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ほどなく滝川殿も降伏し、一応は、世の中は落ち着いた。
三法師殿の後見は御本所殿一人となり、また世人の合議衆も一人欠けて三人となった。いや、そうなるはずだった。
だが、どうも世の中は羽柴殿を中心に動き始めたようで。これまでの多くの織田家の家来が羽柴殿の家来となるという形を取り始めたようだとジュストも言っていた。
なぜなら、当のジュストもそのような形で羽柴殿の家来になることになったとのこと、しかもなんと、羽柴殿とは対等であったはずの丹羽殿や池田殿までもが羽柴殿の家来ということになったようだ。
「どうも次の天下人は、羽柴筑前殿になるのでしょうか」
食事をしながらの席ではあるが、フルラネッティ師もそのようなことを言っていた。
ただ、我われはここで、その責務を全うするだけである。
私にとっても、学生たちと暮らす日々を過ごしているうちに、かつて安土でそうであったように、そのような毎日が楽しくてしょうがなかった。
異教徒にキリストの道を説いて改宗させるのも福音宣教なら、
世の中も大きな動きはなく、六月の末に羽柴軍の一部隊が高槻の城に押し寄せ、先の戦争でジュストが柴田殿に内通していたのではないかという疑惑を問いただしに来たが、なんとかジュスト殿は身の潔白は証明できたようで、羽柴軍は一日で帰っていった。
やがて梅雨も終わり、季節は夏を迎え、神学校も夏休みとなり、そしてあっという間に九月を迎えた。
その頃、フルラネッティ師は夕食後に私とフランチェスコ師を自室へと呼んだ。
「
そう言いながら、フルラネッティ師は何枚かの紙に渡った手紙を我われに示した。
「
まずはフランチェスコ師が、次に私とそれを回し読みした。
そこには驚くべきこと、そして私がずっと気にかけていたことが、喜ばしい結果として記されていた。それは昨年、私が長崎にいた時についに到着しなかったマカオからの定期船のことである。
その後の例の定期船の消息は、以下の通りであったという。
昨年の八月、私が長崎に行っていた時、アンドレ・フェイオという人を船長とする定期船がいつまでたっても到着しないと大騒ぎだった。
その船と同時にマカオを出港したアントニオ・ガルセス船長の船はぼろぼろの状態で口之津に到着していたが、そのガルセス船長の話だと途中でものすごい大嵐に遭い、フェイオ船長の船は全く見当たらなくなったという。ガルセス船長の船は『
そしてもう風向きが変わったのでこれから後の到着は見込めないということになった頃、私は長崎を離れて都へと戻ってきた。
そのフェイオ船長の船の消息がわかったとのことだった。
一ヶ月半ほど前の七月十五日、今年のマカオからの定期船がカピタン・モールのアイレス・ゴンサルヴェス・デ・ミランダを船長として長崎に入港した。そしてそこには、昨年到着しなかったフェイオ船長の船に乗っていたはずのペドロ・ゴメス師やクリストヴァン・モレイラ兄などが元気に乗っていたのだという。モレイラ兄とアルヴァロ・ディアス兄、ジョアン・デ・クラスト兄はすでにマカオで叙階を受けて司祭となっていた。
他にダミアン・マリン師、ジョアジェ・カルバリオ師、フランシスコ・パシオ師という司祭や三人の修道士がその便で日本にやって来たのだという。
パシオ師と聞いて、私は驚いた。私にとって懐かしい名前だ。
私はリスボンからゴアまで、ずっと彼とともに旅をしてきたのだ。私と同じ教皇領の出身だが、リスボンで初めて会った時は私よりも若いのにすでに司祭となった。いわば年下の先輩だ。
たしかマテオとともにゴアからマカオに来ると、去年もらったヴァリニャーノ師からの手紙に書いてあった。
「そうか、あの人も日本に来られたのか」
私は早くパシオ師に会いたいと思った。
ゴメス師が昨年のフェイオ船長の船について語ったところによると、嵐で船は台湾という巨大な島の沖で座礁して動けなくなり、なんとか筏で上陸したものの原住民に襲われて命の危険にさらされ、多くの財宝も奪われたという。
だが彼らはなんとか岡の上に小屋を作って冬を越し、座礁した船の残骸で小舟を作って命からがらマカオへと帰りついたとのことだった。もちろんその途中で、何人かの乗員は命を失ったという。
そしてあらためて今年、カピタン・モールの船で日本を目指した来たとのことだった。
そしてもう一点、長く日本の布教区長を務め、ヴァリニャーノ師とぶつかってその任を解かれて豊後の府内にいたカブラル師が、昨年嵐の中をなんとか先に日本に到着した船がマカオに戻る際にそれに乗り、ついに日本を離れたとのことだった。
彼は暫定的に豊後の布教区長を務めていたが、その後任に内定しているゴメス師の来日の見込みが立ったので入れ替わりに日本を離れたのだろう。
手紙を読み終わった私は目を挙げた。
「あのう、例のスパーニャとポルトガルの併合によるその後の動きなどは?」
フルラネッティ師は静かに首を横に振った。
「ご覧のとおり、
もしかしたら、本当にまだ何の動きもないのかもしれない。ただ、もし何かあったとしても、私がそのことを長崎から戻った時にオルガンティーノ師に伝えた際も、オルガンティーノ師はさしたる関心も示さなかったので、あえて必要を感じなくて今回の手紙には書かなかったのか……、いずれにせよ大騒ぎするような緊急の事態は起こっていないことだけは確かだろう。
「それと
そう言ってから私に、まだ封も切られていない手紙をフルラネッティ師は渡してくれた。
「今回来られた
私がリスボンからゴアまでともに旅をした司祭の一人であるパシオ師の名前にも涙が出そうなほどの懐かしさを感じたが、私はその封書の裏の懐かしい文字を見て、飛び上がらんばかりに心が踊った。
「マテオ…!」
そしてすぐに自分の寝室にそれを持っていくと、急いで封を切った。見覚えのあるイタリア語の文字が、私の目に飛び込んできた。もうそれを見ただけで、まだ内容を読んでもいないのに私の目には涙があふれてきた。
――1582年9月8日
主の平和があなたと共にありますように。
ゴアで君と別れてからそのままインディアで福音宣教の任に当たるはずだった僕と
そしてヴァリニャーノ先生からも、君の話は聞いたよ。日本で君は大活躍のようだね。
そして日本から来てローマを目指して旅をするという少年たちとも会ったけれど、その中のマンショという少年も君の話をしていた。彼は実に流暢にポルトガル語を話すから驚いた。僕も少しは日本語を勉強しているけれど、なんといっても主体はチーナ語だ。日本語とチーナ語、文字は同じなのに全然違う言葉なので驚いた。もっとイタリア語とポルトガル語くらいには近いのかと思っていた。
日本では順調に福音宣教が進んでいるようで、
日本とチーナは海を隔てているけれど、お互いに目指すところは一つ。
この手紙は私が共にゴアからマカオに来た
『
マカオにて マテオ・リッチ――
私はもう、読んでいて涙が止まらなかった。書かれた日付からもう一年近くたって、ようやく私の手元に届いた手紙だ。だがそれは、西東と別れているけれど心は一つ、聖職の友だと、それを実感できるような手紙だった。
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