第14話 化け物
「ラオっ、ラオっ、ラオっ、ラオっ、ラオっ……!」
軋む音が聞こえそうなほど噛み締められた、剥きだしの歯。口の端からは泡が溢れ、赤い髭の上でも判別出来る朱が滲み始める。繰り返される声音は、深い憎悪そのもの。
反して、響きはどこか機械的であり、口元以外に感情らしい感情が伴わない。
虚脱とは違う無機質な光は、萎縮する泉を射貫きながらも、どこか別の場所を見ているように遠く、青い瞳は底なしの穴を覗くに似て昏い。
人間、ではない。
泉はキフが自分とは異なる種に属するのだと、まざまざと見せつけられた気がした。
それも、自分より遥か上位に君臨すべき存在だと――。
「っか……!?」
不意に、怯える泉の喉から生じた音。
「うわっ、す、すまない、お嬢さん!」
途端、いつもの雰囲気を取り戻したキフが、顔色を青くしてこちらへ手を伸ばしてくる。
両肩が掴まれ、泉の視界が大きく揺れた。
まるで、ふらついた身体を支えられたかのように。
否、現実に泉の身体は倒れようとしていた。
(なに、わたし……?)
自分の身体のことだというのに、遅れて気づく、感覚の鈍さ。
意識は驚くほど鮮明。なのに、勝手に震え始めた身体は全く言うことを聞いてくれない。
知らず首を覆う両手は、口の端から涎が垂れても、そこに留まったまま。
みっともない。
そんな風に思ったなら、徐々に意識が遠ざかり、温かな闇が瞼を重くさせる。
過ぎる、現在の時刻。
正確な時間は奇人街において意味をなさないが、空の色は夜を知らしめていた。
(もしかして、思ったより遅い時間なのかしら。だから、眠い……?)
結論づける合間にも、とろとろ堕ちる意識。
そこへ切迫した声が届く。
「お嬢さん! しっかりしたまえ、息をするんだ!」
(……い、き…………)
回らない頭に浮かぶ、腹式と胸式、二つの呼吸法。
音楽の授業で唄を歌うなら腹式の方が良いと習い、試しに発声した時を思い出す。
伸びやかに奏でられた音色。
確かな手応えと充足感は、子どもの声量と侮った教師のしかめっ面に迎えられ、泉に人前で歌うことを止めさせた。
それでも唄は好きだったから、誰も居ないところで一人、歌ったものだ。
――自分の存在を証明するように。
記憶に喚起されて拳を握れば、闇の中でぺしっと軽く張られた頬。
「ぃっ……ぁっ!?」
反射的にまとわりつく倦怠を振り払い、身を起こして上げた、第一声。腹から出したつもりだが、喘ぎが起こり、咳が続く。合間を縫い、新鮮な空気が次から次へと肺に送られる。その勢いに気圧され、地面へ手をつくが咳は収まらず、涙と涎が手の横を濡らした。
「あ、危なかった。……いや、本当にすまない、お嬢さん。おじさんの怒気に当てられてしまったんだね。でも、もう息もちゃんと出来てるし……。辛いかもしれないけど、すぐ楽になるから」
「……わ、たし?」
ぜえぜえ息をすればするほど、鼓動に併せて頭が鈍痛を訴える。
涙で歪む視界の中、キフが申し訳なさそうな顔をしているように見えた。
「すまなかったね。おじさんもまだまだ青くて。齢を重ねてきたはずなのに、感情のコントロールがなってないとは情けない」
「っぃえ! でも……、キフさんって……」
絶え絶えに問えば、意図は伝わったらしく、強い困惑が返ってくる。
「どう言ったものか。……あー実はね、おじさん、自分の種族はあまり好きではないのだよ。今みたいに感情に流されると、周囲の行動を勝手に制限してしまうんだ。望むと望まざるとに関わらず、ね。しかも今回、奴を見た、お嬢さんの目を見て……見ることを強要して、他を許さなかったから、お嬢さんの身体が呼吸を失くしてしまった。本当に、すまない」
酔っていたとは思えないほど真摯に謝罪し、頭を下げるキフ。
呼吸が落ち着いてきた泉は、手を振ることでこれを宥め キフは不思議そうに問う。
「お嬢さん、君は…………何というか、恐れないのだね? 化け物と罵っても良いのだよ? 感情にまかせて殴ってくれても構わない」
それは今更の話だった。
