平川静香 file05

 憂鬱だった。

 とにかく憂鬱だった。

 曇天の中を通勤しながら、私は落ち込む気分に嫌気が差していた。

 ここ数日、調子が悪い日が続いているとは密かに感じていた。

 肉体的な不調、というわけではない。推奨消費カロリーも規定値内だし、風邪等を患っている気配もない。

 あるとすれば、やはり同調記憶の問題だろう。


 ジェミニシステムは人間を進化へ導く革新技術、そう謳うヘカトンケイル・コーポレーションだったが、見逃せないデメリットも少なくない。

 そのうちの一つが所有者の記憶とジェミニAIの記憶のズレ、それに伴うストレス因子だ。

 ジェミニAIと主人格は一心同体、コインの表と裏のようなものだ。そのため、お互いの経験や記憶を定期的に同調させ、人格の整合性を保つ必要がある。

 だがすべての記憶を同調するわけではない。それを続けていれば、主人格とジェミニAIは「境い目」を失う。

 「境い目」を失うと二つの人格は完全に交じり合い、そして拡散しようとする。

 つまり自我を保てなくなってしまうのだ。

 そのため、お互いの記憶の同調は85%まで、残りの15%の記憶はバックグラウンドサーバーにて保存される。

 そうやって交じり合わないギリギリのラインを守ることで、完全なコピーでありながらジェミニAIは「自我」を確立できているのだ。

 だが、そのわずかなズレは、時として精神へ高いストレスをかけることとなる。

 友人同士で話しているときに、言いたいことが上手く伝わらない時の、あの感覚。それが自分と、もう一人の自分との間に起きるというわけだ。

 自分自身のことなのに、自分に伝わらないということは、実は凄まじいもどかしさを産むことになるのだ。

 

 このところ、『彼女』は過酷な戦場での作戦続きで疲弊しているはずだった。

 高い精神負荷をジェミニAIにかけた場合、同調した主人格への負荷も凄まじい。

 あまりにストレス数値が高い場合は、同調率を85%から65%まで下げることも出来る。だがそれによる同調ズレのストレスも看過できないため、その場合はセラピーの受診が義務付けられている。

 あまり知られていないが、実は同調処理を行わなければ、そのような諸々のストレスは発生しない。

 だが、2週間以上同期処理を行わなかった場合、それは分身ではなく、完全に別の個人となってしまう。

 過去には完全に分離したジェミニAIが、主人格への明確な殺意を抱き、ドローンで殺害した事例まで存在する。

 ちなみに今、『彼女』とは一週間以上も同調処理を行っていない。


――作戦続きとはいえ、ここまで長いこと同調していないのは不味いな。


 惰性でペダルを漕いでいながら、私はその実、焦っていた。

 

 『彼女』の行動は本来であれば、逐次モニタリングできているはずだ。

 しかし、彼女のここ最近の行動がまるで見ることが出来ない。行動ログが自閉モードになっているため、同調処理されなければ状況が把握できない。

 あと二日、それまでに同調処理のために『彼女』が戻らなければ、強制帰還警告が発動する。それでも帰ってこない場合、『彼女』は・・・・・・。

 

 考えをめぐらせている間に、公園を抜け、保育園へとたどり着いていた。

 今日は母の通院の付き添いがあったため、午後からの出勤である。子供達はお昼ご飯を食べて、園舎の中でお昼寝の最中のようだ。

 自転車を停めて園舎へと向かうと、初枝叔母さんと誰かが話していたのが見えた。後姿を見る限り、女性のようだ。


「園長先生、お疲れ様です」


 叔母さんに挨拶をすると、二人ともこちらへと振り返る。

 もう一人の女性の姿に、私は見覚えがあった。

 

「静香ちゃん、お疲れ様。あ、紹介するわね。今度ウチの園で働くことになった、佐原綾香さんよ」


 彼女は私を見るなり目を見開くが、すぐに偽者の笑顔を取り繕ったことが分かる。


――佐原綾香。


 その名前と彼女の特徴的な釣り目が、私が蓋をしていたドス黒い記憶を引きずり出す。

 

