3
ヤスフェは我われの横に入り口を背にして座ったので、我われも座る向きをヤスフェの方に変えた。
「元気だったかね」
私は座ったまま、ヤスフェの手を取った。
「はいお蔭さまで」
「去年以上に
髪もすっかり伸び、きちんと
「
カリオン師は、私がヤスフェを紹介するのを笑って手で制した。
「毎週
「ほう。ちゃんと日曜日には休みがもらえるのかい」
「上様の特別なお計らいです」
ヤスフェは洗礼を受けて
服装もしっかりとこの国の
「では、お送りせよとのことですので、話は歩きながらでも」
物腰も、すっかりこの国になじんでいる。そのヤスフェに先導される形で、我われは天主閣を出た。
黒金門を出て、大手への石段を下る。本当ならばこの足で信長殿の嫡男の
彼が今は織田家の
かつて安土の
「
と、歩きながら不意にヤスフェが言った。カリオン師にだ。ヤスフェは隣の部屋で、我われの会話は全部聞いていたようだ。
彼は今信長殿の
「いや、それは私も今はそう思う。あのときは調子に乗っていた」
カリオン師もヤスフェに指摘されてばつが悪そうだった。
「まあまあ、
私は何とかカリオン師を弁護しようとした。
「信長殿が心配しているように、イスパニアがインカを滅ぼしたようにはこの国に軍事的攻撃を仕掛けてくることはできないのだし、信長殿もそれで我われを誤解することもないだろう」
「まあ、それはあなたの
「私はポルトガル人ではないのだから、そんなに気にしなくていいですよ」
さらに私は笑顔をカリオン師に向けた。だが、ヤスフェの表情はいつしか固くなっていた。
「上様は、そんなことを心配なさっているのではない。上様はイスパニアやポルトガルがこの国を攻めてくるなどということはお考えになっていませんよ」
城中は結構
ただ、聞き取れてしまうであろう「
「上様はご自分がコンキスタドールになろうとされている。上様にとってのインカやアステカはシーナの
私は言葉を失くして思わず足を止めそうになったし、カリオン師も初めて聞くことらしい。
あくまで他国の政治向きのことだから我われがどうこう思うべきことでもないし、口をはさむことでもない。ただ、心配なのはこの国の民と明の民だ。信長殿の野望は、それはそれでぞっとする話だ。
「
「ごく一部の人にしか話していないようです。それでも十分に波紋は広がっています。やっと訪れようとしている平和な世の中なのに、わざわざ外国へ行って戦争をする必要はないし、迷惑を受けるのは自分たちだとひそかに言っているものもいます。もちろん、信長殿に直接そのようなことを言ったものの首は胴体から離れるでしょう。でも、家来たちにとってはそうなったら一大事です」
なるほどそうかもしれないと思うが、こればかりはその時になってみないと分からない。果たして「その時」が来るかどうかも分からない。
それにしても、信長殿の考えていることのスカーラ《(スケール)》の大きさには我われは舌を巻くばかりだった。
その日の夜、
ドミニコ会のラス・カサス師というスパーニャ人司祭が書いた「|Brevísima relación de la destrucción de las Indias《インディアスの破壊についての簡潔な報告》」というあの本だ。
日本を離れる直前に、ヴァリニャーノ師がそっと私にくれたものだった。
私はまだ完全に解いていない荷物の中から、ようやくその本を見つけた。そして恐る恐る表紙を開いた。中はスパーニャ語で書かれていたが、ポルトガル語が分かればスパーニャ語は何とか読むことはできる。
そしてそこに書かれているのは、戦慄の内容だった。コンキスタトーレに率いられたスパーニャの兵士が、かのインカの地でどれだけのことをしたか……。最初の方こそインカの地とそこに住む人々、この本では「インディオ」と称される人々の様子が記され、それはさしずめ我われの会が総長に送る報告書のごときものであった。しかし、わりと最初の方で内容はすぐに衝撃的になる。
「イスパニア人たちは前に述べたような資質を『
そのあとで、エスパニョーラに限らずジャマイカ、キューバ、ヌエヴァイスパニアなどの土地の惨状が記されているが、中でも悲惨なのがやはりエスパニョーラ島であった。
そこで兵士たちは競って原住民をいかに一撃で真っ二つに斬れるかとか一気に首をはねることができるかなどを遊戯のようにして楽しんだという。
そして乳飲み子を持つ母親からその赤子を取り上げ、母親の目の前でその赤子の足を持って頭を岩に叩きつけた。
また、幼い子供を川に突き落とし、その母親の背中を刺してともに川に放り込んだりもした。
さらにはイエズス様と十二人の使徒を崇めるためと称して十三人の首を絞首台に吊るし、下から火をあぶり、生きたまま全身を焼いたりしたことも記載されている。
まさしくそこに描かれているのは地獄の様相だった。
地獄で悪魔にさいなまれる亡者たちが原住民であるが、その悪魔というのがなんとすべて
そのような話が次から次へ、延々とその本には記されていた。
