057


「おおおおぉおおおおおおおおおおおおお!!」

 駆ける! 駆ける! 駆ける!! 駆ける!!

 目の前に何かがいる。その全容は濃く厚い霧によって見えない。しかし、濃厚にデーモンの気配が、ぷんぷんと臭う・・

 それは霧越しであろうとも、マスク越しであろうとも、全く変わらない太古の時代からの真理だ。

 そこに敵がいるとわかれば、戸惑わない。

 霧の中の正体不明が俺に対処を行う前に俺は敵の懐の中に、加速の勢い全てを足先膝腰肩肘そして拳へあますところなく注ぎこむ。

(急制動――勢いの全ては拳に集約――ぶっ飛べ)

 拳の先で爆音。はじけ飛ぶ。

 最大加速からの急制動よりの全身全力全快の剄力拳打である。憎き敵デーモンの肉と骨が拳の先でミキミキと音を立て――しかし殺しきれず――故に奴の身体は橋板より浮き上がり、水切りの石のように何度も何度も橋板に叩きつけられながら吹っ飛んでいく。

「くぅぅぅ。もうちょっとイケたかぁ?」

 残心の姿勢のまま俺は息を吐き、盾を構えながらほんの少しの移動をした。

 俺のいた場所に突き立つ矢、同時に腕にもびりびりと衝撃が来る。

 狩人は今も俺を狙っている。

(……相も変わらず見事と言っていい腕前だ。俺が敵を倒し、緊張を緩めるタイミング。そして急所狙いの黒矢)

 だが、と俺は唾を地面に吐き捨てたい気分だ。

 俺は既にこの攻撃に何度も何度も対処を行ってきた。

 奴もそれは知っている。攻撃しているのは奴なのだから。

 あの伝説の黒き森の狩人が、如何にデーモン化しているとはいえ、こんな単調な訳がない。俺が既に対応し始めていることにはとっくにわかっているはずだ。

 一端の狩人ならば切り替え、襲撃を停止し、次の奇襲の準備を始める。

 ここは奴の森、如何な俺とて防げぬ死地を用意することも可能なのに。

 それとも、ここがその死地なのか?

(なら、狙いがある? そう考えた方がいいのか?)

 橋は終端へと近づいていた。この場も終わりは近い。霧は薄くなり、手足の先も見えるようになってくる。

 俺は、先の拳打で半死半生状態となり、橋板の上でピクピクと呻いている甲虫型人蟲デーモンをオーラを込めて踏み潰すと前を向き、ほう、と息を吐いた。


「なるほど。一筋縄で行くとは思わなかったが、そういうことか」


 厄介なことになった。自然と出てきそうだった苦鳴を噛み殺す。弱気は見せられない。

 橋の終端は見えていた。この死地からの脱出ももうすぐだ。

 しかしその終端には敵が居座っている。

 それは巨大な蜘蛛の人蟲。人の死体をより集めて作った冒涜的な蜘蛛のデーモン。

 それがゲタゲタと全身から生える人の顔面で笑っている。生きながら化物にされたという、絶望の人面による大合唱。

 蜘蛛の人蟲。

 その胴体は材料とされた人々の無念の顔の塊。長く白い蜘蛛足は人の腕が捻りあい、絡みあったもの。その全身からは人の髪が体毛のごとき長さで幾条も伸び、8つの目の代わりに赤子の頭が埋まっていた。

「なんとも嫌な姿だが、それより……」

 あれも問題だが、奴が持っているものが俺を悩ませた。蜘蛛のデーモンには8つの足があり、奴は6つの足で身体を支え、残りの2つで嫌なものを握っている。

 それは鉄でできた巨大な鋏だ。

 刃と刃の擦り合わされる金属質な金切り声。俺に見せつけ絶望を煽ろうというのか。蜘蛛のデーモンはゲラゲラと笑いながら橋を支える蔦の一本をその巨大な鋏で断ち切った。

「糞が。わかった。今すぐ滅ぼしてや――」

 進もうとして止まる。慣れ親しんだ殺意が背後にある。足を踏み出そうとした姿勢で俺はその場を飛びのいた。

 矢が橋板に突き刺さる。今のは危なかった。ほんの少しタイミングがずれれば俺の足は矢に貫かれていただろう。

「この機会を、待っていたのかッ!!」

 叫び、敵に最大限の警戒を示す。だが、奇妙な違和感に俺は突き立った矢を見た。

(ほんの少しだけ矢のタイミングがずれて……そういうことか……)

 慣らされていた。何度も射たれたことで、俺は奴の矢のタイミングを身体で覚えてしまっていた。それが今、微妙にずらされた。今、この場で致命的ほどのズレ。余裕のある状況でならいくらでも修正は効くが今は死地だ。