「佐原さん、貴方と同じ高校の友達だったみたいねぇ。ウチでも仲良くしてね」


 叔母さんは何も知らない。叔母さんは悪気があるわけじゃない。

 彼女がどのような人間か知らないのだから仕方ないが、彼女と仲良くするということがどういうことなのか、想像しただけで悪寒がする。

 

「久しぶりね、平川さん。こっちでもよろしくね」


 彼女は私へ握手を求める。友好的に見えて、その薄い笑みの奥底には、軽蔑の感情が見え隠れしている。

 

「・・・・・・よろしく」


 か細い声を絞り出しながら、佐原さんの手を握り返す。

 佐原綾香。

 高校時代、同じクラスだったことは確かだが、彼女が友達だったなどとんだ大嘘だ。

 高校時代に彼女がしてきた諸行、正直思い出したくもなかった。

 

 

――――――

 

 

「まさか、ここで働いてるとは思わなかったわ」


 事務室でデスクワークを行っていた私に、佐原さんが近づいてきた。

 園が用意している制服代わりのエプロンを身に着けた彼女は、他の人からしたらしっかりとした保育士だろう。

 だが、私からしたら、悪魔以外の何者でもない。

 高校時代、女子トイレで私に掃除用のホースを向けて来た時の、あの狂気じみた顔。

 頻繁に金品をたかっていた、あのハゲタカのような眼。

 あんなモンスターが、子供たちを預かる保育士だなんて、ずいぶんと趣味が悪い冗談だ、と私は思った。

 

「わかってるとは思うけど、ここでも私と貴方の主従関係は変わらないからね」


 主従関係、その言葉を強調して言っていたことを私は聞き逃さなかった。

 私は気にしないよう、書類に筆を走らせる。出来る限り、また関わることを避けたかった。

 だがそんな私の気持ちなどお構いなし、と言わんばかりに彼女は机に腰掛け、ホロディスプレイを起動させる。

 そこに写るのは、高校生時代の私。

 だが制服は醜く引き裂かれ、私は号泣しながら、必死に下着や肌を隠そうとしている。


――最悪だ。


 これは高校時代に撮られた映像だ。いじめがエスカレートし、私の尊厳を完全に破壊した所業。

 これを撮られたあと、私は引きこもりとなり、全てが狂っていった。

 

「わかってると思うけど、高校時代のこととか周りに言ったら、この映像、ネットに拡散するから」


 下卑た笑いを浮かべながら、右腕のホロディスプレイを突き出す。

 忘れ去りたかった悪夢を目の前で蘇らされ、動悸が激しくなる。

 

「分かってる・・・・・・。誰にも言わないから・・・・・・」


 目線を合わせずに答えると、佐原さんはよりいっそう下品な笑顔を浮かべる。

 

「じゃあ、さっそくなんだけど、いつものもらえる?」


 左手でこちらに対して何かを要求する手つき。高校時代に何度も見た光景だ。

 これはつまり、金銭をたかるときの合図。そしてそれを断れば、酷い目にあわせるという証。

 親から貰った参考書代やバイト代を切り崩して、私はなんとか直接的な攻撃を回避していたのだ。

 それを今、また要求されている。

 私の魂のよりどころが、またあの地獄と同じことになってしまうかも知れない。なら金銭を取られてしまう方が、まだいくらかマシだ。

 そう考える自分に嫌悪感を覚えながら、自分のデバイスを佐原さんの物に近づけて、電子ウォレットを操作する。

 送金された額を確認すると、佐原さんはホロディスプレイ上の私の裸を消す。

 先ほどの下品な表情から一変、屈託のない笑顔をこちらへ向ける。

 

「ありがと、平川さん。やっぱり私達、友達だね」


 白々しい言葉を吐き捨てると、佐原さんは上機嫌で事務室を去っていった。

 

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