101.初代聖女の手記に綴られた願い

 伝説にも勇者の記録にも残されなかった真実がある。女神ネメシアの初代聖女が残した……唯一の手記だ。神殿の奥深く人目に触れない場所に保管された大切な紙束は、朽ちないように陽に晒すこともなかった。


 神官長はゆったりと長い裾を捌いて膝をつく。奥の神殿の地下、美しい薔薇色の宝玉がある。美しい女神像の足元におかれた宝玉は、通常の神事では使用されない特殊な物だった。聖女を選別する宝玉とは別に、役目のある球は久しぶりに浴びた光をきらきらと弾く。


 丸く表面を整えられた珠を持ち上げ、用意したクッションの上に移動させた。後ろで受け取ったのは元王太子リアトリスだった。この奥の神殿に入れるのは、王族と限られた神官や聖女のみだ。女神像の前に敷かれた分厚い絨毯は、祈りを捧げるための敷布だった。


 珠を置く台座を下ろし、継ぎ目がないように見えた女神の足元を撫でた。神官長の手が、一ヵ所を強く押す。指先が吸い込まれるように動き、台座が手前に傾いた。中に手を入れた神官長は紙束を取り出す。


「こちらです」


「拝読して構わぬか」


「そのつもりでお連れしました」


 年老いた神官長は、穏やかな口調で頷いた。表面に魔法陣で封印がされた紙束を受け取るため、宝玉を乗せたクッションを女神像の左脇に下ろす。その指にきらりと薔薇石の指輪が光った。恭しく掲げて受け渡された手記に手を翳せば、封印はするりと解ける。


 無言でリアトリスは手記を開いた。しんと静まり返った神殿の中に、紙をめくる音だけが響く。やがて……乾いた紙音が止まり、リアトリスは食い入るように同じ文章を何度も指先で辿った。読み終えた一文を噛みしめる。


「爺は……いや、神官長殿は読まれたのか?」


「爺で結構です。先代から地位を継いだ際に読みました」


 かつて神殿の行事やしきたりを学ぶために、王太子であったリアトリスは教会に預けられた時期がある。半年近い期間で、厳しくも優しく祖父のように接してくれた神官長は穏やかに尋ねた。


「殿下は魔族を滅ぼすおつもり、ですかな?」


「……愚行ではないかと、思うのだ。実際に対峙し、彼らの圧倒的な力を知った。あれほどの力がありながら、我らの国を見逃すのであれば」


「共存を望まれたのは、初代聖女様も同じです。しかし王家も神殿もそれを拒みました」


 聖女一人では何も出来ない。いくら女神の加護があろうと、人々の羨望と信仰の対象であろうと。彼女はただの少女だった。国王と対等の「陛下」の敬称をもつのに、魔族との共存は実現しない。それこそが人の醜さの露呈なのだ。


 己の権益を優先した王侯貴族の醜さで、魔族は苦しめられ、人々は魔族を恐れる。そんな必要などないのに……。


 聖女の手記をそっと元の場所に戻し、宝玉を置いた。それから神官長はリアトリスの正面に座り直す。姿勢を正した教え子の手を皺だらけの手が握り、祈るように頭を下げた。


「いまこそ、王家の決断を――聖女様の悲願を……なにとぞ」


 答えることも約束も出来ないリアトリスは、泣きそうに眉尻を下げて唇を噛みしめた。

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