家康に信長の意向が告げられてから数日ののち、事態は目まぐるしく動いていった。


 八月三日、急いで浜松城から岡崎城へと訪れた家康は、信康との話し合いの場を設けた。話し合いの中、信康は自分の無実を当然訴えてきた。そして、その上で家康の信長への対応に対する不満をぶちまけた。


 ――こうしていつまでも信長の顔色ばかりを窺っていると、いつになっても信長の家臣のような扱いはなくならぬ。それが何故父には分からぬのか。だからこそ、自分の配下の者を使い、さらなる高みを目指して何が悪い。


 信康の明らかな増長は家康を落胆させた。


 元々その気があったがゆえに、早まって妙な気を起こさぬよう昨年から家臣団とも距離を取らせていたのだ。しかし、それだけでは既にできあがった性格を直す根本的解決になろうはずもなかった。

 武勇に優れている点はこの上なく頼もしいだけに、その者を形成する幼少期から放任してしまったことが悔やまれてならない。


 家康はひとまず本格的に信康と岡崎衆との分断を図るべく、岡崎城から信康を出し、大浜城において事実上の幽閉生活を始めさせることとした。そして、時をあまり空けず、堀江城、二俣城と城を転々とさせることで、信康の居場所を掴みづらくしたのである。

 それは、安土で様子を窺う信長や自分達の旗頭とするために救出しようとする岡崎衆だけでなく、おそらく背後にいるだろう八咫烏を警戒しての対応であった。


 そうして時間を稼ぎ、信康の頭を冷やさせ、改めて信長に許しを請わせる。それが家康が選んだ信康の対処であった。

 万が一を考え、岡崎衆には証文をとり、今後信康と接触させないようにすれば、少なくとも徳川一門から離反者がでることはなくなる。


 家康はそのための準備を進めていた。



 一方、八咫烏の里では、伊織達が今日も雛達へ鍛錬をつけていた。


 館で休んでいたところを連れ出された厳太夫が、左近と向かい合い、組手の実演を以之梅の子供達と宮彦に見せていた。二人が自由に打ち合い、それを隼人が解説していく。


 余裕綽々よゆうしゃくしゃくといった様子の左近に、厳太夫も後輩の前である。多少はいい所も見せたい。それが十七のまだまだ青年期の心。

 それに、こういう場は数少ない先輩いおり後輩じぶんがやり返せる場。常日頃の恨み辛みをうんと込めても怖いことなど何もない。


 左近は、鳩尾みぞおちあごねらって二度に分けて素早く蹴り上げてきた厳太夫の足を、片腕ずつ使って危なげなくさばいてみせる。厳太夫が足を下ろして次の手に入る前に、左近は足を上げた反動で僅かに締めが甘くなっていた厳太夫の脇腹に、見事な横向きの蹴りを叩きこんだ。普段から木と木の間を飛び回るような者の脚力である。厳太夫は体勢を崩し、地面を転がった。



「あんな風に、蹴り飛ばされたらすぐに受け身を取る。次手にすぐ移せるように、ほら。いけるだろう?」



 隼人の言う通り、厳太夫は受け身をとる。そして、すぐさま起き上がり、次手に転じてきた。そのまま組み合いは続き、一段と激しさを増す。


 と、ここで、隼人が何かに気づいた。



「これが二人だとこうなるが。……彦四郎! いいぞ!」

「おぉー! 待ってました!」

「うげっ!」



 門の方から物凄い勢いで駆けてくる彦四郎が、満面の笑みで二人の組手に乱入する。


 左近一人でも持て余していたというのに、ここに彦四郎も追加となると、彼の代の中では体力に自信がある厳太夫でも荷が重い。つい、口から本音が漏れてしまった。


 誰かに集中攻撃が加えられるということはないが、ないからこそ全く気が抜けない。下手な侵入者よりも、こちらを相手にする方が何百倍も骨が折れるのだ。


 もう何十手も二人の攻撃を対処したり、逆にこちらから仕掛けたりしていると、厳太夫もさすがに息がきれてくる。厳太夫が息を整えている間、左近と彦四郎は二人で打ち合いを始めた。



「厳太夫はおいといて、正直、左近も力では彦四郎に負ける」

「左近は細いからな!」

「……なんだって?」

「あ、馬鹿」



 彦四郎が笑顔で声を張り上げて言い放った一言に、左近が笑みを浮かべつつも眉をぴくりと動かした。

 皆と同じように鍛えているというのに、なかなかつかない筋肉。それが長年の悩みである左近にとって、この手の発言は例外なく禁忌である。


 隼人が呟いたかと思えば、次の瞬間、今までのは何だったのかと思うほど高速の打ち合いが幕を開けた。邪魔にならないようにと、厳太夫も早々に隼人や子供達のいる方へ避難してくる。こうなると、誰も手の付けようがなかった。



