第八章―納涼を求めんが為



 今年の梅雨も明け、やって来たのは蒸し暑い夏。

 昔々、五百年程時を遡れば今よりもさらに暑く、むしろ今は寒いくらいだと知識人達は言う。しかし、今しか知らぬ者にとって、自分達が日々過ごしていくのに快適な気温を過ぎてしまえば、夏とはやはり暑いもの。


 盆地になっている都程ではないとはいえ、じとりとした蒸し暑さはどうにも不快さを増す。


 学び舎の師用の長屋。

 ここにもその蒸し暑さに負けた者達がいる。


 最初はひやりとした床も、長く転がり続けていればじきに人肌くらいになろうというもの。それでも新たな冷たき場所を求め、ごろごろと転がり続けている。



「さーこーんー」

「なぁにー?」

「あついよー」

「ぼくもー」



 最初に音を上げたのは左近の方であった。以之梅の講義を終え、長屋に戻って寝転がっていると与一がやって来て、今に至るというわけだ。


 しかし、暑い暑いと連呼していても涼が取れるわけではない。


 ぼうっとなってきた頭を軽く振り、左近はむくりと上半身を起こした。



「やろう」

「え?」

「涼しくなるやつ、片っ端から」

「でも、まだ水無月だよー? これからもっと暑くなるのに、もうやっちゃうのー?」

「その時はその時。隣の山の洞穴にでもあの子達ごと連れて行って、そこで講義をする」

「あ、いいなぁー。その時は僕も一緒に行こうっと」



 与一も起き上がり、そのまま胡坐あぐらをかく。


 一口に涼を求めるといっても、思いつくものはいくつかある。しかし、そのどれも自分達だけでするにはちと味気ないし、なによりつまらない。


 二人は忍びらしく機敏な動作で立ち上がった。それは、つい先程まで自分達の身体で床を掃除しかねない勢いで、部屋中をごろごろと転がり回っていたとは思えないほどだ。



「なら、まずは人員確保といきますか」

「おーっ」



 目指すは皆が集まる場所、食堂。

 あら、素敵。獲物達こうはいたちが自ら進んでやってくる格好の待ち伏せ場所である。


 矢立と書きつけに失敗した紙を手に、もうすぐ夕餉の時間を迎える食堂そこへ、心躍り浮き立つ様子を隠しもせず、大の大人が二人して軽く飛び跳ねていった。



 食堂で手早く自分達も食事を済ませ、四半刻ほど。

 ここまでに三人――厳太夫に勘助、庄八郎だが、彼らをすでに捕えてある。


 そして、また新たに戸が開けられた。



「お菊さーん。今日の夕餉は……」



 戸を開けて食堂の中を覗いた瞬間、こちらに向かってにやぁっと意味ありげに笑いながら見てくる左近と与一の姿に、顔を覗かせた後輩――主水はそのまま中には入らず、逆に急いで戸をぴしゃりと閉めた。


 食堂の外からは、主水と一緒に来たと思しき他の面子の声が中まで漏れ聞こえてくる。



「どうした?」

「早く入ろうぜ? 俺、腹減って仕方ない……」

「あっ! よせ!」



 主水の制止よりも早く、戸は再び開かれた。


 顔を覗かせる右京と新之丞、それに二人の肩を引く主水の肩に、ぽんっと。



「やぁ。待ってたよ」

「さぁさぁ、お座りよー」



 出迎えの言葉は左近と与一から。


 先程まで座っていた所から移動し、戸の左右で待ち構えていた勘助と厳太夫が、右京と新之丞の肩へ腕を回し、空いた手で主水の上衣の襟元を引っ掴む。


 その間に、庄八郎がお菊から三人分の膳を受け取り、自分達の近くに並べた。



「そ、そういえば、今日は館で飯を食うって言ってあったよーな」

「なぁにを言ってる、お前達。お前達の分もお菊さんがちゃあんと用意してくれてるぞ?(お前達だけ逃げるなど、許さん)」

「いやぁ。やっぱり館で作ってくれてる奴に悪いじゃないですか(俺らを巻き込まんでください!)」

「先輩方は今日はこちらだったんですね(あんたら何で捕まってんですか!)」

「あぁ。少し長めの休みを頂けたからな。せっかくだからお菊さんが作った料理を食べようと(思ったら捕まった)」

「俺達、やはり館でか、それか後で頂くことにします。お邪魔しちゃ悪いですし(だからさっさとこの手を放してください!)」

「邪魔なものか。先輩方もお待ちだったぞ?(誰が逃がすか、阿呆)」



 四人は笑顔で楽しげに会話をしているが、小さく早口で交わされる言葉の方が彼らの紛うことなき本音である。


 左近と与一の傍に残る庄八郎には悪いが、このまま四人で逃げるという手もなくはない。なくはないが、それをすれば最後。残った時よりもよほど酷い目に遭わされることは間違いない。だから、それは絶対にしない。


 唯一この場を穏便に離れることができる手段として、急に入った任務があるが、それも虚偽申告すればすぐにばれる。かといって、主水達が言ったような話で逃げ切れるかというと、このように逃げ去りたい者同士の足の引っ張り合いがある。


 結局のところ、彼らと同じ時期に里の内にいて、一度でも目をつけられていれば、そこで終了なのだ。


 逃げたい後輩と追い詰めたい先輩。

 鼠と猫の関係にも似たソレは、きっとこの先も続くのだろうが、それを彼ら後輩達は決して良しとはしていない。


 だがしかし。

 下剋上に至るにはまだ無理そうである。



「さっきから何か小声で聞こえるんだけど、気のせい?」

「気のせいです!」

「きっと、外の声だと思いますよ! えぇ! ここの戸、意外と薄いですからねっ!」

「へぇ。そう」

「君達の気持ちを代弁してくれる親切な奴らがいたものだよねー」

「いやぁー感心感心ーですねっ」



 厳太夫達は揃ってあはははぁと笑う。


 年次からして、自分達の一つ上、四つ上。

 右京達はまだ年の差があるといえばあるが、厳太夫達からしてみれば一つしか変わらないというに、この差。この圧。左近と与一の得意とする物が大いに影響しているとはいえ、そうそう追いつけるものではない。


 主水達は観念して腹をくくり、厳太夫達に押されるがまま、用意された膳の前についた。


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