092


 デーモンとは悪そのものである。

 悪心。まさしく奴らに生来備わった、どうやっても変えようのない性質だ。

 悪神より生まれた堕落した魂。瘴気によって形作られた穢れた肉体。深淵よりこちらを覗き込む狂気に通ずる精神。

 ならばこそ、邪悪であることこそはデーモンにとっての誉なのだ。

 故に、デーモンたちは闇の神々に捧げるにんげんへ、全身全霊を持って、心を込めて、丁寧に、真摯に、人類へ関わってくる。


 人を苦しめたい。人を傷つけたい。人を壊したい。人を殺したい。人を犯したい。人を踏みにじりたい。人を害したい。


 正常な人間ならばけして想像もできぬ悪意が奴らの意思には込められている。デーモンたちの人へのあり方は、どうあっても悪意が端緒となってしまっている。

 邪悪なる神々より生まれる奴らにとって、それはどうしたって当たり前の物で、当然のことで、人とデーモンはどうやっても分かり合うことはできない。

 最初から破綻した、生きていることがおぞましい生物。

 心が壊れていない限り、人間はけしてデーモンを理解することはできない。そして例え壊れていてもデーモンが人間に理解を示すことはない。

 デーモンが人に理解を示したように見えたとしても、それは理解を示したように見える擬態でしかないのだ。

 その全ては人を騙し、絶望を啜りとるための悪神への奉仕行動にすぎない。

 元よりデーモンと人の間には考える事が億劫なほどに、深い断絶が横たわっている。

 そして、闇色の神殿の中、俺は最初に出会ったまともな・・・・脅威を持つデーモンに戦慄を隠せなかった。

「なんて、おぞましい。人はデーモンを理解できねぇ! それは知ってるが、それにしたってッ……!!」

 先の赤子蟲を無視し、少し通路を進んだ俺の前には槍を構えた半魚人のような生き物がいる。ただし半魚人のようでそれは半魚人ですらない。それはおよそ今まで見たことも聞いたこともない、異形そのものの姿形をしたデーモンである。

『キィイイイイ! ギヘッギヘッギヘヘヘッキヒヒヒィイイイイイイ!!』

 それが闇色の通路。松明の明かりに照らされている。

 腹を引きずった槍を持った手足の生えた魚に見えた。

 聞く者の脳を震わす声は子供の金切り声にも似ている。

 しかしその細部は全く違う。俺の目に映るその姿はただただおぞましく、ただただいたましい。

 魚の形の顔面に貼り付けられているのは、苦しみ抜いた人間のデスマスク。

 その全身にはいたるところに蟲のような節が見える。胴体についた腕は4本。全てが細くて、長い。しかし油断してはならない。このクラスの瘴気を漂わせるデーモンであるなら、その膂力はドワーフの成人にも匹敵する。俺が生身であるなら数撃でバラバラに引き裂かれる程度には力強いはずだ。また、この生臭さを漂わせるデーモンは槍を持っている。4本ある腕のうちの2本で、ギザギザ刃の不気味な意匠の槍を構えている。

 戦闘態勢は俺も整えていた。炎剣と盾を俺は構えている。

 警戒しつつすり足で奴の周囲を回っていく。奴の周囲を回ることで通路の闇で見えなかったデーモンの全景が見えてくる。

 身体の各所には毒々しい色をした無数の棘鰭が生えていた。

 また、下半身より生える足は人の素足に似ている。もっとも足の数は数える気にもならない程に無数だ。

(それと、こいつが嫌悪の源泉か……)

 デーモンの全身には見るだけで怖気おぞけの走る、逆巻いた鱗がびっしりと生えている。

 これには恐らくは呪的な効果があるのだろう。大陸人であれば一目見ただけで狂死しかねないほどの圧倒的悪意を奴は自然と身にまとっている。

 帝国との契約による加護により、呪いの全てを無効とする辺境人の俺が見ることを嫌悪するほどの悪意。

 先の赤子蟲のような、見るだけで正気を削られるよくわからないデーモン・・・・

(デーモン。これが悪神直属のデーモン・・・・か。今までのデーモンの悪意が、まるで子供だましだな)

 もとより出現からして突然だった。闇の通路を恐る恐るじりじりと歩いていた俺に、無数の手足で壁に張り付いていたそいつは、ヨダレをだらだらと垂らし、キィキィと叫びを上げて襲いかかってきたのだ。

 その奇襲は殺意に反応した俺が回避することで躱せたが、そうでなければ頭でも潰されて死んでいたかもしれなかった。

(なんとも、嫌な話だな)



 戦いは初手から俺が不利だった。

 まず相手の存在が気持ち悪い。その動きが気持ち悪い。生理的嫌悪で目をそらしたくなるのを耐えることから始めなければならなかった。

 加えて言えば敵手が凄まじく強い。蟲のような、魚のような、人のようなこのデーモンは、腹側にある4つの腕を器用に動かしながらまるで達人が如くに槍を突いてくる。

「ちぃッ! 巧いなッ、てめぇ!?」

 槍先を捌こうと振り下ろした炎剣が器用に槍の穂先で絡めとられ、跳ね上げられた矢先に手元に引かれた槍が凄まじい早さで飛んで・・・くる・・

 実際に投げつけられているわけではない。飛んできたかと錯覚する程に素早く突かれているのだ。その動き、明らかに練達の証。このクラスのデーモンの身体能力で武術を使われると、一度の失策でも命を失いかねない。

(それでもッ!!)