「お、おぉーっ!」

「すごい。とまらない」

「でも、こんなにつづけてじゃ、それこそたいりょくがもたないんじゃ?」

「そうだ。でも、体術は力だけじゃなく、頭も必要になって来る」

「だからこそ、左近は攻めてるんだ。頭の回転は伊織と同等のもの持ってるからな。対して彦四郎は単純だ。次々かけられる仕込み技に徐々に絡みとられ……っと、ここで普通は足元をすくわれて終いだ。あいつが体勢を整え直せたのは、なんていうか、半ば人間離れしたあいつだからだ。真似しようと思ってできるもんじゃねぇから、あそこまではできなくてもいい」

「というか、あの人の真似はするな。どこか筋を痛めるぞ?」



 隼人の言葉に被せるように言った厳太夫の発言は、目を輝かせて彦四郎の動きを見ていた三郎に釘をさすためである。

 手本にならないものを手本にして怪我をしているようでは、目も当てられないし、きっと後で色んな者から小言を食らう羽目になる。それは絶対に避けさせてやりたかった。


 そして、隼人はふぅと溜息をつく。



「だから、こうなると左近の負けだな」



 え?と子供達が隼人の方を見上げた瞬間、左近の悔しそうな声が辺りに響いた。



「あー負けたー!」

「うっほほぉーいっ! やりぃ!」

「しかも、子供達の前で……情けない」



 地面に組み伏せられた左近は、立ち上がらずにそのまま地面に座り込み、がくりとこうべを垂れた。


 短期集中型である左近は早めにけりをつけようとしたのだが、最後には彦四郎の持久力が勝った形であった。もし、あのまま彦四郎が体勢を整え直せなければ左近にも勝機はあっただろう。もしくは、厳太夫と事前に組手をしていなければ。


 しかし、忍びは結果が全て。負けは負けである。


 そんな左近を見て、子供達は左近の元へ駆け寄っていった。



「せんせーい!」

「すごかったです!」

「さいしょはちょうみたいにひらひらしてて、つぎはおおかみみたいにこう、しとめる! みたいな!」

「もういっかいみたーいでーす!」

「もう一回かぁ。しばらく休憩させてくれるかな?」

「あの、おけがとかしてませんか? だいじょうぶですか?」

「うん? あぁ、心配いらないよ。ありがとう」



 そう言うと、解説を厳太夫にさせ、隼人が代わりに彦四郎の相手をすることになった。


 二人が組手を始めるのを横目に、んでおいた水桶みずおけから柄杓ひしゃくに水を入れ、そのまま口へ運ぶ。汲んでから時間が経っているので少しぬるくなっていたけれど、それでものどは十分にうるおっていく。


 柄杓を桶の中に戻していると、横から声をかけられた。



「ん? あぁ、庄八郎。帰ったの」

「はい。それで、先輩方のお耳に入れておくように伊織先輩に言われていることが」

「伊織に? なんて?」



 子供達の視線がこちらには向いていないことを確認した上で、庄八郎は口元を手で隠し、小声で告げてきた。



「どうやら、徳川殿が嫡男をほとぼりが覚めるまでどこぞへかくまうつもりのようなので、一つ、また仕掛けるぞ、とのことです」

「仕掛ける、ねぇ。……そういえば、例の城の老臣はどうなってる? 捕えておいたけど、何も吐かなかったっていう忠義にあふれたお侍様」

「確か、まだ館の地下牢だったかと。始末したという話は聞いていませんので」

「ふーん」



 何事か伊織に提案する策を考え始めたのか、左近の口元にはうっそりと笑みが浮かんでいる。



「では、隼人先輩と彦四郎先輩には先輩からお伝えお願いします」

「分かったよ。……あ」

「どうかしました?」



 踵を返しかけた庄八郎は、左近の歯切れの悪い言葉に首を傾げてその場に踏みとどまった。

 そして、次の瞬間、今度は両肩を背後から誰かに掴まれた。逃がさないとばかりにがっしりと掴まれた手はなかなか離れそうにない。



「しょーはちろぉー。まってたぞーぉ」

「うわっ! 厳太夫、お前、なんだよ! 離せっ!」

「そう言うなってー。ほら、身体動かしたりないだろ? 稽古、一緒にやっていこうぜ? まぁ、彦四郎先輩と地獄まで行くやつなんだけどさぁ」

「ぜってぇやだ! 俺、伝令の仕事がまだ残ってるから無理! ぜってぇ無理っ! ……っせいっ! んじゃ、がんばーれよっ」

「あっ! 逃げるなよっ! ……は、薄情者ーぉ!」



 皮肉にも、その大声で体力が戻ったと判断された厳太夫は、彦四郎の次の鍛錬相手に見事選ばれるのであった。


 その後、左近と隼人、厳太夫の三人を連続して相手をしても息ひとつ乱さない彦四郎に、三郎は弟子入り志願しようとした。

 しかし、それに対して三人から全力で止めに入られたというのは、後の三郎にとって、懐かしき良き思い出の一つとなるものであった。


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