第五節 慟哭

第1話 名前

 優美な扉を蹴破ったシウォンは、担いでいた泉を長椅子へ横たえると、「待ってろ」と皮肉げに口元を歪め、部屋を後にする。

 煙のせいか気だるい身体を持て余し、しばしまどろみ。

 美丈夫のもたらした温もりが冷めたのを感じたなら、震え一度で身を起こす。

 内装、まず目に入ったのは、長椅子近くの大きな丸い食卓。

 次いでゆるゆる見上げた先に天井からぶら下がる美麗な灯り。

 それから左右と視線を泳がせたなら、壁や扉に至るまで、灯り同様、息を呑むほど美しい細工が施されていると知る。

 ぼんやり、しばし見入れば、おずおず扉が開かれた。

 現れた白い姿に、泉は小さく息をつく。

「司楼さん……」

 現れたのは、シウォンから無下に突き飛ばされたはずの人狼。

 けれど彼は無体な仕打ちの名残を感じさせない、呑気な会釈を一つ。

「どうもっす。料理お持ちしました」

 そうしてせかせか運ばれてくる料理は、どれも美味しそうな匂いで泉の鼻腔をくすぐってくる。

 食卓の上を埋め尽くす料理の数々。

 だが、運ぶのは全て司楼唯一人。

 幽玄楼には必要最低限の者しか入れないと聞いたが、幾ら何でも品数の多さに対して、運ぶ人数が一人というのは酷なのではないか、と泉は思う。

 けれど、呆気に取られる泉を余所に、運び終えた司楼は充足感たっぷりな様子で汗を拭う仕草をすると、泉へ「どうぞ」と料理を示しながら言う。

「……………ええと、司楼さん? これ、私にどうしろと?」

「どう…って、綾音サン、腹減ってるんでしょう? たらふく喰ってください。遠いのは俺が取りますから」

 菜箸を鳴らし、司楼が取り皿を一つ手に取る。

 鋭い爪を持ちながら器用に待つ姿。

 目を逸らし、並ぶ料理を見ては眉を顰めた。

 腹は確かに空いているが、盛大な腹の音が鳴った割に、食欲は乏しい。

 いや、腹の音通りあったとしても、出された料理の二、三品で膨れてしまうだろう。

 暗に大喰らいと言われている気がして、泉は顰めたまま、司楼へ正直な気持ちを告げる。

「あの、いりません。それに私、こんなに沢山食べられません!」

 すると、司楼の耳が伏せられ、困惑した黒い瞳が向けられた。

「全部食べる必要はないっす。でも、食べとかないと身体が持ちやせんよ? たぶん親分の調子じゃ、最低三日三晩は付き合わされますから。碌に休ませて貰えないのに腹まで減らしちゃ、後々キツいかと」

