062
(どうか……ソーマであってくれ)
目は見えていなかった。それでも顔と舌で触れて判断はできた。
噛み砕いた瓶が喉奥に入っていく。先の水溶エーテルの瓶含め、食ってはならないものを食っているような気もするが今更だ。
狩人のデーモンのドロップ故に、ソーマを期待したが、そうでない可能性もあった。
(解毒薬だったら、まずかっただろうな)
今の俺に射たれた矢毒の解毒薬は不必要だった。
何しろ失った腕の出血。腹に
解毒薬一瓶で癒せるのは毒だけだ。そして積み重ねた負傷はどれも重く。毒だけ癒やしても俺は死ぬ。
特に自ら切除した内臓が問題で、これが癒えなければ時間稼ぎにすらならないだろう。
(それに解毒薬ですらない可能性もある。矢に使っていた毒薬本体である可能性)
毒薬でなくとも、水薬のような能力向上薬かもしれない。
ないとは思うが、デーモンによる嫌がらせもあり得る。ただの水の入った瓶や色水の可能性。
(そうだったらいざぎよく死ぬか。いや、いいんだ。狩人は滅ぼした。報復は果たされたのだから……)
嫌がらせで死ぬのは御免だが、それもまたデーモン討伐の醍醐味と言っていいだろう。
「……ああ……見えてきたか……」
しかし賭けは成功した。
砕き飲んだ瓶の中身は果たして霊薬ソーマだったのだ。
止まっていた心臓が動き出す。
じわじわと目に景色が。死の領域まで失われていた体力が戻ってくる。
じりじりと腐れた内臓、失った腕が再生する。
(それでも処置は必須だ)
薬に任せるままにしても治ったかもしれないが、今の俺は余計なものが刺さりすぎている。
全身に突き刺さった毒矢。指輪はしているが肩口は清めねば、月狼の牙による病毒の感染もあり得た。
ソーマを信頼してもよかったが、それだけに任せては万が一があったときが怖すぎる。
(ッ。痛痛痛ッ……。薬の効果も解毒されたかッ)
腕と矢傷が酷く痛みだす。本来なら服用していた痛覚麻痺の薬の効果は続いているのだが、ソーマによって解毒されてしまったのだろう。あれは量を調整しているだけで、本来毒薬の類だから仕方ないが、傷んでいた神経の復調も含めて、再生の痛みにもがき苦しみたくなる。
「ぐ……ぬ……」
地面を転げまわってもよかったがみっともなさすぎた。身体に刺さった矢を引き抜き、他と混ざらないように空いている矢筒に入れていく。俺に刺さったが、あの伝説の狩人の用いた黒の矢だ。ありがたく貰っておこう。
周囲を見ればデーモンの姿もなく、一時的に瘴気も浄化されていた。
「一旦、休息が必要だな。聖域を作っておくか……」
判断すれば行動は即座だ。アザムトから返してもらった最後の聖印を使用する。スクロールは纏めて買ったから残っているが、聖印がなければ聖域を作ることはできない。
デーモンの領域で聖域の設置ができないのは致命的だ。
先に進むなら聖印の補充が必要だろう。
(それもあるが、一度地上に戻っておきたい……)
この階層の探索で様々な道具を失った。
それに、と自身の身体を見る。司祭様より頂いた月狼装備の右腕。肩口部分から先が失われていた。
周囲を見れば俺の腕と共に切れ端が転がっている。補修すれば着れるかもしれないが、このレベルの破壊を受けたなら、一度地上できちんと修復した方がいい。
腕を拾い、肩口より先とベルセルクの指輪を回収する。
じわじわと再生している腕の根本を見た。トカゲの尻尾みたいに生えてくるのは少しグロいが、生えてこないよりマシだと思っておこう。
(傷を受けすぎたな。地上できちんと瘴気を浄化した方がいいか)
無論、
(だが……)
聖域の構築を確認し、降ろしそうになった腰を留める。
頭を掻きそうになって、やめる。左手を見た。狼を殺す際に使った毒が未だこびりついている。
グローブを脱ぎたいが、片手では面倒だ。右手の再生が終わるまで脱ぐことはできないだろう。
(……武器も研ぎに出さなければな)
ショーテルは酷使しすぎ、メイスもまた、多くのデーモンを殴っている。聖言の効果が薄れる前に鍛冶屋に見てもらいたい。きちんと整備しなければ武具は使い続けられない。
投げ捨てていたクロスボウを拾い集め、狼が消滅した場所から槍を拾い上げる。
槍。こいつを手に入れた時は粗末な武具と断じたが、やはり使いようだ。槍でなければ月狼の毛皮は貫くことができなかっただろう。
地面に敷いた毛布に武具を並べ、手のひらを見る。
(……俺は……)
首を振る。ソーマによって俺の精神は復調している。心臓も動き出した。
死は遠ざかっている。
精神的に、弱っているということはない。
俺の心は、壊されてはいない。
(……俺は……)
――手のひらが、震えている。
「怯えている。あの記憶の、
狩人の記憶を思い出す。空に浮かんでいた巨大な何か。
唇を噛む。天を仰ぐ。目を閉じる。
心の臓の鼓動を確かめる。
英雄たちですら、対峙することすら叶わなかった存在。
