激しく横に振る。
一緒に逃げなければだめだ、ツバキ一人を残して逃げるなんてできない。
助けに来てくれたのは嬉しいが、きっと彼が助けたかったのはルークではない。おそらく一緒に捕まってしまったのであろうユリウス神父だ。
彼がここにいるということは、そういうことだとルークは確信していた。
「一般人を守るのが、祓魔師の仕事です。……それに、あんたを庇いながら逃げるなんて、もっと無理です」
ツバキは自分の実力をよくわかっている。
引き際ぐらいわきまえているし、なにより、こんなところで命を散らすつもりもない。
「さぁ、早く!」
ツバキとしてはルークの言い分を聞いている時間さえ惜しい。
それが伝わったのだろう、何か言いたげな表情はしつつもそれ以上ルークが渋ることはなく、ツバキの言葉に背中を押されるように部屋の外へと走り出す。
ルークの姿が部屋から出ていくのと、鋭い殺気を背中に感じたのは同時だった。
気づかれた。
気休めにでもなれと、ツバキは出入り口の扉を隠すように目くらましの霧を発生させる。
貴族相手にどこまで立ち回れるかわからないが、やるしかない。
しっかりと相対すべき敵を見据え、ツバキは双剣を手に身構えた。
***
男は狩人である。
負傷した右腕を押さえながら、男は吸血鬼の屋敷から脱出すべく逃走していた。
今回は誤算だらけだ。
吸血鬼の貴族を狩って一攫千金を狙うどころか、しくじった。仕留めるどころか、返り討ちにされかけた。
狩人とは、どこの組織にも属さず、単独で吸血鬼を狩る賞金稼ぎのことであり、男は普段、地道に野良の吸血鬼を狩って日銭を稼いでいた。
しかし今回は違う。
「くそっ……子爵であのレベルかよっ……!」
狩人は、引き際だけはわきまえている。生き残るために必須の危機管理能力ともいえる。
乱入してきた若い祓魔師と餌として攫ってきた金髪の青年には悪いが、囮になってもらった。
もっと簡単に、楽に大金が手に入る予定だったのに。
吸血鬼の貴族相手に人身売買の商売をしている人間がいる、というのは風の噂で聞いていた。
男は、とある町の情報屋で、ある商人たちが誘拐計画を企てているのを聞き、彼らの護衛ついでに、取引相手の貴族の所まで連れて行ってもらい、そのまま狩って一攫千金を狙ってやろう、と考えついた。
こちらの思惑を隠し、商人たちを上手く言いくるめて、護衛に雇ってもらったところまではいい。
最初の誤算は、誘拐相手がウィスティリアの街の住民であったこと。
商人たちは知らないようであったが、ウィスティリアの街は、人と吸血鬼が唯一共存しているらしいという、非常に珍しい街であることくらい、男は狩人の知識として知っていた。
ウィスティリアの街の吸血鬼には手を出すことなかれ、というのは狩人の中でも暗黙のルールだ。
実際、吸血鬼と敵対しているといえる狩人たちは、用でもない限り、ウィスティリアの街になんて絶対に足を踏み入れようとは思わない。
万が一ウィスティリアの街の吸血鬼に手を出してみろ、想像を絶するほどの恐ろしい報復が待ち構えている、との噂だ。真偽はわからない。
だが今回の目的は、ウィスティリアの街の吸血鬼ではなく、住民の方だった。
誘拐決行時刻も昼間であることから、彼らの目に留まることもないだろうし、ギリギリ大丈夫だろうと思った。
しかしここで二つ目の誤算、ターゲットである金髪の青年を攫う際、誘拐するまでに意外と手こずってしまい、通りすがりの他の人間に見つかってしまったこと。
加えて三つ目の誤算、その人間が、服装からその街の神父のようだったが、予想外に強かったこと。こちらが雇った屈強な男どもを、たった一人で無力化してしまったのだ。大事な餌になるべく傷はつけたくなかったので、使う予定のなかった催眠香でなんとか二人を眠らせたかと思いきや、その神父、意識を亡くした状態でも抵抗してきた。あっさり眠った金髪の青年を守るように、これがまた思いのほか強く、やっかいだった。催眠香は効いているようなのに、意識失った状態で動ける人間とか、もはやこの神父、人間じゃなくて化物では?とぞっとした。人間相手に使いたくはなかったが、なんとか麻酔針で動きを鈍らせた隙に筋弛緩剤を投与し、手足を拘束することで、ようやく動きを止めることができた。誘拐現場を目撃されているため、発覚を遅らせるためにも残していくわけにいかず、一緒に連れていった。若い女でなくて男であったのは残念だが、この神父、男であるのが惜しいくらい見目は悪くなかったし、貴族をおびき寄せる餌は多い方がいいかもしれない、と思ったのも事実だ。吸血鬼は見目麗しいモノを好む。
街を出て、取引相手の吸血鬼の屋敷へ商人たちが向かう途中に日が暮れ、人間を狙った野良が襲ってきたが、大したことはなかった。一緒に攫ってきた神父のほうが強かったくらいだ。
そして今回最後の誤算は、子爵の強さが想定以上に上だったこと。男が貴族と相対するのは始めてだったが、金目当てに気軽に手を出していいものじゃないと学んだ。
貴族を狩って、誘拐してきた人たちは、ちゃんと街に帰そうと思っていたが、悪いがそれもできそうにない。
自分の命の方が惜しい。
どうやってこの隠された屋敷を見つけたのかわからないが、乱入してきた若い祓魔師に全てを任せてしまおう。それが祓魔師の仕事だし。
そんなことを考えながら逃げた先で、さらなる誤算が狩人の男を襲った。
***
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