覚とその妻

第1話 空木夫妻

 ここは、錦町にしきまちに接する妖との境界。


 ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。


 たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。


 元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵らくあん』に辿りつけれるかもしれない。










 さて、客として行くのは久しぶりだったが。


 約束をしたのに、三月みつきもの時間をかけてしまった。


 だが、それほど時間をかけた意味もある。


 さとりの一人、空木うつぎは琵琶を人間が扱うようなケースに入れて。準備がそろそろ出来たはずの妻の方にと声をかけた。



美樹みき、行きますよ?」

「は、はーい! 空木様、早いです!」

「ふふ。あとは、美樹の化粧だけですか?」

「はい! あと少しです!!」



 名古屋とは程近い場所にある、春日井かすがいの界隈に居を構えている空木。騒がしいところは嫌いではないのだが、年々その騒がしさに妻である美樹が少々辛いとこぼしたのをきっかけに。


 だいたい十五年程前にこの界隈に越してきた。平屋の日本家屋を購入したが、演奏家としても名を馳せていた空木の懐はぴくりとも動いていない。


 それに、子も離れて。錦の界隈で見かけてから色々施してやった、二人の子孫でもあるあの少女。妻と瓜二つのあの子に、今日やっと会える。


 美樹も楽しみだから、装いに気合を入れているのだろう。支度が出来たら、それはそれは愛らしい女性となっていた。



「美樹、美しいですよ?」

「あ、ありがとうございます。着物も少し久しぶりなので」

「ふふ。世の装いに順応してしまいましたからね?」

「楽ですけど、せっかく子孫に会えるのなら張り切りますよ!」

「そうですね。例の贈り物は?」

「空木様にいただいた、この鞄の中に!」

「わかりました。行きましょうか?」

「はい!」



 その前に、と空木は軽く人化の術を自分に施して。髪は黒で少し短く。目も黒に近い茶色に。


 出来上がった空木の顔に、美樹はほうっとため息をこぼした。



「どうですか?」

「素敵です……!」

「美樹に喜んでいただけて何よりです。さ、久しぶりに人間界にも行きましょう?」

「はい!」



 琵琶は背負う形なので、空木は美樹と手を繋ぎ。


 通り過ぎるご近所の妖達と挨拶をしながらのんびりと、人間達の住むあちら側に向かい。


 地下鉄はないので、JRで春日井からまずは名古屋駅に。


 時刻はまだ正午にもなっていないのに、人間達がひしめきあっていた。



「……相変わらず、ここはいつも人通りが多い。美樹、大丈夫ですか?」

「大丈夫です! 空木……さん」

「ふふ、それならよかったです」



 流石に、人間達がいる中で様付けするのは不審がられてしまう。美樹も随分と長く生きているはずなのに、その慣れていない感じがいつまでも初々しく感じるのだ。



「あ、○ナちゃん人形!」



 名古屋駅の名物の一つとも言える、巨大なマネキンのことだが。


 相変わらず無駄に大きい。下を潜る時に上を見ても暗くてよく見えない。大したものだと、空木も毎回感心してしまうが。



「美樹、せっかくですから。お昼はホテルの中のランチと行きませんか? 以前紹介したマネージャーと連絡を取ったので、予約済ですよ?」

「い、行きます!!……けど、この恰好で大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ、和食なので」



 夜もある意味和食ではあるが、あの猫人のことだから色々創作料理を作ってくれるかもしれない。


 琵琶を落とさぬよう、美樹の手を離さぬよう、ゆっくりと空木は双子のようにそびえ立つ高層タワーのホテルの一角に向かうことにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る