「あれは……あれが……」
――破壊神だ。
手のひらの震えがひどくなっていた。
あれは、
どうにもならない。
拳で戦うとか、武具を持って対抗するとか、そういう次元ではない。
あれは、あれは……。
(ただ、祈りを捧げ立ち去って頂くのを、請い願う存在だ)
故に神。
悪神、邪神。言葉にすればそういったものだ。今の辺境では唾棄すべき存在。しかし、その位階は神である。
神なのだ。
善神を奉ずるように、悪神もまた本来は奉ずるべきもの。
辺境人はゼウレに造られ、ゼウレに教わり、ゼウレと戦い、ゼウレと共に生きると決めたが故に相対することになったが。
本来は善神も悪神も関係なく祈り、捧げ、伏して願うものである。
善神なら地にとどまり、土地を潤し、人々に聖なる加護を授けていただくことを。
悪神なら心を安らかに、鎮まり、地に災い齎すことなく去っていただくことを。
(許したもう許したもう。鎮まりたまえ鎮まりたまえ。てか……)
自分で考えて、反吐が出る考えだった。
俺が骨の髄まで、魂の底まで辺境人であるということの証明。
俺が大陸人なら、戦いをやめ、地上に戻り、ただ祈りを奉じて穴の守護でもなんでもやったかもしれないが。
(俺は辺境人だ)
辺境に生きることを決めた人間だ。
デーモンを殺し、狂信者を討ち滅ぼし、悪神と戦い、邪神を滅ぼし、戦い戦い戦い続けて名誉ある死を望む存在だ。
手は震えている。
しかし、心は熱く燃えている。
魂は叫んでいる。
「デーモン……。デーモン……」
小さく呟く。
「デーモン……。デーモンッ……」
声を出す。魂が望むことを。
「デーモンッ! デーモンッッ!!」
拳を握りしめる。いつのまにか再生していた両手を強く握り、腰を据えて腹の底から叫ぶ。
「デーモン! デーモン! デーモン!!」
奴らを想い、叫ぶ度に、心の底からふつふつと闘志が湧き上がってくる。
奴らが存在していることが許せない。
存在するだけで人々に害なす悪鬼ども。悪神からこぼれ落ちた絶望の萌芽。
「デーモン! ぶっ殺す!! デーモン! ぶっ殺せ!!」
ダン。と地面を足で叩く。
「デーモン!」
叫ぶ。
「デーモン!!」
叫ぶ。
「ぶっ殺せ!!」
気が済むまで叫んだ。
ふぅ、ふぅ、と上がってきたテンションのままに肉体の再点検を行った。
武の型を行い、弱気を払うようにオーラを使って小一時間ほど基礎鍛錬に費す。
腹は据わった。
戦う理由もある。俺が、俺たちの生きる大地の下に奴らが存在することを許せない。
戦う理由なんてそれだけで十分だ。
「デーモンは殺す。破壊神も殺す」
勝てる勝てないじゃない。勝つために俺はこのダンジョンに潜っている。
自殺するためじゃない。
あれが神であろうと、瘴気で構成され、肉の身体を持っているなら打ち破れるはずだ。
「……そうか……倒せる、はずだ……」
言っていて、気づく。神は倒せないという常識は既に打ち砕かれている。
荒唐無稽な存在がごろごろいた、神話なんていう万年も昔の話ではない。
直近。辺境人の歴史でいうなら、ついこの間それを為した人間が実在している。
拳聖。ミュージアム・
生身で、破壊神の同類、障壁神を殴り殺した辺境人。
(……あの破壊神と同類を……殺し……いやいや……待ってくれ……)
今まで盲目的に信じてしまっていたが、言っていて自分がおかしいと気づく。
神を殺した? 見ただけで気が狂うアレを。理解しようとすれば精神が拒否し、魂が絶望するアレを。
今の俺では、戦うことすら、いや、生き残れることすら選択肢に入らない。そういう存在を真正面から拳で叩き滅ぼす。
おかしいとか、そういう次元じゃない。
「待て待ておいおい……同じ……人類か?」
辺境軍の高位の戦士ともなれば純粋な概念現象のようなデーモンを殺すこともあると聞いたが、己を高めればそんなこともできるように……なるのかもしれない。
……なれることを祈っておこう。
なんともなしに手のひらを見れば震えは止まっていた。
叫んで震えも飛んでいったのだろう。
「……これで地上に戻ったらここに戻れなくなる、なんてことはなくなったか」
太陽を見れば戻れなくなる。
かつてリリーの言った言葉。全力で同意したくなる誘惑を秘めた言葉だ。
あの暖かさを一度でも感じればこの冷たき地獄に自ら戻ることは難しくなる。
破壊神と対峙すれば、きっと二度と立てない、なんてことも考えてしまったが。
くく、と笑みが溢れる。
先の叫びを思い出せ。俺の魂には父祖から受け継いだ辺境人の意思が刻まれている。
(……デーモンを滅ぼせ……デーモンを殺せ……)
それでいい。それだけで無限の勇気が湧いてくる。
よし、と俺は腹を決めると、装備の点検の為に腰を下ろすのだった。
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