3
その日は私は都からこの安土までを三時間ほどで到着するという相当な馬の早駆けをしてきたのでくたくたのはずだったが、恐怖と不安とまた疲れ過ぎてかえってほとんど眠れなかった。
翌早朝、こんなときでもミサは欠かせない。学生たちもすべてが参列してミサが捧げられた。ミサの中で司式していたオルガンティーノ師は、そこだけ日本語で信長殿のために祈った。
「『
皆で、
「アーメン」
と、唱和した。
そのミサがちょうど終わった頃である。ニコラオ兄があわてて階段を下りてきた。
「
オルガンティーノ師はじめ、一階の広間にいた私たちは一斉に三階まで上がった。三階の窓から見ると、この
「あのあたりは信長殿の家来たちの屋敷が並んでいるあたりだな」
と、オルガンティーノ師が近くの煙を見ながらつぶやいた。
「もう、明智の軍勢が来たのですか?」
フランチェスコ師の問いに、状況を実際に見てきた私は、
「それはあり得ません。橋のないあの川を軍勢が渡るのは無理です」
と、否定した。だからといって湖から来たのだったら、まず城を焼く前に港から上陸して、軍勢は城まで町の中を行軍するはずである。
「おそらくは」
オルガンティーノ師が遠くの煙を見ながら厳かに言った。。
「信長殿の家来の誰かが明智側に寝返ったのでしょう。そういったときに自分の屋敷に自ら火を放つのは、日本ではよくあることです」
そうなると、誰なのかが問題になる。そしてその火災で町中の人々が昨日に増して
「あれは」
日本人のヴィセンテ兄が我われの背後から窓の外をのぞきこんでいた。
「信長殿の家来の中でも中心となるような存在だった
聞いたこともないような名だったし、それよりも我われはまずは神学生たちの身の安全を確保しないといけない。『
「とにかく急いだ方がいい。持って行けるだけの祭具、
オルガンティーノ師の指示だ。
それからは大忙しだった。聖堂の祭壇の装飾や十字架、御絵、香炉、燭台、畳の上に敷かれたじゅうたんなど、皆で手分けしてそれらを箱に詰め、荷台に乗せた。
「みんなまとまってでなくてよい。準備のできた人からそれぞれ港に向かって走っていくように」
オルガンティーノ師の声が響く。それは、人々の笑いをもたらすいつもの陽気な声ではなかった。
そして留守番として日本人のヴィセンテ兄と何名かの同宿の少年が残ることになった。神学生たち二十八人は全員連れて行くことになっている。
我われはいつものスーダンの上に日本の
まずは最初にオルガンティーノ師と、学生たちを引率する私とが
次にアルメイダ兄が荷台を引き、ニコラオ兄がそれを押して出発した。
町の中はすでに強盗が横行している。家財道具をまとめて自分の実家へと避難しようとしている人々を襲っているのだから、街上あっちこ地で怒号や鳴き声、叫び声などが充満していた。そのような中を港へ向かうのは至難の技だった。
織田信長というたった一人の人間が死んだことによって、世の中はこんなにも大混乱に陥ってしまうのだ。
我われ二司祭と二修道士は荷物とともに無事に、そしてわりと早くに港に着いたが、そのほかの司祭や修道士たちは待てど暮らせどその姿を見せなかった。
我われを島まで案内してくれると言っていた
しばらくしてからフランチェスコ師が息を切らせながら走って来た。彼は白いスーダンのままだった。
「ひどい目に遭った」
着くや否やフランチェスコ師は肩で息をしながら、膝に手を当てて前かがみに立っていた。
「賊に襲われた。銀の塊を持っているだろうから出せというのだけれど、私が持っていないと言うと、私の袖とかを探りだしてそこに入れていた祈祷書を奪われた。銀塊だとでも思ったのでしょう」
「あのラテン語の本を奪っても、彼らには読めないでしょう」
オルガンティーノ師がそう言うので、私は、
「おそらく売ろうという魂胆でしょうな。珍しいものだから高く売れると見たのですね」
と言っておいた。その時、
「
と、叫び声が走って来た。見ると、上半身裸だが顔はまぎれもなくペレイラ兄であった。泥だらけで、顔には
「どうした?」
心配のあまりに声をかけたオルガンティーノ師の前まで来ると、ペレイラ兄はその場に座り込んだ。
「やられました。私が道を間違えて、あわてて港を探していたところをとり囲まれました。着物はすぐにとられて、彼らはスーダンをも取ろうとしたけれどボタンのはずし方が分からなかったようで、前後に引きちぎられて持っていかれました」
「けがは?」
「少し殴られましたけれど、大丈夫です」
「命があっただけ、感謝しないといけない」
オルガンティーノ師がペレイラ兄にそのようなことを言っていたとき、背後から太い声で、
「おお!
と声をかけた者がいた。いかにも船に乗っているような感じの男だ。その声に反応したのはシモンで、留吉というのはシモンの日本での名前らしい。だが当のシモンは、その男を見るやあからさまに顔を曇らせた。だが男はお構いなくシモンのそばに歩み寄る。
「島へ帰るんけ? まあ、明智が来やがるさかい、みんな国へ帰りよる。われも帰るんなら、わしの船に乗らんけ?」
訛りはきついが何となく分かるので、私もオルガンティーノ師も目を挙げた。だが、シモンは我われに目配せをしてかすかに首を横に振っている。それが何を意味するのか、よく分からない。
「おや?」
男は、我われに気づいたらしい。
「バテレン様たちでおまんな。そういやあ、われはキリシタンになったいうな。ほな、バテレンさんがたもみんなわしの船に乗るとええ」
「この者たち全員が乗れますか?」
オルガンティーノ師が、神学生の少年たちを示した。
「おおよ。わしの船は大きいんや」
豪快に男は笑っていた。
「では、お願いしましょうか。いや、ありがたい。これも『
シモンは何か言いたそうだったが、我われに耳打ちしようと近づくと男がキッと睨むので、それもできずに我われに付いてきていた。
全員の乗船が終わった。船は港とつないだ縄をはずし、帆をあげた。ちょうどいい風だった。空はどんよりと曇り、今にも雨が降りそうだった。
すぐに船は港を出た。振り返ると山の上にそびえ立つ城の天主閣が我われを見降ろし、その近くの屋敷の黒煙はまだ登り続けていた。ここからは入江の左の岬の陰になって、島は見えない。そもそも、安土の町から見ると、天然の堤防のような細長い陸地が外の湖を隠しているから天主閣にでも登らない限り外の大湖は見えないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます