第17話 囲い女

 良くないことというのは、続くものである。


 そんな女がため息を付いたのは、立入禁止と申しつけられていたねぐら。

 群れの頂点――狼首ろうしゅからの命は絶対であるにも関わらず、女がやってきたのは偏に、軽薄な声が煩わしかったためだ。

 だというのに、思惑を外れた軽薄さは、狼首の命など知らぬ素振りで女に続いた。

「なあなあ、いいじゃねぇか。どうせ、そのつもりで戻ってきたんだろう?」

「っさいわね! 今、気分が乗んないの! ほっといて頂戴!」

 鋭い犬歯を剥き出しにして威嚇すれば、先ほどからしつこく纏わり付く男が耳を伏せながら、値踏みする視線を這わせてくる。

「お高く止まるなよ。気分なら俺が持ち上げてやるからさぁ。暇してるんだろう、今。あんたんとこの狼首が趣味に走っちまったせいで」

「…………あんた、どこの群れ?」

 狼首の趣味というには、些か派手さに欠ける趣味を思い、不躾なその言葉に眉を顰めて男を睨む。

 当の男は、女の不穏な気配など察せず、ようやく自分の方を向いたことだけを悦んだ。

「どこって、どこでもいいだろう? やる事に変わりはないんだからよぉ?」

 黙っていれば可愛い部類かもしれない男の相貌は、至極残念なことに、幼い欲情に持て囃され歪になっていた。

(あんまりにも可哀そうだから、この際、殺してしまおうかしら?)

 無邪気を装う男の気配に乗ったと見せかけ、皮肉を込めて女は微笑んでやる。

 途端、品のない口笛を吹いた男を冷ややかに見つめ、影で爪の動きを確認する女。

 最初に裂くなら、オーソドックスに腹が良いか、鮮血飛び散る首が良いか。

 最悪な気分にそぐわぬほど、今日の月は美しい円を闇に浮かび上がらせ、か弱い星々の光を貪りつくしている。

 こんな奴でも、巡る朱は映えるに違いない。

 てらてら、爪を彩る彩りに鬱憤を晴らす夢想を見、

「仕方ないわねぇ、付き合ってあげるわ。でも、満足出来なかったら――」

「へ、へへへへへへへ、野暮なことは言いっこナシだぜ。期待してくれたってイイ。ナリとのギャップが自慢なんだからよ」

「…………そう?」

 喉の奥で大笑いしたい気分を押し留める。

 幾らなんでも知らな過ぎだ、この男は。

 ブロンドの毛並みの中、エメラルドの光を細めた女は、己が群れの狼首を思い浮かべた。

(……あの方の入神の技を一度でも刻まれたなら、そんじょそこらの相手じゃ末技がイイとこ)

 いや、その域にすら達せやしない。

 粟立つ高揚を味わうように胸に手を当て男へ流し目を向け、雛のようにはしゃいで後に続くのを背後に、影でぎりっと歯を軋ませた。

 昂れば昂るほど、今、狼首に触れて貰えない苛立ちが募っていく。

 それもこれも、全ては今いる芥屋の従業員が女のせい――

「……違う…………そうじゃない」

 ぼそり呟いた言葉は男には届かず、けれど女も繕う気はなかった。

 剣呑さを増す眼光が遠く射抜くのは、大したことない容姿の、狼首の趣向には沿わない餓鬼。

 だというのに、彼は珍しくも女を連れ添い、まだ寝入る真昼の中を迎えに行った。

 それだけでも驚くべきことだが、何より驚いたのは、餓鬼が無謀にも狼首を払い、あの方に添うたこと。

 当然とばかりにあの方の背後に隠れ、あの方もそれを当然として。

 狼首の激昂は当然だが、それ以上に女は憤った。

 誰人も拒絶するあの方に身を守られ、わざわざ望んでくださった狼首を払う、人間という卑しい種を自覚せぬ行為。

 あの餓鬼でなければ、ここまでの苛立ちは生じなかっただろう。

 幾ら弱く下賤な種族とはいえ、狼首と床を共にしては、女にも仲間意識が芽生える。

 結末に腹を裂かれ、臓腑を喰らわれようとも、親しく笑い合うことさえ可能だった。

 だが――――

「いやー、虎狼の囲い女は悦楽に通ずるって聞いたから、一度お相手願いたかったんだ。本当、ラッキーだぜ。ここのところ、ずーっとご無沙汰なんだろう? あんたらの狼首、最近、喧嘩に力入れてるって専らの噂だし」

