第156話 黒い犬

 ヒルデは足を止めて頬に手を当てると、前方に見える建物を見上げた。


「……おかしいですわ」


 左右に目をやり、もう一度前を見た。何度見ても、そこには王宮が鎮座していた。


「わたくしたちはこの王宮を出て方々に散ったはず……にもかかわらず、わたくしの前には王宮がある。……考えられることはひとつしかありませんわ」


 得心がいったヒルデはさっと後ろを振り返った。


「これは敵の罠! わたくしさえも惑わすほど強力な幻術ですわ! 術の冴えは褒めて差し上げますが、相手が悪かったですわね!」


 ヒルデは目の前の虚空をびしっと指さした。


 その状態で三分ほどたった頃、角を曲がって三人の女がヒルデの前に現れた。


「バルドヒルデ!」


 金色にきらめく髪を短く切ったバーニス・マルフルロント・グロバストンが足を止めた。


「待ちかまえていましたか!」


 エプロンドレス姿のパトリシアは太股に固定してあるパワーポールを素早く引き抜いた。


「あれが紅蓮の聖女……!」


 最後のひとりは髪の長い女だった。

 バーニスよりも少し年上で、左腕に複雑な形状をした武器のような物を固定していたが、ヒルデにはそれがなんなのかわからなかった。


「あらあら、このような小賢しいまねをしたのがかの女王陛下だとは思ってもみませんでしたわ」


 ようやく姿を見せた相手に対して、ヒルデは不敵な笑みを浮かべた。


「お前たちの狙いが我々であることがわかっている以上、民を逃がすのは女王として当然の責務だ」


 バーニスは左手に短剣を持ち、いつでも仕掛けられるよう体勢を整えていた。


 だが、ヒルデにはそれよりも気になることがあった。


「とぼけるだなんて……あなたらしくありませんわね。わたくしは既にこの幻術を見破っているのですわ。素直に白状したらどうですの?」


 ヒルデは口元に手を当てて女王を嘲った。


「……どういうことでしょうか……ワムシュ殿がなにかやったのですか?」


 パトリシアは油断なく構えながらも三人目の女に尋ねた。


「確かにワムシュは幻術も使えるけど、彼じゃないと思う。そちらのニンジャマスターじゃないの?」


 三人目の女は戸惑っているようだった。


「いや、サルトビの奴はなにもしていない。無論、わらわもだ。……これは一体……」


 バーニスも関与を否定した。


「あくまで白を切るというのならばそれも構いませんわ。どのみちやることは変わらないのですから」


 相手の態度に釈然としないものはあったが、ヒルデはそれを忘れることにした。改めて臨戦態勢にはいると、三人の顔色が変わった。


「信じられない……これほどの……」


 三人目の女は目を丸くしていた。


「そういえば、あなたは初めて見ますわね。帝国の方ですの?」


 砦での戦闘の時には居なかった相手にヒルデが聞いた。


「その通りよ。私はロプレイジ帝国の第一皇女、イシルダ・ブランディナ・ラグナイル」


「ブランディナ・ラグナイル……そこの女王様もそうですけれど、あなた方はどうしてこう名前が長いんですの? 覚えにくいですわ」


 ヒルデは率直な感想を述べた。


「覚えてもらう必要はないわ。あなたと会うのは最初で最後なんだから」


 イシルダはまじめ腐った顔でそう言うと、左腕に固定していた武器を展開した。

 折り畳まれていた部品が元の形に戻ると、イシルダの左手には上下に滑車のついた大きな弓が握られていた。


「一体何かと思っていましたが、弓だったのですね」


 ヒルデはイシルダの弓の複雑な機構に感心していた。


「レインメーカーよ。これも覚えておく必要はないけど」


 イシルダは腰の後ろにつけていた矢筒から銀色に輝く矢を引き抜くと、弓につがえた。


「余計なことをしなくて済むのはありがたいですわ」


 ヒルデは礼を言った。


「ええ。あなたにしてもらうことはひとつだけです」


 パトリシアが持つ遺物の鉄棍が長さと太さを増した。


「死んでもらえばそれでいい」


 バーニスは左手に持った短剣で右の手首を切り、血をあふれさせた。


「……皇女様はああいう風に仰いましたが、わたくしといたしましてはあなた方にわたくしの名前を覚えておいて欲しいですわ」


 ヒルデは社交的な笑みを浮かべて続けた。


「誰に殺されたのかもわからないようでは不憫ですもの」


 燃え上がる炎が紅いドレスとなってヒルデの体を覆った。


「わたくしはバルドヒルデ。紅蓮の聖女と呼ばれた者。この名を心に刻んでくださいまし。わたくしに挑んでしまった自分自身のどうしようもないほどの愚かさとともに」