 一歩前に出る。槍先に合わせて騎士盾を上げ、槍の穂先に叩きつけるようにしてぶつける。

「地面があるだけ下の階よりマシだ!!」

 瞠目するような鋭い金属音。この音と衝撃の感触。結界の聖言がなければ如何な分厚いドワーフ鋼製の騎士盾といえども貫かれていただろう。

 相手の腕も良いが、槍もまた地上でもなかなか見ない業物に違いない。意匠こそ醜悪であるが、武人の蛮用に耐えられるほどの強靭さがそこにはある。

 もっとも呆けている暇など欠片もなかった。瞬時に呼吸を終え、オーラを練る。身体の調子がよくなっていく。呼吸をしただけではない。強敵と対峙したことで、戦意が身体を覆っていた。戦うことで恐怖が薄れていっていた。

 呼吸しなおした俺と同じく敵もまた槍を引いていた。しかし同時に流星が如く次々と槍先が突き出されていく。盾で防ぎながら、前進するも死魚のように盾だけを愚直に狙ってくれるわけもない。当然槍は盾で守りきれていない部位に向かってくる。

「ちぃッ!!」

 盾でかばいきれない部分は炎剣に頼ることになる。剣を振るい稲妻がごとき槍先を弾く。弾く。弾く。

 重い、なんと重い槍だ。このデーモン、辺境人にも匹敵する槍の名手だ。

「だが、やはり貴様は気持ち悪い! 死ね! それに剄までは使わないようだな!! 死ねぃ!!」 

 人外の膂力と反射神経で振るわれる槍は脅威だが、所詮はデーモン。槍に精通していようと剄力の技術にまでは精通していない。

 いや、あのような捻じ曲がった身体だ。技術があろうと剄力をまともに練ることなどできはしまい。

 踏み込み。剄を込めた盾で槍を跳ね上げる。ただ盾をぶつけられたのとは違う反発にデーモンは戸惑い。竦む。そこで懐に入り込む。

「ぬん!!」

 オーラと剄力を全力で込めた炎剣を奴の腹部に勢い良く突きこんだ。気色の悪い体液が飛び散るが鎧を含めて全身に張り巡らせているオーラが汚液が俺へと振りかかるのを防いでくれる。

『キェエエエエエエ!! キェエエエエエエエ!!』

 デーモンの絶叫。剣を引き抜き、俺を弾こうと我武者羅に振り回されるデーモンの腕を盾で防ぐ。

「痛ぅッ!」

 盾で防ごうとも芯まで響く重い打撃に苦鳴が漏れる。打撃打撃打撃。凄まじいラッシュだ。盾で防ぐことしか俺にはできない。一瞬だけ打撃が途切れる。だが攻撃の終わりではない。埒があかないと判断したのか。俺の目の前でデーモンの身体がぐるりと回転していた。逃げるのではない。勢い付いた尾ビレを含めた下半身が俺へと叩きつけられようとしていた。

 喰らえば盾で防ごうとも弾き飛ばされることは必定。しかし同時にこの間隙こそがチャンスでもあった。

「おおぉおおおおおおおお!!」

 瞬時に判断。奴の尻尾が振られたタイミングに合わせて俺は炎剣を叩き込んでいた。

 ただただ人の神経を不快にさせる悲鳴が響く。

 構わずに肉を抉るように乱雑に切り裂いてやる。体液と肉片が飛び散る中、デーモンの振り回す腕が鎧を激しく叩き俺の身体に激しい衝撃を伝えてくる。やはり多少の無理をしてでも騎士鎧のままでよかった。防具は代わりに狩人服があったが、あのような薄い服だったなら今頃俺は服ごとバラバラに引き裂かれていただろう。このクラスのデーモンの素手ともなれば分厚い金属でしか防げないのは常識だ。

「とはいえ! この鎧もガタついてるんだよ!! この野郎!!」

 殴られつつも斬、斬と剣を突き込めば、数度目の突き込みで奴の致命的な部分を破壊した感触が剣より伝わってくる。『龍眼』を取得したことでなんとはなしに覚えた勘任せの弱所狙いの攻撃だったが、見事に成功したようだった。

