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 船はゆっくりとその天然の防波堤のような細長い土地の切れ目を通って外の湖に出た。

 左側は丘がその上に乗った岬で、やがてその岬が切れて入江の外に出る頃に左側に島が岬の陰から見えてきた。

 小さな島だ。それでも人は住んでいる。岬の先端からはそう遠くはなかった。

 島の上には小高い丘が緑を茂らせて乗っており、湖の対岸を背景に緑が映えた。今日は曇っているが、晴れていればもっと緑はきれいだったかもしれない。

 その島までの航海はわずか数十分、しかし、その間ずっとシモンは船の中で胸の十字架を両手で持って、「天使祝詞アヴェ・マリア」を日本語で唱え続けていた。しかも、その手は震えている。

「何をそんなに震えているのです?」

 思わず私が声をかけた。

 私の声が大きかったのか、シモンは例の船頭の男の様子を気にしながら声を落とすように身振りで示してきた。

「何も恐がることはないではないですか。この琵琶の湖とよく似たガリラヤの湖を使徒たちが船で渡った時に嵐に遭い、船は沈みそうになりましたけれど、イエズス様は言われました。『汝らの信仰いづこにあるか』って。どんな嵐でも怖がることはありません。イエズス様がお守りくださいます。イエズス様の名のもとに三人以上の人が集えば、イエズス様も必ずそこに一緒にいてくださると、イエズス様もそう言われています。『二、三人我が名によりて集まる所には、我もその中に在るなり』と。しかも今は嵐でも何でもなく、空は曇っているけれど、湖の湖水は穏やかではありませんか」

「いえ、ほういうことやあらへんのどす」

 シモンは私にさらにそばに来るように手招きし、私の耳元で、

「あの男は警固衆けごしゅうどす」

 と、言った。私も驚いた。これまでただの漁師だと思っていたのだ。

 警固衆けごしゅうといえば海の交通、ここでは湖だが、それを抑える役目の武装集団だが、実質上は海賊ピラテリアだと考えてもよい。

 私の脳裏に、あの瀬戸内海での海賊との遭遇や、とりわけ堺の港に入る時の海賊との壮絶なバターリャ(バトル)のことが蘇り、震えあがる思いだった。

 私はすぐにそのことを、オルガンティーノ師にイタリア語で告げた。オルガンティーノ師の顔色も変わった。

「そう、たしかにこの島には警固衆ケゴシューがいると聞きました。信長殿は領内のすべての関所は廃止し、通行税を取ることは禁止しましたけれど、この沖の島だけは例外として許され、湖を行く船から交通税をとっていたはずです」

 そうなると、我われはとんでもない所に行こうとしているのかもしれない。シモンが震えていたのも無理はない。

 しかし、その島へ行こうと言い出したのはシモンだったはずだ。まさか海賊の船に我われが乗ることになるなどとは、シモンとて想定外のことだったのだろう。

 すぐに島に着いた。港はまるで海辺の港のような本格的なもので、湖に浮かぶ島の港というような感じではなかった。

 果たして我われが港に着くと、船頭の男が発煙筒のような物を口で空に向かって吹いた。その音と煙が出たすぐそのあとに、港に武装した男たちが十数名も現れて、我われの入港を待ち構えていた。

 我われは促されて無理やり上陸させられた形となった。神学生たちも恐怖のあまり、船の上に座りこんでなかなか立てずにいる者さえいた。それでも何とか全員船から降りると、武装した男たちはさっと我われを取り囲んだ。手には刀や槍、中には銃を持っている者もいる。

