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 私は礼を言って橋を渡り、そのあとは信長殿によって整備された幅の広い街道を全速力で馬を走らせ、安土に着いたのはちょうど昼頃だった。

 普通なら朝出て夕方にやっと着く都から安土の距離を、わずか三時間余りで走破してしまったのである。さすがに馬も疲れているようだった。しかし、私も疲れた。崩れるように神学校セミナリヨの玄関を入ると、私の突然の帰還に驚いているオルガンティーノ師たちに、

「大変です。都で一大事です!」

 と、まずは思わずイタリア語で行ってしまい、ポルトガル人の修道士たちもいるのでもう一度ポルトガル語でそのことを叫んだ。

 それから私は、床の上に座り込んだ。ペレイラ兄が持ってきてれくれた水を一杯飲み、そして目を挙げ、オルガンティーノ師をはじめフランチェスコ師や修道士たちを見た。

「信長殿が、殺されました」

「え?」 

 オルガンティーノ師は眼を見開いたまま、しばらく言葉が出ないようであった。フランチェスコ師は、

「なんと……」

 と、一言だけ言った。

「信長殿が、殺された」

 と、私は今度は日本語で、日本人であるヴィセンテ兄に同じことを告げた。彼は黙って首を横に振っていた。

「どういうことですか? 誰に? 詳しく!」

 ようやくオルガンティーノ師が口を開いた。

「あの明智殿が謀反を起こして、信長殿を殺しました。今朝早く、いきなり大勢の軍勢で都にやってきて信長殿の本能寺の屋敷を襲撃したのです。そこで信長殿は……」

「信長殿は?」

「亡くなりました。殺されたのです、明智に」

 私はまだ肩で息をしながら、とぎれとぎれではあるがそれだけのことを告げた。その場の空気が凍りついた。

 フランチェスコ師も驚きの表情のまま固まっていたが、しばらく間をおいてから、

「教会は?」

 と、尋ねてきた。

「無事です。屋敷は爆発しましたが、周りの家屋への延焼はありませんでした。教会も無事です」

「爆発?」

 オルガンティーノ師は一瞬怪訝な顔をしたが、とにかく教会が無事と知って一同は安堵の胸をなでおろしていた。

「ヤスフェは? いつも信長殿といっしょにいたけれど」

 そう尋ねられて、私はオルガンティーノ師を見た。

「ヤスフェは無事です。一度は敵に捕らえられましたけれど解放されて、今では教会にいます。信長殿が亡くなった時の詳しいことなどは、すべてヤスフェを通して我われは知ることができたのです」

 オルガンティーノ師はため息をついた。

「この国は内戦状態にあっていつ何が起こるか分からないし、家臣が主君を殺すということも珍しくないけれど、まさか信長殿がそのようなことになるなんて」

「そうなりますと、我われ修道会にとっても一大事ですね。信長殿の庇護のもとにこれまで宣教活動を続けられた」

 フランチェスコ師も心配そうだ。オルガンティーノ師も、いつもの明るさは消えている。

「それもそうだし、また日本の国全体がどうなっていくのかも分からない。この安土の城と町もどうなるか」

「今、琵琶湖から流れる川にかかっていた大きな橋は焼き落とされているでしょう。だからしばらくは明智殿はこの安土に来られないとは思いますが、やがて安土をも占領しに来るのは時間の問題でしょう。学生たちも心配です」

 私がそう言うと、オルガンティーノ師もうなずいた。

「彼らはこの近辺の殿トノの子息も多いし、親が武士サムライである者が大多数です。世の中が動くとすれば、彼らの実家も大きな渦に巻き込まれるでしょう」

「でも、まずは彼らを守らなければならない」

 私がそう言っているうちに、もう外が騒がしくなり始めた。見に行かせたシマン・デ・アルメイダ兄が戻ってくると、もう安土の町には信長殿が亡くなったという情報は伝わってきているらしい。

