第43話 船出
「ご迷惑をおかけしましたわ」
船が出航してから数時間後、まだ少し顔色が悪いものの、だいぶ調子を戻したヒルデが甲板から船室に戻り、頭を下げた。
「大丈夫?」
アルヴァンが言った。
「だいぶ慣れましたわ。アルヴァン様の献身的な介抱のおかげですわ。おかげで昼食も取れましたし」
ヒルデが笑顔を見せる。
「ボクもいろいろ手伝ったんだけどね」
読んでいた本から目を上げてグレースが言った。
「あなたに助けてくれと頼んだ覚えはありませんわ」
ヒルデが顔を背ける。
「あ、服に汚れが」
グレースがヒルデを指さした。
「どこですの! 新しい服に着替える前に全部ふきと――」
ヒルデは慌てて自分の衣服を見たが、途中でグレースがニヤニヤと笑っていることに気づいた。
「め・ぎ・つ・ね・さ・ん?」
赤い瞳に殺意の炎を燃えたぎらせてヒルデが言った。
「見間違いだったみたいだね」
悪びれもせずにグレースが言った。
「今日という今日は我慢なりませんわ! 今晩のメインディッシュは狐の丸焼きで決まりですわ!」
ヒルデの体が強烈な魔力を放つ。
「さあ! 覚悟をろろろろろろ」
興奮によって再びぶり返した吐き気によってヒルデの口から放たれたのは今日の昼食だった。
アルヴァンとグレースが悲鳴を上げるなかでフィーバルの重いため息が船室に響いた。
「暇ですわ」
甲板から海を眺めながらヒルデがため息をついた。
「先ほどまでの大騒ぎの原因を作った方が何を言っておるんですかのう」
ヒルデが声のほうに目を向けるとローネンが船の縁に降り立った。
「あら焼き鳥さん、ごきげんよう」
にっこり笑ってヒルデが言った。
「師匠にとんでもないあだ名をつけるのはやめてもらいましょうかのう!」
ローネンが怒りをあらわにした。
「鳥頭の師匠なんて持った覚えはありませんわ」
「森での会話をもう忘れたんですかのう……」
「……はっ!」
ヒルデは森でのローネンとの戦いの中でなされたアルヴァンの提案をようやく思い出した。
「全く、鳥頭はどっちですかのう……」
ローネンは大きなフクロウの目でじろりとヒルデを見た」
「……えい」
ヒルデが指を鳴らすと、小さな火柱が上がり、ローネンの体を包んだ。
「反論できないからと言って私を亡き者にしようとするのはやめてほしいものですのう!」
しっかりと魔力障壁を張って炎を防いだローネンが言った。
「それで、いったい何をしに来ましたの?」
ヒルデは何事もなかったかのように会話を仕切り直しにかかった。
「切り替えの早さと潜在魔力量は天下一品ですのう……まあ、いいでしょう。私はヒルデ嬢に魔術を教えに来たんですのう」
精一杯の仰々しい口調でローネンが言った。
「その体だと迫力に欠けますわね」
フクロウを見下ろしながらヒルデが言った。
「そんなことはどうでもよろしい! 教わる気があるのか、ないのかそこをはっきりさせましょうかのう!」
羽を打ち鳴らして怒りを示しながらローネンが言った。
「あら、おかしなことを言いますわね」
不敵な笑みを浮かべてヒルデが言った。
「ホウ?」
ローネンが首をかしげる。
「わたくしがあなたから魔術を学ぶ気がないと言ったらあなたの立場はどうなると思います?」
「そ、それは……」
「その体になって魔力が落ちている今のあなたは戦力としてはカウントできませんわ」
「うぐっ」
「加えて、認めるのは腹立たしいですがあの女狐さんのほうがあなたよりも頭がいい。つまりあなたには参謀としての価値もありませんわ」
「ぬう」
「つまり、わたくしがあなたに教えを請うことを拒否した場合のあなたの末路は……」
「ま、末路は……」
「非常食ですの」
ヒルデの言葉はローネンを完膚なきまでに打ちのめした。
「それは……それはあまりにもあんまりですのう……」
「焼き鳥になるのがいやでしたらあなたがわたくしに言うことは一つしかないことくらいおわかりでしょう?」
悪魔のような笑みを浮かべて紅蓮の聖女が聞いた。
「……なにとぞ、なにとぞわたくしめにあなた様への指導役をやらせていただきたいのですが承知していただけますかのう……」
ローネンは悪魔に屈した。
「苦しゅうない、苦しゅうないですわ! おーほっほっほっほ!」
勝利をつかんだヒルデは高笑いを響かせた。
「で、何から始めますの?」
船員に頼んで机といすを甲板に運んできてもらったヒルデがいすに腰掛けながら言った。
「そうですなあ、ヒルデ嬢、あなたは魔術というものは何であるかご存じですかのう?」
「魔術は魔術ですわ」
当然だと言わんばかりにヒルデが答えた。
