第13話 眼をつむる正男
東京駅に一匹の若いネコが到着したのは、もうしばらく以前のことだ。
寒い冬の日だったと思う。今になってはよく覚えていないし、どうでもいいことだ。
正男という若いネコは、高校を卒業し地元の村で仕事をしていたが、いつかは音楽で成功したいという夢があった。その夢を諦めきれずバンドをやろうとここに出てきたのだった。
村を離れ東京で音楽をやると母に告げたが、母は賛成はしなかった。
貧しさのなか、女手ひとつで育てられた。正男もためらったが、やはり諦めることはできなかった。
田舎の若いネコが都会に出てきて、すぐに音楽の仕事に就けるはずもない。それは本人も分かってはいたが、音楽関係どころか仕事さえ見つからなかった。ネコなど誰も見向きもしない。
「倉本さん、いま求人のある仕事は、介護か建設、あるいは警備ですね。お若いですし、今後のことも考えて、介護職なんかどうですか?資格もおいおい取得できますよ」
職安の職員に勧められるまま介護の仕事に就いたはいいが、ネコにとって介助はつらいものだった。
夜間は、夕食後の就寝介助から朝の起床介助までに三回から四回のオムツ交換がある。就寝中は、ほぼ全員がオムツになるため入所者のほとんどのオムツを三回、四回と交換しなければならない。
ネコは四本足で活動するのもだということも気にせずこの職に就いたが、長時間の中腰姿勢は、直ぐに正男の腰にきた。しかもオムツ交換の途中で、夜間というのにひっきりなしにコールで呼び出される。
腰は痛いわ、クソまみれになるわで長くは続きそうにもなかった。
正男は、そこにそれを越える「美しさ」を見つけられぬまま、介護の仕事を辞めた。
次第に荒んでいく正男の暮らしの隙を突いて、ある仕事の話しが舞い込んできた。
携帯電話だけでお金を融資するタイプの金融機関の仕事であった。銀行などからお金が借りられなくなって、困っている人たちを助ける仕事だと教えられ、心の優しい正男は天職だと思った。
スポーツ新聞に「どなたでも電話一本、すぐにご融資」という一行広告を出して、お金を貸す。しかし、この金融サービス会社は法律で定められているより少しばかり利息が高かった。そのため返済に行き詰まる顧客が出ることも度々あった。そこに返済のお願いに行くことが、正男の主な業務である。
あるパチプロの客が借金を踏み倒し、姿をくらましていた。
正男は取り立てに行ったが、その妻と子どもしかいない。しかしわずかでも謝金を返して貰い、会社に金を持っていかないと殴られるのだ。
仕方がないので、逃げた男の妻と子どもを殴り、有り金とテレビを持ってその家を出た。
そのとき子どもが正男の足にしがみついた。
「お金、返して!」
血を流し、叫びながらしがみつく男の子を正男は思いの限り蹴り上げ、夢中で走った。
子どもの眼に正男の足が入ったのか、男の子は眼を押えて転げ回った。
「痛ければつむればいい。眼はつむるためにあるんだ!」
正男は呟き、また走った。
(続く)
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