学び舎まであと少し。鐘楼が見えてくる。


 今まで残してきた者達がどのようになったか気にならないわけでもないが、じきに自分も相対することになると覚悟を決めているにも関わらず、伊織の姿はまだ見えない。


 まさかとは思うが、伊織はこの裏切りに加担していないのではないかと、一縷いちるの望みを持った時。


 一陣の突風が吹き荒れ、桜の木から花びらを巻き上げた。桜の並木道を走っていた二人も、突然の強い風に寸の間足を止め、ちりや桜の花びらが目に入らないように腕で顔を覆う。


 そして、風がやむのを待ち、目を開け、その腕を下ろすと。



「……伊織先輩」

「お前達だけがここまで来たということは、俺達の策は順調に進んでいるということだな」



 伊織が刀の柄に腕をかけ、自分達から少し離れた位置で立ち塞がっていた。伊織の頭上にある木の枝には、隼人が飛ばしたと思しき鷹が一羽留まっている。


 やがて、風の影響で宙を舞っていた桜の花びらがはらはらと舞い降りてきた。満月の月明りを受け、まるで雪のように輝くソレの向こうに立つ伊織の姿に、庄八郎は記憶の中にある姿と重ね合わせた。


 あの時は年が明けてすぐで、桜吹雪ではなく、本当の雪だった。自分達が保の年で、伊織達の代が部の年だった時。彼らが今だ雛であるにも関わらず、深刻な人手不足で戦況確認などの任務につくことになってしまい、一時、里を出る前のことだ。



『俺達に何かあれば、お前達が学び舎で一番上の代だ。後輩達あいつらのこと、頼んだぞ』



 それに何と返したか、庄八郎はそこの記憶がすとんと抜けていた。


 戦場に出れば、いかに優秀な代とて危険はつきもの。それも、戦場など一度も行ったことがない雛の時分。流れてきた矢や弾にあたる可能性だってある。

 

 にも関わらず、残していく自分達の事を気にかけてくれた言葉が、今となっては酷く懐かしい。



「お前は学び舎へ。ここは俺が……っ」

「敵を前にした時、余所見をしてはならないと教えたはずだ。いかなる時もそれを怠るな」

「っ!」



 刀を抜き放ちながら、隣に立つ後輩へとほんの一瞬目を向けただけ。


 にも関わらず、伊織の並外れた跳躍力が、二人との距離をあっという間に縮めていた。


 伊織は、庄八郎の刀の柄頭を自分の刀の柄をあて、正確に鞘の中に押し戻す。そして、そのまま刀を持っていた方とは逆の手で庄八郎の腕を掴み、自分達の身体を密着させ、庄八郎の身体を地面に叩きつけた。

 そして、流れるように行われた一連の攻撃に、思わず呆気に取られていた後輩の腹部を蹴り、そのまま地面に押し倒す。


 庄八郎も次の手に移りたいが、いかんせん、伊織の足下に後輩の身体がある。もし仮に庄八郎が何かできたとて、その前に刀を抜いた伊織によって後輩の息の根がとめられる。


 思うように動けず、焦れてしまう気持ちを何とか抑え込み、今度こそ刀を抜き放ち、伊織の方へ向けておく。


 ――すると。



「苦無を出せ」



 ひやりとするような低い声音でそう言われた後輩は、懐からゆっくりと苦無を取り出した。


 それを見届けた伊織は後輩から足を退け、学び舎の方へと跳び退る。


 すぐに後輩は立ち上がり、もう一本苦無を取り出し、両手にそれぞれ握り構えた。



「彼岸に行く前に、お前達に最後の稽古をつけてやる」

「……っ」



 それから始まる剣技の数々は、鍛錬の最中で見慣れたものもいくつかあったが、大半がまだ見たことのないものだった。それを文字通り死に物狂いでさばく。体術や木刀の時とは違い、真剣同士。酷い打ち身では終わらない。


 そして、真の力量をこんな時に限ってまざまざと見せつけられる。庄八郎とて、無駄に年を重ねたわけではない。経験だって積んでいる。だというのに、一年の壁が遥か高みに思える。現に、こちらは忍び服を次々と裂かれ、骨身まで断たれようとしているのに、伊織のソレは砂埃すなぼこりの汚れが目立つ程度。目立った服の裂きすら見受けられない。


