第三十話


テオクウィントス帝国を統治する若き皇帝アルベルトは賢帝だ。

子供を孕むことすらできないΩの奴隷に、いつまでもかまけているほど

暇ではない。


レナの腰を抱きながら、居室の寝室に向かっていったアルベルトの全身から、

『遊びは終わり』

なのだという、声なき声が聞こえてきた。


サリオンは噴水に浸した右手で水を掬い上げ、

忌々しさをぶつけるように虚空に向かって撒き散らした。

放物線を描いて花壇に落ちた水が、草花の葉に弾き返され、

雨粒のような音を立てていた。


始めから何もかもわかっていた。

娼館内での色事は、客にとっては娯楽にすぎない。

そのために払う金なのだ。

 

だからこそサリオンは、

アルベルトが何を言おうと何をしようと取り合わなかった。

本気になんてしなかった。


アルベルトもまた、公娼の禁忌を侵して廻しを口説き落とすという、

目新しい遊びに費やす時間と金が、そろそろ惜しくなってきた。

公娼では昼三ひるさんの最高位であり、

今や帝国一の美少年だと謳われるレナを相手に、

ようやく世継ぎを作りにかかった。それだけの話なのだろう。


誰もが何も間違わなかった。

すべてが正しい判断だ。


これがレナにもアルベルトにも自分にも、最善で最良の選択だ。


こうなるべきだと自分で望んだはずなのに、胸の奥がえぐられるように痛かった。

サリオンは掬った水を噴水の水面に落とした。雫のように。

そのたび水面に波紋が広がり、映し出された自分の顔が歪んで見える。


こんな時こそユーリスに、きつく抱いて欲しいのに。

あの逞しい胸の中に閉じ込めて、髪にキスして欲しかった。

爪の手入れも行き届いている優美な指で、頬を撫でて欲しいのだ。

在りし日のつがいの美貌が脳裏にまざまざと蘇り、

溢れる涙を堪え切れない。


すらりとして流麗な、それでいて鋼のように引き締まり、

男性的な色香もかもす神々しいほどの肉体美。


艶やかな栗色の髪。

広い額に鷹揚な眉。

鋭い野性と気品とが、ひとつになったかのような蠱惑的な碧の瞳。

形の良い唇に妖艶な笑みを湛えつつ、聡明で静謐で、

真の意味での自信があるから他人に対して寛容で、温和でいられる人だった。


アルベルトの気紛れも、ユーリスだったら一笑に伏してしまうだろう。


何かあるとそうやって、

何もかも全部否定したがる悪い癖が君にはあるよと囁いて、

鼻先にきっとキスしてくれる。

いじける子供をあやすように。


それは生前のユーリスが、事あるごとにサリオンに言って聞かせた睦言だ。


信頼してはいけない相手も、信頼するべき人もいる。

大切なのは見極めなのだと呟いたユーリスの遠い目をした横顔は、

なぜかどこか寂しげで……。


王族の一員でもあり、美貌にも才覚にも恵まれた羨望の的のような人間が、

最下層階級のΩとして地を這うように生きてきた、

性奴隷の痛みも嘆きも身につまされて、わかっているかのようだった。


今は亡き魂の番のユーリスに訴えかけているうちに、

すさいだ心も凪いでくる。

夜風が庭園を吹き渡り、小路の落ち葉を巻き上げた。

冴えた月にも雲がかかり、木立の影が薄くなる。


ユーリスは死しても尚もここにいる。


声をかければ返事が聞こえる。

見たいと思えば目の裏に、笑顔も憂いを帯びた横顔も蘇る。

会いたい時にはいつでも会える。それこそ呼びかけさえすれば一瞬で。


ただ、もう二度と触れられないのがつらいのだ。

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