「まあ、こうなることはなんとなく予想できておりましたが……実際に目の当たりにするとなかなか破壊力がありますのう……」
ローネンが肩を落とす。
「あら? あなたを焼き鳥にするための最適な手段と答えた方がよかったでしょうか?」
ヒルデの魔力がふくれあがる。
「わたしを脅すことに少しくらいはためらいを持ってほしいものですのう……」
「で、魔術というのはいったいなんですの?」
いらいらした様子でヒルデが聞いた。
「魔術というのは魔力を変換して望んだ事象を顕現させることですのう。たとえば、先ほどヒルデ嬢がやろうとしたのは魔力を炎に変換することですのう」
「わたくしがやろうとしたのは調理ですわ」
「無駄なところにこだわらなくてよろしい! コホン、魔力というのは言ってみれば粘土のようなものですのう」
「魔力という粘土を呪文という手でこねて望む形にするということですの?」
「やればできるものですのう。正直この説明で理解してもらえるとは思っていなかったのですがのう……」
「もしかしてわたくしをばかにしていますの……」
ヒルデが疑念のこもった目を向ける。
「そんなことはありませんのう」
ヒルデから目をそらしながらローネンが言った。
「引っかかる物言いですわね……」
「と、とにかく、魔術の行使に必要なのは自分の魔力を何に変換するかをできる限り正確にイメージすることですのう。師匠が魔術を使う様子を注意深く観察することで魔力がいかにして変換され、魔術が発動するかを理解することが必要となりますのう」
「自己流でやったらだめですの?」
「魔術も歴史がありますからのう、ほとんどの術は魔力変換の仕組みが最適化されております。つまり、ヒルデ嬢の自己流の変換よりも効率がいいやり方が確立されているということですのう」
ローネンが首を横に振る。
「そうなんですの?」
「基本的には。ただし、ヒルデ嬢がオリジナルの魔術を作るのであれば話は別ですがのう」
「あら、わたくしにも魔術を作ることができますの?」
興味を持った様子でヒルデが言った。
「作るだけなら割と簡単にできますのう。ただし、同じような効果を持った魔術がすでに存在しているという可能性が高いですがのう。ちなみに『暴食の螺旋』はわたしのオリジナルですのう」
少し得意げにローネンが言った。
「ああ、あれですのね」
ヒルデはオリジナルの魔術に対する興味を失った。
「わたしがあれを完成させるのにどれだけの苦労をしたと思って……」
ローネンは屈辱に身を震わせた。
「苦労と言うほどのものでもないでしょう。ほら、こんな具合にできるんですから」
そう言ってヒルデは人差し指を立てると指先に球体の渦巻きを作って見せた。
「だからわたしはそれを作るのに長い歳月をかけたと…………」
途中まで言ったところでローネンが動きを止めて渦巻きに見入った。
「どうかしましたの?」
指先の渦巻きを維持したままヒルデか首をかしげる。
「なんでできとるんですかのう!」
ただでさえ大きな目を限界まで見開いてローネンが言った。
「そんなに驚くことですの? 何でしたらこんなこともできますわよ」
ヒルデは左手の人差し指も立てるとそちらにも球形の渦巻きを発生させてみせた。
「二つ同時に……!」
ローネンが絶句する。
「さらにこんなことも」
両手を開き、十本の指すべての先端に暴食の螺旋を発現させた。
「信じられませんのう……はっ! ヒルデ嬢! 今すぐ術を解くのです! 暴食の螺旋は一つ発現させるだけでも魔力の消費が大きいのです! それをこんな風に発現させては……」
ヒルデの術に目を見張っていたローネンだったが慌てて彼女に言った。
「あら、大丈夫ですわよ。あなたにも感じられるはずですわ」
ヒルデは平然と言った。
「何を馬鹿なことを……いや、これは……」
今更になってローネンは気づいた。確かにヒルデには魔力の欠乏が見られない。いかに彼女の魔力が多いといっても暴食の螺旋を十個同時に発現させるなどということができるとは思えなかったが現に彼女は平気な顔をしている。
「わたくしを買った神官たちが言っていましたが、わたくしの魔力は普通の人のものとは質が違うんだそうですの。早い話、わたくしは他の人よりも少ない魔力量で魔術を行使できますの」
ローネンはこの少女の強さの源は潜在魔力の多さだと思っていた。だがそれだけではなかった。この少女はほかの人間よりも遙かに上質な魔力を持っているのだ。それも莫大な量の。
「ヒルデ嬢、あなたはいったい……」
「わたくしはバルドヒルデ。紅蓮の聖女と呼ばれた者ですわ」
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