 その中の頭目らしき男が、我われの前に立った。

「これはこれはバテレン様方、我が島にようおいでやした」

 話している内容は慇懃だが、あくまで我われを見下すような威圧感を感じさせた。その前に、オルガンティーノ師は立った。

「わざわざ船で送ってくださいましたこと、かたじけなく存じます」

 オルガンティーノ師は日本語でそう言ってから、そばにシオンを呼んだ。それからまた頭目の男を見た。

「船でお送りいただきましたので、船賃をお支払いしたいと思いますが、どなたに支払えばよいのですか」

「おお、わしはこの地の警固衆のおさや。わしに支払わい」

 そこでオルガンティーノ師は、シモンに小声で聞いた。

「普通、船賃はいくらくらいですかね?」

「まあ、永楽銭が二、三枚というところどっしゃろ」

 それならゴアの通貨のタンガが二、三枚といっしょだ。

「では我われは学生二十八人を含めれば約三十五人おりますから、永楽銭百枚というところですね」

「いやいやいや」

 頭目の男は、突然に目を向いた。

「ほれはふつうの時のことや。今は皆命からがら安土より逃げよるときやろ。いつもと同じでは割に合わん。ほやな、あの荷物の半分もいただこか」

 頭目が目線を向けたのは、我われの荷台車で、そこには高価な銀の装飾品や聖具、じゅうたんなどが箱に入っている。あれを取られたらたまったものではない。

 だが、彼らの目的は最初から我われの財宝を奪うことにあったことは、もうこの時点ではすでに明らかである。それでも、オルガンティーノ師は一応抗って見せた。

「いくら非常のときとはいっても、あまりにそれは法外ではありませんか」

「まあまあ、おかしら、ちょっとお待ちやす」

 そこでしゃしゃり出てきたのは、我われをここまで乗せてきた船のあの船頭であった。

「たしかにあの荷物の半分では、バテレン様方も難儀なさりまっしゃろ。ここは金子きんす三十両ほどでどうどっしゃろな」

 彼もこの盗賊たちの一味であるはずなのになぜ我々をかばうようなことを言うのか、その心の中は全く見えなかった。ただ、頭目が、

「ええやろ」

 と、あっさり承諾したところから、最初から何か示し合わせがあったに違いないことは明白である。

 だが三十両リョーといえば百五十クルザードほどにもなり、それでも十分に法外な請求であった。

「いいでしょう」

 オルガンティーノ師もまたあっさりとしたものである。それから我われにポルトガル語で、

「今は我われの命と、聖具を守ることが優先です」

 と、手短に言った。そして銀塊を三十両分出して、頭目に渡した。

 そのあと、我われは全員が武装した男たちに武器で脅されて連行される形で、港の周りの集落のはずれにある粗末な建物に押し込められた。

 入ってみるとそこは異臭を放つ馬小屋であった。床は土間で、藁が散在している。つながれた馬と馬の間に我われ総勢三十数名は押し込められることになった。もう、ひしめきあっているという感じだ。

「イエズス様も、このようなお所でお生まれになったのですね」

 土の上に座りながら、オルガンティーノ師はつぶやいていた。そして見渡すと、同じ建物の中に木の箱がいくつもあるのに気がついた。どうやら盗賊たちが盗んできた盗品をここに保管しているらしい。

 入り口に特に見張りが立っている様子もなかった。このような小さな島だから、たとえここを逃げ出したとしても逃げようがないということで特に見張りも立てていないのかもしれない。

「とにかく、聖具を守りましょう」

 オルガンティーノ師がそう言ってからしばらくは様子をうかがい、落ち着いたような感じがしたので神学生たちに指示して我われの荷物を盗賊たちの盗品の箱の陰にすべて隠した。一度は銀三十両で話は着いたが、彼らが我われをこのようなところに押し込めたということは、また必ず我われの荷を奪いにやってくるに違いないということは予想できたからだ。

 箱の中は価値のあるものも多いが、何よりもかつてヴァリニャーノ師がもたらしてくれたものであるという精神的価値も高い。だがそれは別として、盗賊たちはそれらの物質的価値を狙っているはずだし、最悪の場合は我われを皆殺しにすることさえ彼らはやりかねない。

 やがて外は雨が降り出した。

「わしはとりあえず我がに帰ってきます。そしてなんとかお救いできるよう、策を講じてきますさかい」

 そう言って、シモンは一度外へと出ていった。その日は、特に盗賊たちは我われに何か言ってくるでもなく、日は暮れていった。

 暗くなってから、雨もようやくやんだ頃、物音がして小屋の扉が開いた。

 シモンともう一人、若者が大きな箱を持って入って来た。

 若者はシモンの息子のトマスで、神学校セミナリヨの学生たちとだいたい同じくらいの年齢だ。急を聞いて安土に駆けつけて来たシモンの留守を守って、彼はこの島の自分の家にいたらしい。

 箱の中は人数分の握り飯だった。

 我われは朝から何も食べていなかったので、これはありがたかった。

「バテレン様。この小屋のすぐ裏は山どす。夜のうちに荷台の荷物を山の中に隠しましょ。せがれの仙太郎センタローが案内しますさかい」

 仙太郎とはトマスの日本人としての名前だ。それを聞いたオルガンティーノ師の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。感動のあまりむしろ言葉が出ないようで、目を閉じて手を組み、オルガンティーノ師は『天主ディオ』に深く感謝を捧げていた。

「かたじけない。礼を言います」

 変わりにフランチェスコ師が日本式に頭を下げていた。そこですっかり暗くなるのを待って学生たち数人とトマスは盗賊の盗品の山に隠していた我われの荷物の箱を出して担いだ。外に人の気配はなさそうだった。トマスと学生たちは荷物を肩に、そっと小屋を出ていった。

 すでに雨はやんでいる。今頃の月は三日月でおそらくもう沈んでいるだろうし、よしんば月のある夜だったとしても、空はまだ曇っている。

 そこで別の学生が松明たいまつを持っていく道を照らすことになったが、あまり煌々と照らして盗賊たちに見つかってもまずい。

 彼らは緊張した様子で、暗闇の中を手さぐりで小屋を出て行った。

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