168
俺はずっと君と一緒にいる。
何があっても。何をしても。
誰もが君を忘れてしまった。
だけど俺だけは覚えている。
俺だけは、覚えているんだ。
――世界呪術『聖女』についての述懐
「お、もい!!」
湖に向かって駆け出した聖女カウスだが、途中で立ち止まると背負っていた聖弓を地面に放り投げ、身軽になった身体で再び駆け出す。
「…………」
無言でその背を見ていた俺だが、背後を振り返る。
(霧はない。出口はまだ使える)
この雰囲気、ここは恐らくボスデーモンの部屋だ。
なぜボスがいないのかはわからない。だが、いつボスが現れ、出入りを妨げる霧が発生してもおかしくはないのだ。
(俺は)
デーモンとの戦いで死ぬ覚悟はできている。戦いとはそういうものだからだ。こうしてここに立っている以上、どこかで死ぬかもしれないという覚悟だけは必ず持っている。
(それでも、ここは俺の死ぬ場所じゃない)
死ぬ覚悟はできている。だが、帰る場所があるのだ。頭のおかしい大陸人どもと心中などしたくない。
「テイラーッ! テイラーッ!!」
水辺に転がった箱型の牢獄に聖女カウス、否、偽聖女が取り付き牢屋を開けようとガンガンと手を叩きつけている。
中の騎士と下男が慌てたように「静かに! 静かに!!」と偽聖女に向けて叫んでいた。
嫌悪の感情が心中に満ちる。無様なものを見せられている。素人どもめ。遊びに来てるのかお前らは。もういい、このままここで死ね。
(聖弓は惜しいが、拾いに向かえば奴らが気づくだろう。それに……)
地面に転がった聖弓に目を向ける。
もはや回収する意味もない。聖弓もまた、聖女だったものと一緒に滅びるのだ。
(すまんな。俺にはどうすることもできん)
あの聖弓は聖女カウスの術式を力としていたのだろう。
聖弓はかすかに残る神秘を明滅させ、なにかを訴えかけようとしていたが、相手は偽聖女である。テイラーテイラーと下男の名を呼ぶアレが気づくはずもなし、力尽きるように聖弓から神秘が消え去っていく。
「ああ! なんで! なんで開かないの! さっきはできてたのに? さっき? え? あれ? わた、し?」
偽聖女の身に溢れていた神秘もまた消え去っていく。大陸の奇跡の残り香、世界呪術の末路だ。
牢屋に取り付いていた大陸女が俺へと目を向けてくる。その目には一級の憎悪と侮蔑が宿っている。
「キィイイイイイイイイス!! 早くこちらへ!! 何をグズグズしているのです!! お前は鍵を持っていたでしょう!! 私と共にそれを手に入れた!! 私は知っている!! 私は知っているぞ!!」
俺は星神に向けて小さく祈りの言葉を呟く。そうして、彼らに背を向けて、呟くのだ。
「さらばだ聖女カウス」
――馬鹿らしい。戦う気も萎えた。さっさと帰ろう。
とはいえ鍵を持っているのも事実である。俺は舌打ちし、袋より鍵を取り出す。奴らに向けて投げつけようと振り返れば、慌てたような声が俺へと届いた。
「キース! 俺だ! メルトダイナスだ!!」
おう、知っている。お前もさっさと死ね。俺は聖女に向けて鍵を投げつけようと腕を振りかぶり――「今!!」視線の先のメルトダイナスが、隣にいた下男のテイラーの首に手を掛けた。
「キース! 待て! い、いかないでくれ!! 待ってくれ!! 今なんとかするから!!」
「ぐ、ぐぇ、き、騎士プロメ、テウス、や、やめ……」
立ち止まり、じっと奴らを見る。何をするつもりだ?
牢の中ではテイラーの足掻きを、メルトダイナスが捻り潰している。騎士と下男の争いだ。下男に勝てる筈もない。
やめてやめてと偽聖女が叫ぶ。テイラーが死んじゃう、だと? ああ、勝手に死ねばいい。
そして、メルトダイナスの片腕が腰の袋より何かを取り出した。
薬だろうか? 距離がある。辺境人の目でもあれほどの小さなものはよくわからない。だがおそらくは丸薬のようなものを、テイラーの口にメルトダイナスは大量にねじり込んでいた。
この瘴気の中で駄目になったのだろう。ひと目みてわかるほどに瘴気に汚染された水の入った水筒を、メルトダイナスはテイラーの口に押し付けた。
「飲め! 昨日と違って一粒じゃねぇぞ。今度は全部だ。お前はもう何もかも忘れちまえ。てめぇが愛した村娘は死んだんだ!!」
「い、嫌だ! お、俺は!!