「…………あら、噂じゃなくて事実よ」

 低く唸っても女が属する群れの名に有頂天の男は気づかず、彼女は鋭い爪を忌々しげに噛む。


 おかしな話を聞いたのだ。


 恐るべき芥屋の猫が、幽鬼が出現したある晩、従業員の人間に使役されたという話を。

 同族のソイツは、幽鬼の恐怖に当てられて幻覚を見たのだとからかわれていたが、側近たる少年から狼首へ、その話が漏れたらしい。

 奇しくも群れ同士の争いが始まり、普段は介入しない猫が、双方を際限なく嬲り殺した後に。

 心根など計れるものではないが、猫は奇人街において、何にも勝る狂気。

 狼首にはこれを避けられる能力はあるが、例外なく畏怖すべき存在の奇行は、自尊心の高い彼の心を怯ませたに違いない。

 だからこそ、その猫を使役できるという餓鬼を求めた。

 縋る女を払って、誘う手筈だけを狼首は模索し続け、昂りは女を用いず力で鎮めて。

 それは幾夜も共にあって女が得られなかった、個を望まれる立場に等しい。

 狼首から求められるのも、餓鬼から払うのも、気に入らない。

 理由の全てが、猫に関連していようとも――――

「あー、もうっ! ホングス様の甲斐性なし! ちょっとくらい構ってくれたっていいじゃないか!」

 憂さ晴らしにしても、立入を禁止された場所では拙い、そう思って移動した矢先、そんな叫びが女の耳をつんざく。

 慌てて見やれば、路地の影から赤毛の女が出てきた。

 同族の同じ群れに所属する見知ったその顔は、餓鬼の迎えを共について行ったもう一人。

 よりにもよって、狼首の宿敵たるあの方の名をこの場で叫ぶ愚行を窘めようとした女は、その顔を見て驚いた。

「っ! ちょ、ちょっとあんた!……その顔どうしたの?」

 顔面にくっきりと草履と思しき跡がある。

「どうもこうもないわよ。フーリ様全然構ってくれないって不貞腐れてたら、ホングス様見つけてさっ。今日こそお声かけて貰えないかと思ったのに、気づいてくれないばかりか、足蹴にされて…………はぁ、しばらく顔、洗えないわぁ」

「…………あんたね」

 濃い、というより最早変態の域に達して潤む、薄茶の瞳の発言に、女は呆れ果てて物も言えない。

 それでも似たような境遇。

 半分は引きつつも、もう半分に同情を乗せれば、うっとりしていた獣面が女の後ろを見ていぶかしむ。

「……なに、あいつ」

 虎狼の囲い女などと呼ばれても、狼首たるシウォン・フーリが乗る気にならなければ、他を見繕うのは、赤毛の女も同じこと。

 なのに気まずくなって目を逸らすのは、押し売りで受け入れた背後の男が、女の趣味に合わないため。

「まあ……暇つぶし?」

 趣味が悪いと言われるのを嫌い、そう言ったなら、眼前、首が振られ顎をしゃくる動き。

「違うって。アレよ、アレ」

「アレ?」

 ぞんざいに示された方向を面倒臭そうに振り向く。

 見開かれるエメラルドの瞳。

「な…………嘘……だってそんな……ううん、じゃあフーリ様は?」

 視線の先の動きは、時折後ろを振り向いては安堵の息を吐く。

「あの様子じゃ、逃げてきたみたいね。どうやってかは知らないけど、我らが狼首を出し抜くなんて、やるじゃない?」

 褒める言葉に殺意を織り交ぜ、吐き捨てられたそれに女は頷く。

「ええ……生意気。ううん、恥知らずよ」

 呟きに色はなく、顔にも女の心情を表すような変化はない。

 と、遠慮がちにかかる声がある。

「……な、なあ? 俺のこと忘れてねぇか?」

「…………」

 言われて気づく、すっかり抜け落ちた存在。

 女はこれを認めるなり、振り返って赤毛と視線を交わす。

 現れるのは、弦の歪み。

 そっくりな光を宿すエメラルドと薄茶が、哀れな男を射抜いた。

 途端に震え、怯え出す愚かさを可愛いと同じ顔つきで嗤い、その顎下に指を這わせる。

「ねぇ、気が変わったわ。遊びに付き合って頂戴な。そうしたら、私たち二人で相手になってあげるから。なんだったらお仲間も誘って、さ。遊んで欲しいのよ」

 しなだれかかれば男の喉が貧弱な音を立てて悦ぶ。

 好色を隠しもしない愚鈍さで、舌を垂らした男は「遊び?」と繰り返す。

 女たちは、首肯する。

 つと、闇に消えゆく背を指差して。


「「あの餓鬼を――――――」」

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