 このズレで俺を殺すのか。

(これが、黒の狩人の狩りか……)

 なるほど、僅かでも判断を間違えれば俺は死ぬ。

 秒の単位で状況の変わる危地である。

 蜘蛛がゲタゲタと嗤い、もう一本と橋を支える蔦を切り落とした。残りの蔦に荷重が大きくかかったのだろう。橋が大きく揺れる。

 狩人は俺が動けば、否、蜘蛛に意識を移せば矢を放つ。それを殺意で伝えてくる。迂闊には動けない。

 蜘蛛を叩こうにも俺と蜘蛛の間には距離があった。それは全力で踏み込んでも一足で詰められる距離ではなく、最低でも三足……四足必要だ。それに、蜘蛛は今俺を甚振るために時間を掛けて橋を落とそうとしているが、俺が奴を殴りに向かえばすぐにでも橋を落としに掛かるだろう。

 獲物が自覚して死ぬのを楽しむ悪趣味な部分。この方法であるなら俺が橋の中途にいた時であればいつでも殺せたというのに、ようやく渡り終えるというタイミングでやる辺りが、人を悪意で嘲弄するデーモンらしいといえばらしい。

 いや、これは……ダンジョンは攻略不可能な罠はかけないという法則か。俺が渡り終えるタイミングでなければできなかった罠だというのか。

「そんなことはどうでもいい」

 そうだ、どうでもいい。

 動けぬが動かなければならない。

 しかし動けば橋を落とされ俺は死ぬ。

 以前大穴から落ちた奇跡は期待しない方がいいだろう。死ぬ時は死ぬ。そんな奇跡を願うより、この場を武力で切り抜けるほうがよほど容易い。

 ふつふつと腹の底に煮えたぎるものが有る。

 それは憎きデーモンにいいようにされているという屈辱だ。


 ――深呼吸。


 呼吸とは世界の力を取り込む最も古き呪術の一つである。

 息を吸い。世界と一体となり。

 息を吐き。世界に自らを溶けこませ。

 息を吸い。自らの力を高め。

 息を吐き。高めた力を世界に返す。

 呼吸という技法の根本原理。

 そして、息を吸い、息を留め。自らの力を一時的に増強する。

 世界と一体となることで感覚を増強し、俺は狩人デーモンの位置をようやく掴む。

 このタイミングだからできたことだ。通常ならできない。俺の感覚は強固な防護服により妨げられているし、俺を狙う狩人の隠蔽技術は抜群だ。しかし、死地により俺の感覚が増強され、俺を必殺しようと完全無欠の殺意を奴が放ってくれているからこそ、感覚の先に奴を捉えることができた。

 最も、何度かの襲撃により大体の位置は突き止めていたという事実を忘れてはならない。

 それに、具体的な位置もだが、どうやってそれを成しているかも俺はわかっていなかった。それが俺に確証を抱かせなかった。対処の仕方がわからなければ位置を見つけても意味がない。そんなことに時間を掛けていれば霧の中で化物どもが襲ってきただろう。

 だが、それも敵が教えてくれた。


 ――人蜘蛛である。


「ふぅぅぅぅぅ」

 息を吐く。世界に力を返す。

 反撃は一度に済まさなければならない。

 狩人だけに対処すれば人蜘蛛により俺は死ぬ。

 人蜘蛛に対処すれば狩人により俺は殺される。

 鞘からショーテルを引き抜く。全身にオーラを回し、ショーテルの剣先にまで力を巡らせる。

 出し惜しみはなしだ。

 少しの緊張で、心臓が焦るように鼓動を打つ。

(こんな……こんなこと……初めてやる……)

 何か一つでも失敗すれば死ぬ。

 タイミングを間違うこともできない。


 ――蜘蛛が蔦を切り裂いた。


 橋が大きく傾き、俺の体勢が崩れ――同時、矢が飛んでくる。

 だが、俺の体勢は崩れていない。

 腰を大きく落とし、橋板に足裏は吸い付いたようにぴたりと張り付く。

 体勢の安定しない場であろうとも、そこに地面があるならば、辺境人は安定する。

 狩人の矢を構えた盾で防御する。衝撃の全ては腕から腰、腰から地面に流す。俺はブレない。心身は安定する。

「これが武ってもんだ! 舐めんなッ!!」

 大呼吸。全身の力を増やすと俺はショーテルを振りかぶり。その場で大きく一閃。

 それは蜘蛛や狩人を狙ったものではなく。俺の一振りは――俺は一振りで――


 ――自らの位置の橋板を中心に、蔦の全てを切り裂いていた。


 ――橋が落ちる・・・


 ――まだ・・落ちていないッ!!