奇人街に来てよりこの方、人間外の化け物にどれほど遭ってきたことか。
けれどきっと、キフが言いたいのはそういうことではないのだろう。
奇人街の中でも、特に異質な種族――それがキフの属する種。
そう理解は及べど、結局のところ、泉の考えは変わらない。
少なくともキフは、泉を、その声を、言葉を、厭う者ではないのだから。
あの一度の発声を境に、泉を音楽から遠ざけた教師とは違う。
彼ラトハ――――
沈む思い出に囚われた口元へ、肌触りの良い布が当てられる。驚いて視線を向ければ、全指に色とりどりの指輪を嵌めた無骨な手が、白いハンカチを握っていた。
辿った先で、しゃがんだ中年が苦笑する。
「やれやれ。おじさんは女性には無害のつもりなんだが。……思い返せば君には酷いことをしているね。服にしてもかんざしにしても。果ては窒息寸前まで追いつめて、唾液塗れにして泣かせて」
「…………そう、ですね」
続きそうな謝罪を遮り肯定すれば、わざとらしくキフの太い眉がハの字を描く。
「ああ、本当にお嬢さんはつれないねぇ。しかも、とても良い子だ」
ハンカチが押しつけられ、受け取ったなら軽く叩く仕草で頭を撫でられる。
労わるソレに、思わず泉は言ってしまった。
「キフさんて……なんだかワーズさんに似てるんですね――――って!」
慌てて口を塞ぐが、時、すでに遅し。
キフが人間ではないと理解した上での発言にしては迂闊が過ぎた。奇人街の住人の中で上げるにしても、絶対喜ばれない、寧ろ殺意を抱かれそうな人名だろう。ワーズの嫌われっぷりを思い起こせば、ラオの比ではすまない。
けれど、中年の顔に生じたのは、驚きと苦笑と――表せない何か。
ごちゃ混ぜの感情を恥じるかのように赤い頭頂部が向けられ、その肩がクツクツ揺れた。
「あ、あの……」
困惑しておろおろ手を伸ばせば、キフが勢いよく立ち上がる。
俯いた表情は目元に置かれた手で見えなかった。
「ふむ…………お嬢さんは、なかなか面白い子のようだ。さすが、おじさんの娘」
「いえ、あなたの娘になった憶えはありません」
そこはきっぱり否定する泉。
のろのろ立ち上がり、ふと手元のハンカチへ視線を落とす。
弱々しい街灯に浸食された闇間で、ナメクジが這ったような跡が光る。
「うわ……。すみません、キフさん。これ…………あれ?」
恥ずかしいが、言わないわけにはいかない。そう思って顔を上げたなら、そこにいるはずの中年の姿は、遥か遠くの闇の中。辛うじて分かる、上げられた両手には、泉の服であった布がはためいていた。
今更叫ぶ気力もなく、茫然と見つめる泉。
ふざけた格好は、いつかの幽鬼に追われた際、パパと呼ぶよう強要しておきながら、泉を一人置いて逃げた姿によく似ていた。
(まさかっ!?)
遅れた気づきに急いで振り向く。しかし、そこに生白い裸体は見当たらず、幽鬼が出現した時の異質な静寂も耳には届かず、ただ遠い喧噪が夜気に紛れるのみ。それでも用心するに越したことはないと、念入りに周囲を見渡してみるものの、キフがあんな格好で逃げゆく要因は分からないまま。
はてなマークを余すことなく頭に浮べた泉は、再度キフが去った方を振り向き、
「わわっ!? い、いつの間に!?」
「む……? おお、これはこれは」
先ほどまでいなかったはずの小柄な影が、背中に生えた羽を折り畳み、泉へ顔を突きつけた。驚いて身を竦めれば、目深帽の下で、牙を持つ大きな口がにぃっと笑む。
「綾音様……に、相違ありませぬな?」
「そ、そういうあなたは……緋鳥、さん?」
「然り」
言って背後にステップを踏み、くるりと回ってそのまま一礼。
踊る優雅さに目を瞬かせた泉は、意味もなく感嘆の声を上げて拍手をした。
これを受けて緋鳥は再度礼の形を取り、解いて後、こてんと首を傾げた。
「はて? 綾音様、斯様な時刻に人狼どものねぐらでいかがされましたか?」
「じ、人狼の、ねぐら?」
不穏な響きに、泉は建物から一歩、柵へと身を寄せた。
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