私は読み進めるうちに、体の震えが止まらなくなった。読まなければよかったとも思った。嘘だろう、嘘に決まっていると自分に言い聞かせたりした。
これは作り話だ、あり得ない話だと何度も思おうとしたが、それにしてはこの本の内容はあまりにも生々しく、そして衝撃的だった。
原住民たちは災いを逃れて山に逃げ込んだが、スパーニャ兵士は猟犬を使って隠れている原住民を狩りだし、見つけ次第次々にその場で八つ裂きにしていったという。
こうして何百万人もの原住民を虐殺したスパーニャ人であったが、何よりも身の毛がよだつのは、彼らの口実である。
彼らは言った。「キリストの教えを受け容れ、カスティーリャ国王に服従せよ。さもなくば情容赦なく戦いをしかけ、殺し、また捕らえるだろう」と。
イエズス様が言われた「全世界を巡りて、すべての創られし者に福音を宣べ伝えよ」というみ言葉を、スパーニャ人たちはそのように解釈したのである。
そして手始めは金銭の強奪だが、それよりも先に原住民の村々で「われらは『
ある日突然やってきた人々のそのような脅しに原住民がすぐに従うはずもなく、そうなると村に火が放たれた。女子供を含め大勢の原住民が生きたまま焼き殺されたとあった。
つまりコンキスタドールとは残酷な暴力による侵略にほかならず、それは『
ただ残忍な暴力で侵略したというのならまだしも、彼らが侵略の道具として利用したのがキリストの教えであった。
キリストの教えに従うのならスパーニャ国王に従うことになるという図式を編み出し、拒否すれば残忍な虐殺が待っている、つまりその口実にキリスト教が使われたようなものだ。
これらはすべて著者であるラス・カサス師がその目で実際に目撃したことばかりなのである。
さすがに聖職者であるカサス師はキリスト教徒であるスパーニャ兵のあまりにも人間業とは思えない残忍な行動に我慢ができず、この本を著したのだろう。
私は読み終わっても、しばらく意識は宙をさまよっていた。ヴァリニャーノ師はなぜこの本を私に渡してくれたのだろうか。キリスト教が侵略の口実になっている現状を認識し、日本ではこうならないようにせよという忠告なのか……。
しかし、実際に我われ宣教師は武力侵略のお先棒を担いでいるという見方もあったし、私もそのような言われ方をしたこともある。
その時私は痛くもない腹を探られたような気持ちでいたけれど、こうなると他人ごとではない。スパーニャがもし矛先を日本に向けたら日本もこうなるぞという忠告なのか……今はヴァリニャーノ師の真意を確かめるすべはない。
私はこの国で、こういった地球の裏側での出来事を知った上でどう福音宣教に従事していくか、それを考えていかなければならないとぼんやりと思っていた。
その時、
「
と叫ぶ修道士の声があった。私を呼んでいるらしい。
ほぼ満月の月明かりに照らされた外の路上に出るとオルガンティーノ師もカリオン師も、すでに
そうやって表に出たのは我われ
空の低いあたりが真っ赤だった。しかも、うすぼんやりとではあるが、赤く光っている。一瞬、火事かとも思ったけれど、火事にしてはあまりにも低い空の大部分に赤い
「おお、これは一体どんなみ意のお示しなのだろうか」
オルガンティーノ師も真顔で、その赤い空を眺めてつぶやいていた。カリオン師などはただ言葉を失くしていた。今や町中の人々が全員戸外に出て、騒ぎながらこの点の異変を見ていた。
「これは災いの前兆でしょうか、それとも栄光の祝福でしょうか」
私がオルガンティーノ師の横顔につぶやくと、
「いやあ、分からない」
と、その横顔は言った。そこに、ほかの修道士に介添えされながらロレンソ兄も出てきた。出てきたところでロレンソ兄には何も見えないであろうが、皆が騒いでいる気配は察したらしい。
「何があったのですか」
見えない目を空に這わせていたロレンソ兄のそばに、カリオン師は寄った。
「空が赤いのですよ。山の上の低い当たりが一面に」
「ほう」
ロレンソ兄は少し目を細めた。
「
その聞きなれない単語に、私を含め三人の司祭は一斉にロレンソ兄を見た。
「ここよりもずっと北の国では、夜に空の一部が赤く輝くという現象が見られたと大昔の記録に書いてあるそうです。もちろん、私が目が見えていた頃でも、一度も実際には見たことはありませんが」
私もリスボンからゴアに向かう船旅の中で、船員からこのような現象の目撃体験の話を聞いた。だがそれははるか北の方、
その船員の話ではこのような赤一色ではなく、緑や黄色などさまざまな色合いの光の
今回はそんな大げさなものではないが、人々の目を驚かせるのには十分だった。
「日本では昔からこの赤気が出たら、政治的異変や上に立つ重要な人の死の前兆だと考えてこられたようですな」
ロレンソ兄が、もう一度そうつぶやいた。もう夜も十時を回っているだろう。赤い光は消えそうもなかった。
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