第25話

「やあ、こんな遅くにどうしたんだね。キミは卓球部の本田君。この中年男になんの用事かね?」


職員室の奥のシマの席。190cmはあるだろうか、体の引き締まった現役選手と見間違うほどの大きな腕を持つ柔道部顧問の辰巳先生が器用に細い取ってのカップに紅茶を注いだ。自分で中年と言ったものの、大男特有の野暮ったさは感じられず、後ろに流した短髪や清潔感のあるシャツの着こなしから彼が柔道オリンピック候補選手として、その人生で様々な階級の人種と交流があったことを感じさせる。一瞬気圧されたぼくだったがその人生の大先輩に対してぼくは思いを告げた。


「一年の豊田を勧誘するように唆すのは辞めてください。部としての方針もあるし、アイツも練習や試合、先輩達との出会いを通して真剣に卓球を楽しみ始めた時期なんです」

「ほう、それは美しいね」


辰巳先生はその場を立ち上がるとカップに残った紅茶を勢いよく啜ると狭い職員室の天井に届きそうな頭についた口でぼくに笑みを向けた。


「で、ボクはその美しい果実を横から掠め取って食べようとしている極悪人なワケだ♪」

「調子が狂うな。アナタも柔道の指導者なら知っているはずだ」


ぼくだって現役卓球選手を義理の父に持つ二代目アスリートだ。余裕の表情の辰巳先生に対して考えていた持論を並べた。


「たしかに13歳にして180cmオーバーのケンジの体格はアナタのような柔道指南者にとって魅力的に映るかもしれない。でもあのくらいのフィジカルなら全国的に見たらザラにいる。それにあんたはケンジの事を何も知らない。あいつは闘技者向きの性格じゃない。喧嘩だろうが、卓球だろうが自分より遅れている奴に対して歩幅を合わせて寄り添って走るやさしさを持っている。そんなケンジを無理にあんたのフィールドに連れ出すのは止めて頂きたい」


強い口調をぶつけると辰巳先生は少し驚いた顔を浮かべて後、奥二重の瞳を大きく見開いてぼくに拍手をし始めた。


「素晴らしい!あの子があの年でこんなに自分の事を想ってくれている先輩との出会いを経験しているなんて!人にとって最大の成長とは出会いだ。キミのお陰で彼を詮索する手間が省けたよ。礼を言おう。ありがとう本田君」

「・・・話が噛み合わないな」


深々と頭を下げた辰巳先生を見てぼくは静かに歯の隙間から息を吐く。顔を上げると辰巳先生は勝負者の修羅場をくぐってきた者特有の視線をぼくにむけてこう言った。


「だが、キミの話を聞いてわたしはますます彼の事が欲しくなったぞ。キミの言う通り、現代の教育現場にとって彼より恵まれたフィジカルを持った中学生は数多くいる。しかし、わたしは彼の瞳に磨けば輝くダイヤの原石を見た。このわたしの指導があれば彼を我々柔道指南者の悲願であるオリンピックの頂点に導けるかもしれないのだ。どうだろう、本田君。豊田君との出会いを築いてくれた者としてわたし達の宝石のような夢に賭けてくれないか?」


高笑いを浮かべる辰巳先生を見てぼくは呆れて首の後ろに手をやった。以前すばるが言っていた。『部が生徒を選ぶのではなく、生徒が部を選ぶべきである』と。その通りだ。今の辰巳先生の言葉からはケンジの意思がまったく読み取れなかった。結局のところ、芽が出そうな柔道未経験者、現状の部活動に不満を抱えている生徒にかたっぱしから声を掛けているだけなのだ。この人は。彼が柔道部の顧問になってから廃部寸前だった部活がわずか数週間の指導で団体戦の決勝まで勝ち進んだという実績は耳にしたことがある。だとしてもあまりにやり方が乱暴すぎる。これではまるで人さらいだ。


「話は終わりかい?この後に人を待たせているんでね。失礼するよ」


そう言い残すと辰巳先生は職員室から姿を消した。ぼくはどうしていいか分からず、その場で拳を握り締めていた。「なぁ、本田ぁ」卓球部顧問の竹岡センセイが後ろからしわがれた声を向けてきた。


「ワシ、考えとったんだが、ケンジはどうも卓球部の中で浮いてしまっているというか。手先も不器用なところがあるし、あの体を活かせる部活にくれてやったほうがいいと思うんじゃがな」

「何言ってんですか。耳だけじゃなくてとうとう目も悪くなったんですか?まだ定年前だって言うのに。ケンジが自分を最大に活かせるのはフィジカルコンタクト競技じゃなくて卓球ですよ」


ぼくの冷やかしに構わず竹岡センセイは顎に手をやって深く考え込んでいた。すると勢いよく入り口の扉が開いた。ケンジが片手に封筒を手にしている。嫌な予感がする。勇み足で歩み寄ってくるケンジを見てぼくは腹に力を込めた。


「一年、豊田ケンジ!本日付けで卓球部を辞めさせていただきます!短い間でしたがありがとうございました!」


思わず目を瞑って顔を横に向ける。河川敷から校舎にぼくが戻るまでの間、ケンジはあの辰巳先生と電話で話したに違いない。ケンジに心境の変化があったのか。それとも今がこの辞表を提出するタイミングだったのか。「豊田ぁ!」竹岡センセイが上ずった声でケンジの肩を抱いた。


「中学一年のおまえにこんな思いで卓球を続けさせて悪かったなぁ!今まで不向きだったスポーツを続けさせられてさぞ、苦痛だったろうなぁ!」

「竹岡センセイ、すんません!オレ、卓球選手になれませんでした!今まで目を掛けてもらったのにすいませんでした!」


抱き合って泣くふたりを見て近くにいた女性教師がつられる様に目にハンカチを当ててすすり泣いた。おかしい、何かがおかしい。原因はわからないけれど、何かお芝居を見せられているような肌感がある。そういえば、あの人はどこへ行った?



