第三十話


だからこそ、その手を自分は取ってはいけない。

レナに対する後ろめたさや、誠心誠意愛してくれたユーリスを、

裏切りたくない訓戒だけでは説明できない感情が、サリオンの足を止めさせる。

アルベルトを心底大事にしたいなら、ここから先へは踏み込まない。


だからといって抱きつく前の二人には、戻れないのはわかっていた。

戻れないなら、留まるしかない。彼のためには、そうするしかない。

サリオンは弧を書くように大きく体を翻した。

この公園の東口の正面にある公娼へ一直線に駆け出した。

皇帝だろうと提督だろうと公娼内では『売りもの』以外のΩには、

手出しは出来ないからだった。


「どうしてだ!」

 

公園内に怒号が響いた。

罵声の飛礫つぶてはサリオンの丸くなった背中を打ちつけ、涙のように飛び散った。


「どうして逃げる!? 何がお前を縛っているんだ、そんなにも!」

 

サリオンは責め立てられても答えない。


「レナのためにか? 俺が故国を滅ぼした仇の国の皇帝だからか?」


問い質す声と足音が、瞬く間に距離を縮めて迫って来る。

追いかけられてサリオンは、焦りと安堵を感じていた。

こんな身勝手な自分でも、まだ追いかけて来てもらえるのだと胸を詰まらせ、

必死に距離を取っている。


「サリオン!」


公娼の玄関先には煌々と篝火が焚かれている。

奴隷が担ぐ輿こしが下ろされ、門番が扉を開ける館の中へと貴人きじんが次々入って行く。

営業開始の時刻は既に過ぎていた。

にも関わらず、迎えた客の饗宴の采配を仕切る『廻し』が不在の状態では、

どの客をどの饗宴の間に案内すればいいのか、誰も何も決められない。

館は混乱しているはずだった。

レナも慌てているに違いない。


公園を出て、路地を一本隔てた先にそびえたつ公娼の塀と玄関が、

視界に入った時だった。

サリオンは背後から肘を掴まれて、ぐんと力任せに戻される。


「答えろ、サリオン!」

「関係ないだろ、あんたには……!」


まったく何も噛み合わない二人の声が重なった。


「少しでも俺を想ってくれているなら、このままお前を連れ帰る。誰にも何も言わせない」

「だから、俺は……」

「気の迷いなんて言い訳は信じない! お前の気持ちは俺の体で確かめた」


左右の腕を鷲掴みにされ、体を反転させられた。

アルベルトの太い指が腕にめり込み、骨まで軋むようだった。

サリオンは背けた顔を苦痛で歪めた。心も体も痛かった。


門番達も来賓も声で相手がアルベルトだと知れたのか、身を乗り出して成り行きを注視している気配がした。


「お前のつがいが帝国軍の兵士達に、なぶり殺しにされたことも知っている」


アルベルトが初めてユーリスにまで言及した。

肘を振って抗いながらも、みぞおちに拳で深く突かれたように凝固した。


クルム国ではレナと一、二を争う美少年だと誉めそやされた昼三ひるさんが、受胎できないΩになった経緯など、公娼勤めの者ならば周知の話だ。

またそれが、皇帝アルベルトの求愛を頑なに拒む理由だと、

誰もが信じて疑わない。

そして公娼開業当初から通い始めたアルベルトが、それを知らない訳がない。


知っていながら、残されたつがいを口説きにかかる鉄面皮てつめんぴだと腹の中で反吐を吐き、袖にしたのはアルベルトを皇帝ではなく、

一人の人間として知る前だ。

知れば知るほど呵責にかられて遠ざけた。


「だからなのか? 俺は、お前のつがいを拷問にかけて命を奪い、お前の体に深い傷を残した侵略軍の指揮を取った。お前とレナを奴隷にしたのも侵略軍だ。そんな男に添い遂げるのは、忌まわしいのか? 許せないのか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る