 今朝の都での出来事が、昼にはもう安土に伝わっているのである。人々は口々に明智が来たら安土の町は焼き払われると噂し、家財道具をまとめて逃げ出す者たちで町中が大騒ぎになっているという。

 中には家財道具はあきらめて、身一つで駆けだしていく人々もあふれ、それらが狭い町中でぶつかりあい、叫び声が上がり、子供たちは大泣きしてひどい混乱状態だという。

「もう、まるで世の終わりの最後の審判の時を迎えようとしているかのようです」

 と、見てきたアルメイダ兄はそう報告した。そこへ次々に町の日本人信徒たちクリスティアーにも教会に押し寄せてきた。

 オルガンティーノ師はまず神学校セミナリヨの学生たちを落ち着かせるよう指示し、午後の授業は中止としてとりあえず教室で待機という旨を伝えさせた。

 そして司祭と学生についている修道士以外の修道士、そして町の信徒たちクリスティアーニも加え、神学校セミナリヨの広間で今後の身の振り方について話し合うことになった。

「まず、このままここにいたら危ないです」

 そう言いだしたのは、信徒クリスティアーノの一人の若い男だった。自宅で何かものを作っている職人のようだ。

「たしかに」

 それは、我われ司祭団とて同意見だ。

 口に出してこそ言わないが、この神学校セミナリヨにはこの国の人たちにとっては珍しいものと思われる財宝がある。だが、それよりも何よりも、国の宝ともいえる多くの青少年たちを守らねばならない。

瀬田セタの橋を焼いたとはいえ、いつかは明智はこの安土に来るでしょう。そうしたら町は焼き払われ、あちこちで略奪が行われるのが世の常です。城にも近いこの神学校セミナリヨはいちばん危ない。信長殿の重要な家来たちは皆遠い国で戦争の真っ最中で、おいそれとは戻ってこられないでしょう」

 オルガンティーノ師があまりにもゆっくり話すので、フランチェスコ師は少しいらいらしているようだ。

「ここで話し合いなんかしている場合ではない。とにかく逃げましょう」

「逃げると言ってもどこへ?」

 オルガンティーノ師に言われて、誰もが口をつぐんでしまう。あてがない。都へは瀬田の橋が焼かれているであろう以上、行かれない。ましてやその向こうの高槻はもっと無理だ。どこへも逃げようがないのだ。

 沈黙が漂った。

「あのう」

 そこへ一人の信徒クリスティアーノの、少し年をとった男が口を挟んだ。

「わしのある沖の島ならどうやろか。とりあえず隠れるにはちょうどええほんな」

「そや、ほこならしばらくは安心や」

 日本人の信徒たちクリスティアーニはみな口々に賛成した。

「ぜひおいでやす」

 少し年をとった男とはシモンという名で、漁師だと聞いていた。毎週日曜日には船で安土まで来ているという。

 今日は日曜日ではないが、急を聞いて慌てて島から駆け付けてきてくれたようだ。

 オルガンティーノ師は眼をつむっていたが、やがて眼を開けて人々を見渡した。

「そうですね。それしかありません。シモンもそう言ってくれていることですし。『天主デウス』に感謝します」

「でも、船は?」

 ヴィセンテ兄がそう言った。

 沖の島というのがシモンの住む島の名前らしいが、名を聞くのは初めてだった。説明を聞けば沖の島はこの湖上に浮かぶ島で安土からも近く、陸地からも離れてはいないという。だが、安土は湖の入江の奥にあり、島はその入江の左側の岬の陰になるので安土からは見えないのだということだ。

「わしの船は漁船ですさかい三人くらいしか乗れへんけど、港まで行けば大きな船もありまひょう。何とかなりまっさ」

 シモンがそう言うので沖の島行きはほぼ決定となった。

 私はオルガンティーノ師から言われて、明日この神学校セミナリヨを離れて沖の島へ移るということを学生たちに告げた。学生たちの動揺は凄まじかったが、彼ら全員を納得させるよりも今は一刻も早くこの安土から離れる方が先決だということを、私も含め司祭団も修道士たちも皆実感していた。

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