 ヒルデは紅い瞳に炎を滾らせると、愚か者たちに身の程をわきまえさせてやるために足を踏み出した。




 フィーバルは王都の西にある戦没者広場にいた。

 帝国との戦争で亡くなった人々の慰霊碑の前には、銀髪の青年の姿があった。


「始まってるみたいだね」


 アルヴァンが言った。


「ああ。お前たちは終わりを迎えるんだ」


 フィーバルはうなずいた。


「それは遠慮したいな。まだまだ、物足りないし」


 アルヴァンは腰に差した漆黒の剣の柄に手を置いた。


「お前は最初からそうだったな。私がその剣の中にいたときからなにひとつ変わらない」


「そうだね。僕はなにも変わらない。君の方は大分変わったみたいだけど」


「……簒奪する刃がこちらの世界に落ちた後、ごく希にではあるがその剣が人の手に渡ることがあった。といっても、大事には至らなかった。その剣の力に耐えられる人間などいなかったからだ。ほんの一時、剣の力のひとかけらに過ぎないものを引き出して終わりだったのだ。誰か別の人間に倒された者もいたし、自らの手で命を絶った者もいた。終わりの形は様々だったが、長く続かなかった点だけは共通していた」


 フィーバルは簒奪する刃を見つめていた。


「そうだったんだ」


 つられてアルヴァンも黒い剣に目を落とした。

 剣はなにも語ることなく、静かに佇んでいるだけだった。


「つまるところ、その剣は誰ひとりとして主と認めなかったのだ。私も含めてな。私はなんとかしてその剣の力の根源までたどり着き、それを破壊しようとしていた。だが、私は剣の中をさまよううちに、剣が宿している破壊衝動に染められてしまった」


「初めて会った頃の君はなんだかちぐはぐだったよね」


 アルヴァンが言った。


「ああ。私は本来の自分では持ち得ない強すぎる破壊衝動に押しつぶされていたのだ。いつの間にか周囲から剣に宿る破壊の魔神だと思われていた。挙げ句の果てには自分自身でさえそれを信じるようになっていた」


「マヤも里のみんなもそう思ってたね。僕にはなんでそんな風に見えるのかよくわからなかったけど」


「そうだ。お前だけは私の真の姿に気づいていた。そして、それに気づいたのは長い年月でお前ただひとりだった。私はその剣を通じて、お前を見てきた。お前が剣の力を自分に引き寄せていく度に私は剣から解放されていった」


「君はだんだん変わっていったね」


 思い出すようにアルヴァンが言った。


「正気を取り戻した私は改めてお前の心を見た。そうすると、お前だけがその剣の力を引き出せた理由がわかった。お前がその剣に主と認められた理由が」


 フィーバルは顔を上げてアルヴァンを見た。


「お前の心はその剣を凌駕しているんだ。簒奪する刃さえも超越する破壊への欲求。お前にはそれが備わっていた。だから簒奪する刃を自由に振るうことが出来る。お前が持つものは、その剣を上回っているんだ。剣に染め上げられないのも当然だ。お前は既に剣よりも色濃く染まっていたのだから」


「ああ、うん。初めてこの剣を持ったときはちょっとびっくりしたけど、よく見たらあんまり大きくはないことに気づいたんだ。君がいるせいもあって不自由なところもあったけど、使い勝手はいいからそのまま使ってたけどね」


 アルヴァンは黒い剣の柄を撫でた。


 フィーバルには、主人が飼い犬の頭を撫でているようにしか見えなかった。


「一体なぜお前のような存在が生まれてしまったのかはわからない。魂の管理者はあくまで管理者にすぎないのだ。我々は創造主などではない。もしかしたら、お前は創造主が送り込んだ使者なのかもしれん。だが――」


「ごめん、ちょっと聞きたいんだけど」


 アルヴァンは詫びを入れてから尋ねてきた。


「創造主ってどこにいるのかな? 出来ればそれも壊してみたいんだけど」


 問いかけるアルヴァンの顔は期待に輝いていた。


「生憎だが私は知らない。創造主になど興味もない。私は生ある者の一員として、破壊をもたらすだけのお前を倒すのみだ」


 フィーバルはその手に白い簒奪する刃を出現させた。


「そうか。君も知らないんだね。残念だけど、まあいいや。とりあえずは君がいるし」


 アルヴァンは下僕である黒い剣を抜いた。


「ああ。お前の相手はこの私だ。そして、お前がなんであろうとも、今日この日で、お前は終わりだ」


 白い剣とともに迫るフィーバルを、アルヴァンは喜びに満ちた顔で迎え撃った。


 その手には黒い剣を従わせていた。

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