134.戸惑う巫女、微笑む宰相

 目を覚ましたらすべてが終わっていた。1人で覚悟を決め、魔法陣を構築し、全生命力を魔力に変えて注ぎ込む予定だったのに。


 呆然とする妻を膝の上に乗せ、夫は無精髭をごりごりと手で擦った。彼女が目覚めるまで付き添ったため、身嗜みを後回しにしてしまった。少し後悔する。だが目を覚ます瞬間に自分がいない状況は避けたかったのだ。


「我が妻、一族の巫女、ミューレンベルギアはもう不要だ。別の名を授かり、自由に生きよう」


 出来るなら無精髭なしの若く見える姿で、新たな求婚もしたい。いろいろと未来に夢を膨らます夫を見上げ、それから巫女は頬を赤く染めた。


 巫女として生きてきた。村長となる者の威厳を高めるため夫を数人選んだが、もう要らないと考えた最後の夫――まさか裏切るほど愛されていたとは。何度か身体も重ねたが、顔を見るだけで恥ずかしい。


「もう少しやすめ。それとも共に風呂に入るか?」


 数日意識が戻らなかったので、汗をかいただろう。そんなニュアンスの何気ない会話に、ミューレンベルギアは真っ赤になった。初恋の相手に裸を見せるような気恥ずかしさに、何も言えない。初心な小娘のような妻の様子に、自分の台詞を反芻した夫は苦笑いした。


 いままで大人びた態度で接した妻が、今になって見た目通りの少女になってしまったことに、嬉しさが込み上げる。


「か、揶揄うでない。寝る」


 ばさっと上掛けを引っ張って、膝から飛び降りて丸くなってしまう。これ以上からかうと後が怖い。夫は身嗜みを整えるべく、声をかけて部屋を離れた。出ていく気配を辿り、ミューレンベルギアは顔を覗かせる。誰もいない部屋に、ぽつりと本音が響いた。


「どんな顔をすれば……いい?」




 ネリネは忙しく立ち働いていた。細かな調整は魔族の長達や人間の代表であるリアトリスに任せるが、全体の指揮旗は誰かが振らなくてはならない。雑事に主君を煩わせる気はなく、様々な要望書や報告に目を通した。


 遠くへ旅に出たい人間に許可を出し、誰か魔族を同行させるよう付け足す。知らない植物系の魔物に食われる可能性が高いからだ。


 次は狼獣人の青年が、誤って噛み付いた人間の娘を娶るという。途中経過が省かれた報告書に、状況説明をつけて出し直すよう指示した。責任を取るとしても、種族の違いがあるので惚れていなければ長続きしない。


 人間を食べたいが、同意があれば血を得てもいいか。吸血種としては甘い人間の血の匂いがすれば誘われるだろうが、そこは相手の承諾を得ることと緊急時に止めることができる魔族同席を義務付けて書類を仕上げる。


 概ね深刻なトラブルになる前の段階で、誰もが手探りで共存の道を探っている様子が伺えた。くすりと笑って、文官が用意したお茶を口に運ぶ。


 事務処理は面倒ですが、こうして詳細な状況を把握して、変化を肌で感じられるのは特典かもしれませんね。そんな穏やかな気持ちで、ネリネはこの日最後の承認印を押した。

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