狼男とパンケーキ


 タピオカとかいう得体の知れないつぶつぶが流行するような平和なこの国でも、僕たち“狼男”というのはいまだお月様との睨み合いが絶えない。


「これは月じゃない。大丈夫、月じゃない……たまごの黄身だ……」


 ざわざわと波立つ本能を鎮め、僕はアパートの狭いキッチンでひとり唸っていた。


 炊きたての白米の上に鎮座し、醤油のショールをまとって黄色に輝く食材。

 “丸くて黄色”という月と完璧な類似点を持ったコイツですら、修行を積んだ僕には変身のきっかけとはならない。


「ふー、よし。耐えた。こいつめ、こうしてやる!」


 僕はそいつにグサリと箸を突き立て、白米の山を駆け下りる黄色い溶岩に変えてやった。

 納豆よろしく手際よくご飯とからめ、鋭利な歯が立ち並ぶ口へと放り込む。


「うん。卵は完全に攻略できたぞ」


 勝利の味を噛み締め、僕は時計を見た。

 そろそろ愛しの彼女宅へと出かける時刻だ。


「気にしない。気にしない……」


 街中でも気は抜けない。“丸くて黄色いもの”というのは、意外とそこかしこに潜んでいる。


 信号機の黄色。

 幼稚園児たちの頭で揺れる帽子。

 塀の上で昼寝をする猫、その首輪に光る鈴。


 そんな危険を避け、あるいは乗り越えながら僕は進軍する。

 三つ年上の彼女が待つ、愛しの城へ。


「いらっしゃーい。入って入って!」

「お、お邪魔します」


 カラッとした明るい顔と声を認めると、力んでいた僕の肩がふにゃりと下がる。

 見慣れぬフワフワとした水色のスリッパが、きれいに揃えられていた。


「君のだよ。サイズ合えばいいけど」

「え。あ、ありがとう」

「色は好き? 爪は引っかからない?」

「大丈夫です」


 デザイナーの彼女らしい細かな気配りに頷き、僕はスリッパを履く。爪は引っかからないかわりに、フワフワの奥にずぶりと突き刺さった。また切らなければ。


「散らかってるけど、好きに座っといてー」


 これまでの二度の来訪時にも同じセリフを聞いたが、この部屋が散らかっていたことなんてない。

 ヒトよりも高機能な鼻をくすぐるのは、知的なジャスミンの香り。グレーとブラウン、それから淡い青を基調に整えられた部屋は、こちらが恐縮するほどのセンスに溢れている。


「はい……失礼します」

「ふふ! いつになったら敬語とれんの? もうひと月も経つのに」

「す、すみません」


 僕の相変わらずの返答に、彼女は面白そうに笑ってキッチンへと消えた。



 ひと月――。

 月という響きはイヤな感じがするが、実に記念すべきことだ。



 慣れない会社がらみの飲み会で気分が悪くなり、ひとり喧騒から這い出したあの夜。

 空に浮かぶ満月をうっかりと見てしまうも、「ああこれはだめだ」と酔った頭はすぐに白旗をあげた。


 今から自分は野良犬も逃げ出すほどの遠吠えを披露し、会社をクビになるだろうと覚悟を決めた途端――


「どうしたの? 大丈夫、君」


 そこには満月を遮って僕を見下ろす、美しい人間がいた。

 彼女は僕が何を見つめて葛藤しているのかを悟ると、慌てて隣にかがみ込んでコンビニの袋をがさごそと開け始めた。


「そっか、君は“オオカミくん”か。月が辛いんだね。じゃあ、これはどう?」

「それ、は……?」

「よーく見て。ほら」


 彼女が割り箸でつまみ上げたのは、ぷるぷるとしたおでんのコンニャクだった。



「ね。完璧な二等辺三角形でしょ!」



 お洒落なジャスミンの香りの中に、たしかにあのだしが効いたおでんの匂いがよみがえる。

 広いリビングの中央で、僕はひとり吹き出しそうになった。


「なに笑ってんの? ちょっと待っててよー。今日はあたしの得意なおやつ、作ってあげるからさ」

「するんですね、料理」

「バカにしてんの? いつもは作る時間がないだけ。本気出せばできる子だよ」


 カフェの店員さんみたいな短いエプロンを細い腰に巻き、彼女は再びキッチンにこもる。

 いつの間にか用意されていたコーヒーをすすり、僕は質素な自宅よりもくつろいだ気分になった。


「ふう……」


 丸くて黄色いものを見ても、変身の本能を抑えられるようにする。

 今までは“こちら”の社会に溶け込むためにしぶしぶやってきたこの訓練も、彼女のためなら気合も入った。


 引きこもっていた休日にも街へと繰り出し、デートを想定した道で目に留まりそうなものを探し歩いた。


 おかげで色々な丸くて黄色いものに耐性がつき――やっぱり、ぎくりとはするものの――変身まで進んでしまうことはなくなった。


 彼女には、感謝してもしきれない。

 僕が“異客人”だと知っても偏見を向けられなかったし、過度に優しくされることもなかった。狼男としても、駆け出し社会人としての悩みも聞いてくれ、いつも的確なアドバイスをくれる。