 支える蔦を失い、落下していく橋。しかし、落下する前に俺は自らの足の下の橋板を蹴飛ばし、宙へと躍り上がっている。

 それに加えて、俺の一歩前にあった橋板も全力で蹴り上げた。陸とつながっている橋板は蔦と一緒に弧を描くように空を飛んだ。

「おぉおおおおおぉおおおおおお!!」

 眼下には底の見えない大渓谷。俺は宙にいる。蹴った反動で浮いているが、神の奇跡を賜っていない俺はこの上昇が終われば落ちる。

 このまま蜘蛛へと向かうのか。否。否だ。

 ただ宙にいるだけなら、そこを狙わない射手はいない!

「だが、俺はもう掴んでいる!!」

 ショーテルを鞘に叩きこみ、手のひらに生み出すのはヤマの奇跡だ。

 火球。それを俺は、俺を狙い続けていた狩人のデーモンに向けて投擲する。

 位置はわかっている。奴は空中にいた。しかしそれは奇跡ではない。狩人は司祭や庭師ではない。狩人の戦いは狩人のルールでもって行われる。

 故に、そこには必ず仕掛けがある。

 それは空に張り巡らされた蜘蛛の結界。否、死人の髪。

 霧に隠され、見えなかった存在。人蜘蛛・・・の蜘蛛糸・・・・である。

『……ッ……!?』

 蜘蛛糸の上。撚り合わされた糸の上で器用にも俺を狙っていた狩人が動揺の声を上げ、跳躍し、狩人はその場から逃れていく。

 それもその筈。

 俺によって投擲されたヤマの火により、霧によって隠されていた蜘蛛糸が一気に燃え上がったからだ。

 ヤマの火球はヤマの炎。死者を慰める地獄の火。

 故に、死者の髪でできた糸を欠片も残さずに燃やし尽くす(これがデーモン本体となると瘴気で抵抗されるのだが)。

 俺を狙い続ければ、狩人もまた、この渓谷に落下しただろう。


 そして、俺は落ちる。


 上がれば落ちる。自然の理であり。何もなければ俺は死ぬ。

 しかし、まだ落ちていないものもここにはある。

 俺が宙に蹴り上げた橋板。それが、俺の落下する先にある。

 それはまだ落ちていない。そのように蹴り上げた。

 故に、俺はそれを蹴り上げ、足場とする。俺は落ちない。落ちず、最後の敵を排除する。

 蹴り足を調整していた俺は、空を飛ぶように、橋の終端で呆然と俺を見上げていた人蜘蛛へと襲いかかった。

「きぇえええええええええいいいいいい!!」

 怪鳥がごとく飛来する辺境人。蜘蛛は慌てながらも手に持った鋏を槍のように構え、突っ込んでくる俺へ向けて構えた。

 流石の俺も奇跡もなしに空中で姿勢を変える方法までは持っていない。

 故に、俺は飛びながら袋より長鋏を取り出すと、全身の筋力を利用し、空中で鋏をぶん投げる。

 人蜘蛛の胴体に突き立つ長鋏。上がるデーモンの絶叫。地面に縫い付けられた蜘蛛は身を焼くオーラに身体を捻る。

「……だが! ちょっと足りなかったか!!」

 同時に、射出の抵抗で飛距離が陸地に少し足りなかった俺は、目の前に迫る岸壁に顔を青くする。

 しかしそれもほんの少しだけ対処は考えていた。

 視線の先には俺が飛んだことにより、俺より先に落ちているものがある。しかもそれは完全に落ちてはいない。

 蜘蛛によって蔦のあらかたを断ち切られ、しかしそれでも蔦の残っている陸側の橋だ。

 壁に叩きつけられ、あとは落ちるばかりだった俺は天恵とばかりに、壁にぶつかると、俺よりほんの少し先に壁面へと叩きつけられていた橋を掴むのだった。

 蔦を掴む腕にかかるのはずしりとした自身の重み。

「ふん……ぬ!!」

 ぎしり、ぎしりと俺の重みで橋が揺れる。

 だが、ここまでして落ちたら無念すぎるとばかりに俺はしっかりと蔦を掴み、地上へと登る。

 そうして陸地で半死半生だった蜘蛛にとどめを刺すと、窮地を脱した安堵に深く息を吐き。


「……流石に、余力が残らなかったからな」


 全てを終わらせ安堵したところに飛んできた黒矢。

 警戒はしていた。だが足りなかった。

 一発は盾で防いだ。しかし同時に飛んできた二射に、力を使い果たした状態の俺では対応することができなかった。

 月狼装備を貫き、腹に突き刺さった毒の矢。それを俺は苦い顔で見下ろした。



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