はるが来る
「俺、東京に行くよ」
秋人は、そう言って、手をぎゅっと、つよくにぎって、わたしがここにいることを知っているみたいに、わたしを見て言った。
「今まで、ごめん。あのとき、無理に誘い出して、ごめん。俺が無理をさせなければ、美冬はもっと頑張って、良くなれたかもしれないって思ってる」
はじめ、どうしてそんなことを言うのか、分からなかった。
わたしは、なにも言えなくなって、だけど、頑張らなきゃとおもって、わたしを埋めるつめたいゆきを掻き分けた。
「そのうちに、だんだん、美冬のところに来るのが申し訳ないような気持ちになって。いや、俺は、そう思っていることにして、自分の悔いから目を背けていたんだ」
そんなこと。わたしこそ、ごめんなさい。そうだとしたら、わたしは、やっぱり、秋人をゆきの下に連れていって埋めてしまったんだ。
「だけど、誰といても、何をしても、忘れたことはなかった。これだけは、ほんとうだ」
わたしも、おなじ。わたしも、秋人だけをずっと見ていたよ。
「俺は、東京に行く。いつ戻るかは、分からない。それは決めたことだけれど、とても怖くなってしまって」
そんな顔、はじめて見た。わたしといるときも、わたしじゃない人といるときも、そんな顔はしたことがない。どうして?
「このまま、美冬を忘れてしまうんじゃないかって。そう思うと、とても怖くて」
わたしは、また、なんにも言えなくなってしまった。
そんな言葉、おまじないみたいだとおもった。
だって、わすれてしまっても、しかたがないから。
「どうしてか、美冬はずっとここにいるような気がして。だから、忘れないように、会いに来たんだ」
わたしは、あっと息を飲み込んだ。
秋人のきれいな目のふたつから、もっときれいな、お星様よりもきれいな雫がぽつり、ぽとりと落ちて、さみしい色の落ち葉をくろくしたのを見た。
「なあ、美冬。もう一度、話したいよ。声を、聴かせてくれよ。もう一度だけでいいよ。お願いだから、お願いだから、もう一度だけ、会いたいよ。どこにいるんだよ。美冬。美冬、美冬」
わたしの目にもおんなじものがあふれてきて、我慢できなくなって落ちて、秋人のそれと重なって、そうすると、あたたかくなって、とてもあつくなって、わたしを離さないゆきが溶けてゆくような気がして、かなしくて、いとおしくて、うれしくて。
「わたしは、ここにいるよ」
秋人が、はっと顔を上げた。穴から出たばかりの蛙みたいにあたりをきょろきょろと見回して、やがてわたしを見上げた。
「わたしは、ここにいるよ。秋人は、とてもきれいで、あたたかくて、あつくて、だから、だいじょうぶ」
秋人は、いきている。血の脈がとくとくとからだを走り回って、こころをあつくしている。だから、つめたいゆきの下に一緒に閉じこもってはいけない。
そうおもうと、わたしは、からだが軽くなって、木の上へとぱっと飛んで、そらの中で泳ぐことができた。
「だいじょうぶ」
わたしを埋めていたつめたいゆきは、溶けた。だから、だいじょうぶ。
秋人も、だいじょうぶ。
ちゃんと聴こえたかどうかは、分からない。
今日、あきとふゆの間の、名前のない日。
秋人が見ているそらには、雲。
明日は、またしばらくぶりのゆきがふる。
聴こえるように、ずっとおおきな声で、秋人に向かってわらった。
「ねえ、秋人。ふゆが来るよ」
秋人は、赤くなった目をこすり、うなずいたように見えた。
「だから、はるが来るね」
陽がおちるとき、秋人はわたしのところから、自分のところへ向かって行った。
やっぱり、その足音はおんなじだった。
完
雪を溶く熱 増黒 豊 @tag510
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