「め、メルト、お、おやめなさい」
テイラーの抵抗は激しかったが、それも僅かな時間だった。喉が上下し、テイラーの身体から力が抜ける。偽聖女がああ、と顔を手で覆った。
メルトダイナスが俺を見ていた。懇願するような目だった。
「記憶を! 記憶を完全に飛ばした! 昨日のような一日経てば戻っちまう半端な飛ばし方じゃねぇ!! 完全にぶっ飛ばした!! だから世界呪術は完成する!! なぁ、キース! 辺境人よ! 聖女を! この汚れた地に復活した聖女を置いていくつもりか!!」
なぁ、助けてくれ、と。俺もついででいいから助けてくれ。妻と子供がいるんだ、とメルトダイナスが叫んでいた。
「醜い」
俺の呟きは届かない。
だが、いいだろう。
「助けてやる」
エリザの物語でも、助け合いは重要だと言っていたからな。
人であるならば、騎士であるならば、弱き者を助けろと、そう言っていた。
(……本当は見捨てるのが賢いのだろうが……)
アザムトが全てを返したが、道具を奪い取られた報復をやってもいい。
侠者を侮辱するという愚行、奴らを八つ裂きにすることで思い知らせてやってもいい。
そう、まだなのだ。
薬は未だ効果を発揮していない。テイラーが倒れても未だ世界呪術は発動されていない。
俺の殺意を感じてか、偽聖女が怯えたように立ち竦む。
そう、未だ偽聖女。俺を侮辱したあの愚かな女を殺すなら、これが最後の機会なのだ。
――だが俺は助けよう。
偽聖女が投げた聖弓を拾い上げる。美しい弓だ。手に取ればわかる。神秘は未だ残っている。聖弓は完全には死んでいない。聖女が蘇ればすぐに鼓動を刻み始めるだろう。
湖まではすぐそこだった。立ち竦む偽聖女を見る。美しい女。美しいだけの女。俺はそこに聖女カウスを重ね見た。
助ける理由か。
そうだな、辺境人を懐かしいと言った女がいた。
本当に嬉しそうに笑っていた。
助けるならば、それで理由は十分だろう。
(殺す理由も十分なんだが……)
気まぐれだ。心の天秤が聖弓の重さだけ助ける方向に向いただけのこと。
◇◆◇◆◇
牢獄の中で、惨めそうに聖騎士序列第三位、メルトダイナス・プロメテウスが嗤っていた。
「も、もうこんなところはたくさんなんだよ。何が、何が聖なる任務だ! 何が非文明に文明の光を灯すだ! こ、こんな、こんな地獄で人間に何ができるってんだ!!」
畜生、畜生、とつぶやき続ける騎士の入った牢へ、手に入れた地下牢獄の鍵を差し込めば、軋んだ音を立てて牢は開く。おう、別に鍵が用意されているものでなくてよかったな。酒呑の為ならともかく、俺はお前たちの為に鍵など探さないぞ。
「やった! やったぞ!! 帰る! 帰るんだ俺は!! はは! ははははははははは!!」
牢を開ければメルトダイナスが入り口から飛び出してくる。倒れたテイラーは置き去りだった。そのまま駆け出そうとするメルトダイナスへ俺は。
「おい! メルトダイナス!!」
俺を振り返る騎士へ俺は袋より大剣と篭手を取り出して投げつけてやる。奴の武具だ。
「お前の剣だ」
「ありがとう!! ありがとう辺境の人!! ははは! 帰れるぞ! 待ってろ! 帰る! 今すぐ帰るぞ!!」
篭手を身に着け、大剣を手に、狂ったように笑いながら駆け出すメルトダイナス。
俺や聖女を振り返ることなく、奴は出口に向けて駆け出していった。
「あいつ、一人で帰れるつもりなのか?」
待っていれば転移で送り返してやったものを。だがそれならそれで構わない。どこへなりとも行って死ね。
「……ぅぅ……ぅぅぅ……やだ……いやだ……わたし、きえたく……」
呪術が効き出したのか偽聖女は額を抑えてうずくまっていた。テイラーは牢の中に倒れている。
(
世界呪術の完成は辺境の為になる。メルトダイナスは薬で飛ばしたと言ったがいつまた戻るともわからない。ならば、テイラーを殺すことで後顧の憂いを断つのも……。
(やめておくか……)
呪術はよくわからない。下手に手を出して妙な事になったらそれはそれで面倒だ。テイラーがなにかの基点になっている可能性がある以上、何もしないことが一番だろう。
とりあえずテイラーも持ち帰るか。牢に入り、倒れている奴を引きずり出し、気づく。
「こいつの服……」
おいおいおい、マジか。マジかよ。
――これは聖衣だ。
ただの大陸人がこの濃度の瘴気で生き残っていた理由がわかった。聖女カウスに偽聖女が時折表出した理由もわかった。
この、この聖衣が原因だ。
祝福と呪詛だ。テイラーの生存を願う愛が、偽聖女の愛がここにある。俺の原初聖衣と同じだ。愛とは一種の呪詛なのだ。生霊と言うべきか。呪術によって偽聖女の意思が消えようとも愛は残る。残ってしまう。
そもそも世界呪術は聖女の身体の持ち主の痕跡をこの世からすべて消すことで、死んだ筈の聖女が生きていると世界に誤認させる呪術。
だが、この聖衣があるせいで、記憶を飛ばそうとも偽聖女の愛は残ってしまう。