 彼女がおでんにかける辛子と同じく、少しピリリとする言葉で。


「いい匂い。なにを作ってるんですか?」


 甘い香りに僕が黒っぽい鼻をひくつかせて訊くと、彼女の悪戯めいた声が返ってくる。


「オオカミくんでしょー。当ててごらんよ」

「うーん……クッキー?」

「はずれ。そんな時間かかるものじゃないなあ」


 言われてみればそうなのだが、僕はお菓子になんて詳しくない。

 そもそも、“こちら”に来るまでそんなものがあることすら知らなかった。そんな乏しい知識を総動員し、僕は考えついた菓子名を片っぱしから挙げる。


「ケーキ、ドーナツ――あっ、わかった! かすていらだ!」

「君は江戸時代の人か。まあそれよりずっと、異国人には違いないけど」

「違う? じゃあ、うーん……」

「ざんねん。時間切れ」


 皿やフォークを僕の前に並べ、彼女は容赦なくそう告げる。はちみつのポットと、ドミノみたいに重なった四角いバターが入った容器を見て僕はさらに首を傾げる。


 熱々のフライパンを捧げ持った彼女が、得意顔で正解を発表した。


「正解は、みんな大好きパンケーキでしたー!」

「!?」


 パンケーキ。

 知っている。街の中心に専門のお店がオープンして、大勢の女性が行列を作っているのを見たことがある。ショーウインドウは、こんがりと金色に焼いたふかふかの“それ”の絵でいっぱいだった。思い出すだけでも尻尾が逆立つ。


「え、えっと、あの」

「あれ、パンケーキ嫌い? 卵アレルギーだっけ」

「いや、そういうのじゃなくて……」


 黒板に描かれたメニューの絵ならともかく、実物は目にした経験がない。

 初めて見るものには、とても気を払わねばならないのだ。彼女は僕の特性を忘れてしまったのだろうか?


「ああそっか! パンケーキって月と似てるもんね」

「そ、そうなんです……」

「うん、だいじょぶだいじょぶ! けっこうコゲちゃったし、月とは似てないから」

「えっ!? い、いや――!」


 いつもの陽気な笑い声と共に、彼女はフライパンを傾けた。

 いい匂いのする物体が、するりと僕の皿の上に滑り落ちる。


「うわっ――!」

「よーく見て。ほら」


 いつかの満月の夜も、彼女はそう言った。

 その言葉で酔いは吹き飛び、世間知らずな狼男は恋の沼に落ちたのだ。


「……っ」


 僕は固く閉じていた目をそろそろと開け、皿の上を見る。

 端が黄色くカーブを描いているのを確認すると、ざわりと肌が粟立つ。


 しかしその全貌を目にした僕は、思わず作り主に訊いた。


「……? ええと……“パンケーキ”は?」

「目の前にありますけど?」


 どこか不服そうな彼女の声に促され、僕はもう一度“それ”を見る。


 黄色いカーブはどこまでもどこまでも続き、その物体の端を複雑な形に仕立て上げていた。

 きっと“お好み焼き”のようにそっと液を垂らしたのではなく、彼女はフライパンに思い切り液を叩きつけたのだろう。


「ど、独創的な形ですね。ドラマで観た、犯行現場の血痕みたいです。そっか、これがアート……!」

「そんな突き抜けた感性、育まないでくれる」

「じゃあもしかして……僕の特性を考慮して、こんな歪な形に仕上げて」

「悪かったね。それが全力投球の結果で」


 ぷいとそっぽを向きつつも、座った彼女はパンケーキの上にどばどばとはちみつを浴びせはじめた。

 僕はもう一度、彼女のはじめての手料理を見下ろす。


「……ふふっ!」



 僕らの恋はきっと、このパンケーキみたいにでこぼこだ。

 だからこそ――吠えたくなるほど、愛おしい。



「あおーんっ!」

「わっ! びっくりした。まさか、こんなパンケーキでも変身しちゃうの?」

「いえ――嬉しい時にも、吠えたくなるものなんです。はじめて知りました」


 

 彼女は珍しく数秒ぽかんとしたあと、きっと仕事中には見せないだろう笑顔をのぞかせる。

 手を伸ばして僕の髪をぐりぐりと掻き乱し、満足そうに言った。


「ナマイキなオオカミくんだ。じゃあ、夕飯でリベンジしてあげるよ!」

「なにを作ってくださるんですか、シェフ?」

「天津飯。これは正真正銘の得意料理!」

「てんしんはん? わかりました、楽しみにしておきます!」




―出演―


1:狼男……彼女に良いとこみせたい頑張り屋の新社会人。花粉症。


2:彼女……急に増えていく世のネコ派に疑問を呈する古参のイヌ派。


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