 気色の悪いデーモンから力が抜け、生臭いその身体が瘴気と共に消滅していく。

 場に残るのは悍ましい造形の成されたギザギザとした刃先の槍と四枚の銀貨。

「……銀貨四枚に槍、か」

 下の階より明らかに多い量にあの半魚蟲人が紛れも無い強敵であることを実感する。

 同時に、その強敵を倒せた自分にほっとする。なんとかこの階でも生き残れた。そして恐怖は未だに心をしびれさせているが、動けなくなるほどではない。

 敵と対峙し、刃を交わすことで戦士の本能が恐怖を覆してくれたのだ。

 力と剣の神にして戦士の神でもあるヘルクルスに自然と感謝の祈りを捧げていた。

 もっとも祈る時間は短い。いつ新手が来るかわからないのだ。槍と銀貨を拾い、両方を手早く袋に仕舞う。

 通路の先を見る。これだけの戦闘をしたにも関わらず他のデーモンは寄ってきていない。

 いや、そうでないのかもしれない。先のデーモンの移動方法を思い出す。

 奴らは壁を当然のように這っていた。あの多足に生えていた無数の毛が音を吸収しているのか動く音は静やかだ。先も襲われる瞬間の害意を察知するまで奴らの気配に気づけなかった。

 次も気づけるかわからない以上、油断はけしてしてはならない。

「探索をしなけりゃな……」

 最終的な目的こそデーモンのボスの打倒だが、今の主眼は呪いを解く道具を見つけることに向いている。

 しかし俺ではその道具の判別が付かない。もしかしたら下の階にあったのかもしれないが……。

「いや、リリーが欲していたのは、神酒ネクタルだったか。それであれば呪いが解ける、と」

 神酒ネクタル。神の酒。酒。酒か……。

 恐怖が抜け、戦闘の熱の残る頭で考える。酒。酒。

「この階にあるかもしれないな」

 呟く。考えは正しいように思えた。むしろ、だ。この階になければあとは地下の奥の奥底、ダンジョンの深層にまで潜らなければ手に入ることはないだろうと思えてならない。

 そうだ。忘れてはならない。この階の主は王族・・なのだ。

 それも神の血を引くほどに高貴な者。

(ならば、その身の回りの道具はその格に相応しいものが取り揃えられているはずだ。そしてその中に、神酒があるかもしれない)

 内心での呟きはそれほど的外れな考えではないと思う。

 そう思いたいだけなのかもしれないが。

「あるのかもしれない。ないのかもしれない。俺には何が正しいのかはわからんが。だが、それでも何も指針がないよりマシ、か? ――ああ、糞。しまった。立ち止まりすぎた」

 身体から戦いの熱が去ろうとしていた。戦いの熱が指先から消えていくのを感じる。デーモン一体倒した程度ではやはり肉体も魂も適応できはしない。身体を縛る恐怖が蘇ってくる。

(戦ってなお、まだ震えるか。糞、格好悪いからあんまりやりたかなかったが……)

 希望があるならここに居続けなければならない。見つかるまで探索をしなければならない。

 そのためには、すこしばかりの小細工と、不敬にもなる蛮行が必要だった。

「すみません。聖女様。――失礼をします」

 だから、聖女様に小さく謝りながら、彼女の肋骨を俺は袋から取り出した。

 同時に剣の柄に巻きつける滑り止め用の細長い皮紐も袋より取り出し手早く肋骨に巻きつける。長さを調整し、ナイフで切り、端と端を結んでちょうど良い塩梅の輪を作る。

「こんなもんか」

 不格好だが、そこには聖女様の肋骨をぶら下げたネックレスができていた。

 聖女様に謝罪をしながら俺はそれを己の首にかけ、鎧の内側に引き込む。

「……ああ、やっぱり。これ・・はここでも暖かい」

 不敬を覚悟で行ったこれには、確かな効果があった。

 聖女様の肋骨より伝わる仄かな暖かさは、鎧下越しに俺の身体と魂を温めてくれていた。

 それは俺の腹底より湧いて出る恐怖を淡雪のように溶かすに十分な熱と神秘を持っている。

 代わりに湧き上がってくるのは安心と自信だ。また、魂の奥底からこの先に進んでいく為の勇気が無限に湧き上がってくる。

 しかし、後ろめたさも半端じゃない。

「それに、これは、バレてるよな」

 周囲への警戒を続けながらも瞬間だけ恥じ入る気分で目を閉じ、小さく嘆息を吐く。

 聖女様の肋骨は未だ本人との呪的な繋がりを保ち続ける聖女様の・・・・一部・・だ。

 ならばこの行為は聖女様本人の知る所であるはずで、ああ、畜生。こんなガキみたいな真似をして恥ずかしい。

(ほんとすみません聖女様。でも俺は、こうしてでもやると決めましたんで……)

 謝りながらも剣を握り、盾を手にとり、俺は歩き始める。


 それでもどうしてか、こんなことをしてしまったというのに、聖女様の肋骨は、構わないというように俺に熱を伝え続けていた。


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