偽聖女は死ぬわけではない。すべての痕跡を消されて上書きされるだけだ。死んでいないのだ。だから通常の聖衣と違い、この聖衣に愛は残る。偽聖女が残る。
――まるでこびりついた染みが如く、だから世界呪術は完成しない。
「この聖衣は破壊すべきだが」
聖衣を破壊か。
うむ、と俺は頷いた。
「
聖衣を破壊するなど、他者の愛を否定するなど、聖衣を持つ者としてやってはいけない。
損得の問題でもない。単純な話だ。理屈もない。単純に俺には
とはいえこれがどのような不吉を齎すことになるのか……。
恐らくろくでもないことだろう。だが、俺にはできないのだからこれはもうできる奴にやってもらうしかない。
「地上なら誰か適任がいるだろう……」
さて、なぜこの場所に主たるデーモンがいないのかは不明だが、いつまでもだらだらしてて良い場所ではない。
頭上の月を見上げる。
恐ろしい月の化け物が俺たちを見下ろして嘲笑っている。
舌打ちする。さっさと転移で帰ろう。
俺はテイラーを牢から引きずり出し、偽聖女の前に放り投げた。
「帰るぞ」
偽聖女は俺を見上げていた。
「キ、キース様? な、なぜそんな目で私を?」
む、聖女カウスか? し、しまった。蟲でも見るように見ていたのか。俺は慌てて強張っていた顔をほぐすように顔を揉もうとして――「これ、は」
――そんな
「聖衣? この、男の? てい、らー? そう、テイラー? テイラーの聖衣? 誰の愛? だれ、の? わたし、の?」
「おい。待て。待て待て待て。聖女カウス待て」
自己矛盾してやがるのか? なんだ? やばいぞ。不吉な流れだ。テイラーだけでも先に戻しちまうべきだったか? 俺が安易だったのか?
「くそ、めんどくせぇな」
拳を構え、聖女カウスを再度気絶させるべく踏み込もうとして。
「
眼の前だ。
背筋がぞっとした。
禁忌が目の前で行われた。
祝福と呪詛だ。
強力な祝福を与える聖衣を、愛を与えた当人が引き裂くなど前代未聞だ。
いや、当人ではない。だが当人なのだ。わからないわからないなんだこれは何が起こる?
「い、いや、と、とにかくさっさともど」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「ちぃッ! 今度は何だ!!」
この洞窟の出入り口の先から悲鳴が聞こえた。肉の潰れる音も。それはここから去ったメルトダイナスのものだ。
まずい悲鳴だった。命が潰れる音だ。生きてはいないだろう。同時に強い瘴気を感じる。ボスデーモンのものだ。近づいてくる。
(やばいまずいやばいまずいやばいまずい)
この混沌とした状況でボスデーモンと戦うなどできるわけがない。俺は聖印を袋より取り出して地面に叩きつける。結界のスクロールを取り出し「いやああああああああああああ!! テイラー!! テイラー!!!!」隣の悲鳴に耳を抑えた。
「聖女カウス! 黙って「あああああああああ!! いや! いやああああああああ!!」愛を否定されたテイラーの聖衣から守護の祝福が抜けていく。同時にテイラーの顔色がどす黒く変わっていく。聖女カウスが、いや、偽聖女がその身体に縋り付いている。
「私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない」
縋り付きながら、否定している。俺が悲鳴を上げたい気分だった。それでもスクロールを起動して一瞬のみの聖域を作り出す。転移のスクロールを2枚聖女に押し付けるも反応がない。舌打ち。起動は俺がやる。とにかく地上に戻ってろと2人ごと飛ばした。
聖域がじりじりと瘴気で薄くなっていく。それでも俺は、最後にそいつを確認しておきたかった。
見て、確信する。
――
洞窟にデーモンが入ってくる。巨大なデーモンだ。生物のように脈動する鎧を着込んだ、騎士のような生き物だった。
「……メルトダイナスに剣を返すべきではなかったな……」
デーモンは手に見覚えのある大剣を持っている。禍々しい月の光を反射する大剣だった。
『ああ、ようやく我が手に……』
デーモンの呟き。
メルトダイナスの大剣。殺して奪ったか。妖しき月の大剣。銘を
『我が道標……仄かな光の道……
曰く、大剣の騎士は月の女神アルトロの敬虔たる信徒であったという。
曰く、大剣の騎士は月の光を帯びた大剣を振るい、月光を飛ばしたという。
洞窟の出入り口より俺を視認した
背筋が、凍る。
即座に地上を思い描き、聖女様の肋骨に転移を祈る。
疾い、大剣の騎士は剣を振り終えている。
剣から発せられた妖しき月光が刃となって俺へと向かってくる。
(……まず……これ……死……)
涙か。転移か。俺の視界がぼやける。
最後の瞬間、俺の視界すべてを月の刃が――。
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