「すばる!辰巳先生、あんたなにをやってんだ!」


体育館のドアを開けるとシャツと短パン姿の辰巳先生がラケット片手に卓球台を挟んですばると向き合っている。どうやら実戦形式の練習に付き合っているらしいが台の横に立って得点板を抱える田中を見るに体験入部のゆるさを感じない。すばるが真っ赤な目で額の汗を拭っている。――これは実戦だ。それも何か大事なモノをベットした真剣勝負である。最高に嫌な予感がする。歩み寄るとラリーの途中ですばるが得意のツッツキ『スピア』を繰り出した。これに対し辰巳が2バウンドの寸前で救い上げるようにして下回転のかかったドライブを返した。その軌道に驚いていると「ふぅ」と息を吐いて壁に跳ね返るピン球を振り返るすばるに対して辰巳は告げた。


「キミの技術を一通り見せてもらったがね。遊戯の域を出ていない。はっきり言ってしまえばプロの真似事。わたしからしたらキミの技は贋作だ」

「うるさい。早く台に着いて!」

「はいはい」


すばるに促されて台の下に手を伸ばす辰巳。「こんな構えだったかな?」ぼくを見てウインクした後、サーブに対して勢いよく腕を出して素早い強撃を放ったのだ。それは紛れもなくぼくが公式戦で使ったチキータと同じ構えだった。


「ぐっ!」

「得点!辰巳先生、マッチポイント!」


とんでもない威力の打球にすばるが反応できず、審判の田中が得点板の数字を捲る。止めさせるべきだろうか、それとも…ぼくはすばるの目をちらり見た。その目は『絶対に止めないでくださいよ。止めたら一生恨みます』という怨念に似た強い意志を感じられた。


「卓球経験0のわたしがなぜ大会入賞者のキミに対してここまで圧倒できるかわかるかね?」


答えずにすばるはラケットを構える。サーブ権が辰巳に移ったようだ。「無回答か。答案はすべて埋めておくべきだと思うがね」テーブルの端でピン球を弾ませながら辰巳は続ける。


「わたしはかつてオリンピックの候補生として様々な体験をした。人との出会いから様々な繋がりが生まれ、その中には卓球の経験を持つものもいた。そう、さっき本田君にも言ったが、出会いこそが人を成長させるんだ。自分が経験せずともそれに似た成功体験があれば児童のレベルに順応するには容易い」


ピン球を宙に浮かべるとさっきぼくに向けた闘技者の瞳で辰巳はすばるの体を射貫いていた。


「このラリーで終わりだ。公約通り、豊田君はわたしがいただく」


反則スレスレの低いサーブがネットぎりぎりを超えてコートに打ち込まれる。この短い打球をすばるが捌くと開いたバックのスペースに辰巳が全体重を込めたスマッシュを打ち込んだ。おおよそ教育者とはおもえない大人げないプレー。しかしその力強さからは同時に『なんとしてもケンジを柔道部に迎え入れたい』という意思も感じられた。


「うおぉぉおおおおお!!」


すばるが反対側に飛んでこの打球にラケットを伸ばすが、無情にもピン球は真上に跳ね返りこの瞬間に勝負は決した。ラケットを台に置きその場から歩き出そうをする辰巳。するとすばるが落ちてきたピン球に対して勢いよくジャンプスマッシュを合わせようとした。


「よせ、すばる!もう試合は終わった!」

「『デスサイズ』!これがオレの奥の手だ!くたばれ悪徳教師!」


ルール違反のすばるの攻撃が辰巳の喉元に伸びていく。「あーあ」と撃たれた本人は気の抜けた声を出し、その打球を顔の前で受け止めた。


「す、すごい。なんて動体視力だ」


慄くぼくを見て球の回転が終わるとそれを「むん!」と握りつぶし、その掌を開いてぱらぱらとプラスチックの破片が床に散らばると肩で息をするすばるに辰巳は向き直った。


「試合中、アドレナリンが出まくった選手は時として試合後に暴挙に及ぶことがある。かわいい教え子の反抗だ。気にしちゃいないよ。でも」


その場にへたりこんだすばるをみて強い視線を向けた後、作り笑いを浮かべて辰巳は入り口の扉に手を伸ばしながらこっちを振り返った。


「賭けの条件は有効だ。あんまり大人を舐めるなよ♪赤星」

「くっそっ!くそ!!なんて事だ!ちくしょう!」

「おい、すばる!」


両拳で床をたたき出したすばるをみてその肩を抱く。こいつ、なんて無謀な勝負を仕掛けたんだ。これであの辰巳にすばるが目をつけられたのは間違いない。辰巳がケンジを勧誘していたことに気づき、おそらく辰巳の言葉に納得がいかず『勝ったほうがケンジを部活に所属させられるという事でいいですね?』という条件であいつを焚きつけたに違いない。泣きじゃくるすばるはぼくに「どうすればよかったんですか?」と聞いた。ぼくは彼の背中をさすった後、立ち上がって声を張った。


「強くなろう。今よりずっと強く。ケンジがもう一度、自分から戻りたいと思えるような卓球部になろう」


そういうとぼくは零れる涙を拭った。こうしてぼくたちはそれぞれの理由で別の道を歩んでいくことになる。柔道を選んだケンジ、ふたりになってしまった卓球部がどうやってこの絶望的な状況をひっくり返すのか。その道のりはあまりにも険しく滲んだぼくたちの目に映っていた。


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