 伊織と庄八郎がつば競り合いをする中、後輩が苦無で斬りつけようとしても、上手く体位を変えてかわしてしまう。逆に、苦無で繰り出される攻撃を捌いていたかと思えば、剣先を勢いよく返し、柄で苦無を絡めとり、宙へ放り上げる。そして、それを掴もうと手を伸ばした後輩の脇腹に、伊織の蹴りが入る。


 それからも、わざとのように僅かな小休止を挟みながら、攻防は続いた。ここまで体感ではあるが、およそ四半刻と少し。正直な話、体力はとっくの昔に限界を迎えていた。もし、今が夏だったならば、脱水症状によって致命傷を浴びるよりも早く命が危ぶまれただろう。


 自分の限界がもう過ぎているということは、後輩も、もってもうほんの僅か。もう幾許いくばく猶予ゆうよもない。


 庄八郎は双眼をひたと伊織に向け、呼吸を整え始めた。一か八か、自分の技量と、後輩の勘の良さにかけるしかない。


 今だと思った瞬間、身体はもう動き出していた。刀を下段に構え、駆け出す。そして、そのまま逆袈裟に斬り上げる、と、見せかけ、突き上げたのは伊織の刀の柄頭だった。自分がやって見せたことを応用し、逆に仕掛けてきた庄八郎に、伊織の目が僅かに見開かれる。


 それから、庄八郎は自分が仕掛けられた技の数々のうち、盗めるだけ盗んだ技を仕掛け返す。伊織はにぃっと彼にしては珍しく好戦的に笑い、それの返し方を教えるかのように防戦に回った。


 そして、伊織が再び攻め手に回る瞬間。それは本当に一か八かだった。


 自分の頭上を飛び越えた庄八郎の姿を真正面から捉えるべく、伊織が背後を振り返った時。


 忍びらしく、音も気配も殺した後輩が、伊織の背に苦無を突き立てた。



「ふーっ。ふーっ。ふーっ」



 後輩は無我夢中だった。今度伊織が攻め手に回れば、自分達の命はないだろうと分かっていたからだ。


 肩で息をする後輩を、伊織はゆっくりと振り返り見る。後輩の目の瞳孔は開ききっていた。その視線は今だ彼自身が持つ苦無、あるいは苦無が埋まる肉へと注がれている。


 伊織は緩慢な動作で腕を上げ、拳を背側にやった。さらに、苦無が突き刺さる箇所から僅かに左を一、二度軽く叩いてみせた。



「……心の臓は、もう少し、左だ」

「……っ」



 心臓には刺さらなかったが、肺には刺さったらしい。言葉を発する合間にも、血が口から湯水のように噴き出す。


 こんな時でも与えてくれる教えに、後輩はこれまで続けていた我慢をやめた。苦無を抜き、地面にくずおれる伊織の身体を抱きしめ、自分も地面に腰を落とす。身長差があるせいで、伊織の背がずるずると後輩の胸を滑っていき、伊織の頭が彼の膝の上にくるまで滑り落ちた。



「先輩! 伊織先輩!」



 涙が止めどなくぼろぼろとこぼれ落ちていく。すると、伊織が後輩の頬へ手を伸ばした。その手を、後輩はひっしと掴む。



「なみだを、みせる、な」

「嫌だっ! 俺、俺っ、まだ全然っ! ごめんなさいっ! ごめ……っ!」



 こんなに悲しまれてしまうのなら、裏切りの体をとった意味がない。だが、追加した左近原案の策は成功した。いや、むしろ、成功しすぎたともいえる。必死に謝ってくる彼らが、この先どれだけ主君や里に尽くしてくれるかは未知数ではあるが、これほど衝撃的な任務もそうそうないだろう。


 敵だと言っているにも関わらず、悲しみを全面に押し出す後輩に、伊織は仕方ないなと仄かに笑う。そして、それから間もなく、伸ばされていた手はだらりと力を失った。


 現実をしばし直視していたくなくて、固く目をつむった後輩の肩に、庄八郎の手が乗せられる。



「……泣くな。この人は、敵だ」

「でもっ! 先輩……っ!」



 すぐ隣に立つ庄八郎を見上げると、庄八郎は顔だけ逆にそむけていた。だから、今の彼の表情がどんなものかは後輩には分からない。ただ、ほんの少し、本当に僅かな間、小刻みに肩が震えていたことだけは分かった。


 だから、それ以上何も言えず、ただ黙って嗚咽おえつを堪え、徐々に熱を失う伊織の手を握りしめていることしかできなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る