「は!? いえ、いや、あの?」

 事も無げに首を傾げた司楼に対し、泉は目を白黒させる。

 似た話は周囲からも、シウォン本人からも散々聞かされてきたが、あまり物事に動じなさそうな司楼が言うと、酷く生々しかった。

 問わずとも意味は分かるが、念のため。

「ど、どういう意味ですか、司楼さん!?」

「どう……って、綾音サン、そりゃあ――――」

「三日三晩以上、俺と床を共にするって意味だろう?」

 音もなく部屋へ戻ってきたシウォンは、白い人狼の後頭部を手だけでがっしり掴む。

 具体的な話に絶句する泉とは違い、頭を掴まれた司楼は動けぬ視界を揺らす。

「お、おお親分!? な、何か、怒ってないっすか?」

「いいや? 俺はお前に怒ってなんかないさ。ただ――気に食わねぇだけで」

 ぐいっと司楼の頭を引き寄せる姿は、人狼が人間に怯えているようにしか見えない。

 震える獣の耳に口を近づけ、

「なあ、司楼? どうして俺の知らねぇ小娘の名を、お前が呼んでいる? そして何故、俺より先にお前の名を小娘が呼ぶんだ?」

「そ、それは………親分の不備っきゅあ!」

 無造作に人の腕が払われ、白い人狼の身体が開きっぱなしの扉の向こうへ消えた。

 追うシウォンは音を立てて扉を閉め、非難を呑み込んだ泉を睨みつける。

 苛立つ足取りで近寄っては隣へ座り、逃げようとする泉の腕と首を自分の方へ引き寄せた。

 殺気立つ眼を受けつつも、辛うじて泉は声を絞り出す。

「し、司楼さんは」

「違う。違うだろう、小娘。俺はお前の名を知らねぇが、お前は俺の名を知ってるはずだ」

 不遜を纏って呻く苦渋に、泉は混乱しながら、中年女の言を思い出した。

 ――軽々しく呼ぶんじゃない。

「……フーリサマ」

「………………………………くそっ! シウォンだ、シウォン! 今まで気軽に呼んでたくせしやがって、土壇場では名すら満足に呼べねぇのか!?」

「し、シウォンさん!」

 おばさんの嘘つき、と名も知らぬ人狼の中年を詰る叫びを上げれば、唐突に拘束が解かれた。

 締められたわけではないが反射で数度咳き込むと、向けた背を優しく労わり撫でる手の感触。

 顔だけ振り向き、喉が短い悲鳴を凍らせる。

 にやけるのを我慢するような、満足そうな朱混じりの美貌。

 ……似合わないを通り越し、気味が悪いことこの上ない。

 すっかり固まってしまった泉。

 お構いなしに、シウォンは撫でる腕を泉の肩へ回して引き寄せる。

 後ろから抱き締められる形に納まり、身じろごうとする耳へ甘える吐息がかかった。

「それでいい。……さあ、次はお前の番だ、小娘。俺にお前の名を呼ばせろ」

「い、いずみ……綾音、泉です……」

 ひぃ、と出かかる恐怖を押し留め、告げれば耳を弄る笑い。

「泉か……中々、イイ名じゃねぇか。ええ? 泉……」

「ぅひゃっ!?」

 耳へ押しつけられた唇が、低く名を形作る。

 背筋を這う悪寒に似た感覚は、回された腕を両手で押さえ、煽られたようなシウォンは首筋を甘く噛んだ。

 びくんっと反射的に仰け反ったのも束の間。

「――いだっ!?」

 回転する視界に頭を打ち、回る目から首を緩く振る泉。

 状況を把握しようと前を見れば、ソファに上げられた足へ、シウォンが跨り近づいて来る。

「小娘とはいえ……もう、限界だ。この煙ですら持たねぇ……閨まで待てるか。せめて、味見だけも――――」

 慌てて両手を突き出し止める。

「ま、待った、待ってください! わ、私、何も食べてません!」

「いらねぇんだろう? じゃあ、イイじゃねぇか」

 煙管を食卓の器へ置き、右手で泉の左手首と肩を押さえ、左手で突き出した右手を絡めるシウォン。

「よ、良くは全くないです! だ、第一、貴方は私を妻だのなんだの言っておきながら、何一つ知らないんですよ!?」

「問題はねぇ。俺は大概、相手の名すら知らん。名前一つ知っているだけでも快挙だ」

(快挙って、自分で言うこと!?)

 非難の巡る視線を受けて、シウォンはうっとりとほくそ笑む。

 愉しそうな様子に、全く楽しくない泉は噛みつく叫びで対抗した。

「それに権田原さんたちだって!」

「ゴンダワラ? 誰だ、そいつは?」

 ぴたりと不穏な気配が収まったのを受け、内心でほっとしつつ、睨みつける。

「私の……友人です! あなたの部下が連れてったっていう!」

「ああ、間違ったって奴か。アイツ等なら今頃、客の一人でも取ってるんじゃないか?」

「なっ!?」

 つまらないとでも言うように、欠伸を一つ。

 中年女の予想は寸分違わず当たっていた――それも、嫌悪する方向に。

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