Capitolo 6 本能寺の変(Incidente di Honnoji)

Episodio 1 コンキスタドーレスへの危惧(Azuchi)

1

 私が安土に到着したのは、ヴァリニャーノ師が日本を去ってからひと月近くたった頃だった。

 長崎ではミゲル・ヴァス師やアルメイダ師に見送られ、二名の修道士とともにとりあえず船で長崎をあとにし、有馬に着いた。

 有馬ではジェロニモ・ヴァス兄という私と同世代のポルトガル人の修道士と合流し、とともに安土を目指すことになった。ヴァリニャーノ師の出発間際に、都布教区の高槻の教会への配属を命じられたとのことであった

 我われはまずは伊予の国に渡り、今度は馬で陸路を東に進んで、阿波から再び船で堺へと渡った。決して順調な旅ではなかったが、以前の船旅に比べたら難はなかったといえる。またヴァス兄が気さくでよくしゃべる人だったので、道中の馬上での退屈はなかった。

 ただ、堺でも、高槻でも、そして都でも、決して冷淡に迎え入れられたというわけではないが、以前にヴァリニャーノ師とともに来た時とは何か勝手が違っていた。

 供給された食事も、すでに四旬節クアドラジェシマに入っていたから質素だったということもあろう。だがそれだけでなく、以前は巡察師ヴィジタドールとしてのヴァリニャーノ師を歓迎するという趣旨でどこででもにぎやかに出迎えてくれた。

 今度はただの司祭と修道士だ。勝手が違って当たり前だ。

 高槻ではフルラネッティ師のほかに、かつて都にいたセスペデス師がいてここで再会した。

 都にはジョバンニ・フランチェスコ師という私と同じローマ生まれという司祭が一人でいた。年は私よりも十歳くらいは年長の四十代のようだった。フランチェスコ師は私と同名、同出身地というにもかかわらず、そのことをとりわけて驚いたり喜んだりしている様子はなく、一通りの親愛の情を見せてくれただけだった。

 そうして都でフランチェスコ師に見送られながらも高槻へと戻る形になるヴァス兄とも別れ、修道士たちとともに安土に入ったのはすでに三月。

 厳しかった冬を終えて、ようやく少し春めいてきている頃だった。街道の道端には、時折黄色い花が咲き、蝶が飛ぶのも見えたりした。


 思えば約半年ぶりの安土だ。街道の行く手の丘の上にそびえる巨大な安土城天主を目にした時、帰ってきたと思った。

 城下に入っても、活気のある町のたたずまいに心持ち着く。正確には町というよりも、春の日差しの中の湖とその周りの山々の風景に懐かしさを覚え、心が安らいでいたのかもしれない。

 そして、街並みの中に神学校セミナリヨの青い瓦屋根と十字架が見えたときは、思わず馬を走らせたくなるような衝動に駆られた。

「おお、おお、おお、おお」

 神学校セミナリヨに入ると、満面の笑みでオルガンティーノ師は迎え入れてくれた。

「いやあ、ご苦労だったね。そしてこれからはここで一緒だ。そう巡察師ヴィジタドールからも手紙をもらったよ」

 会話は何のためらいもなくイタリア語だった。今まではとにかくヴァリニャーノ師のそばを離れなかった私だったが、これからはオルガンティーノ師が私の直接の上長となる。しかも、今までのようなあらたまった口調ではなく、砕けた感じで、オルガンティーノ師自身が私に

「これからはTuで話そう(砕けた口調で話そう)」

 と、言ってくれた。そして、にこやかな笑顔でいたわってくれた。

「まあ、今日のところはゆっくりお休みなさい。四旬節クアドラジェシマだから歓迎の宴はできないけれど、すぐに食事になる」

「ありがとうございます。皆さん、お変わりありませんか」

「『天主ディオ』の御加護で、とても順調に暮らしているよ。まあ、早く中にお入りなさい」

 そう言われて私はとりあえず荷物を解くと、神学校セミナリヨ内の礼拝室で到着の祈りをささげた。

 オルガンティーノ師はしばらく休めと言われたが、私はとにかく信長殿に会いに行きたかった。まずは挨拶をしないとまずいだろう。

 その旨をオルガンティーノ師に告げると、早速に修道士を城に走らせて、アプンタメント(アポイントメント)を取り付けてくれた。

 ここで私を温かく迎えてくれたのはオルガンティーノ師ばかりではない。前にともに播磨まで旅をした日本人の老修道士のロレンソ兄も、目が不自由ながらも以前と変わらぬ笑顔を見せてくれた。

 そして、かつてマカオでともに叙階を受けたスパーニャ人のフランシスコ・カリオン師も都からこちらへ異動となっていた。互いに再会を喜んだのは言うまでもない。

 カリオン師は私よりほんの少し若いが、ほぼ同世代といえる。だがそれだけではなく、やはり同期というのはどこか永遠につながりがあるものである。私は長崎でミゲル・ヴァス師やサンチェス師、アルメイダ師に会ったことも話した。

「いやあ、私も会いたいです。お元気でしたか」

 今の高齢のアルメイダ師の様子で元気というのははばかられたが、とりあえず元気だということにしておいた。

「いつかラグーナ神父パードレ・ラグーナも含め、六人がそろって会いたいですね」

 と、カリオン師は言う。私も笑顔でそれに同意しておいたが、今ではミヤコ布教区とシモ布教区、豊後ブンゴ布教区とみなばらばらに散っているので、その提案の実現は難しいと感じた。だが、あえてそれは言わなかった。

 他にも修道士は何人かいた。その中の一人、シマン・デ・アルメイダ兄は先ほども話題に出ていたアルメイダ師と同姓なので親しみを感じたが、老人のアルメイダ師とは世代が違いすぎる二十代の若者だった。

 若者といえばもう一人、ジョバンニ・ニコラオ兄は今度は私と同名で、しかもナポリ出身のイタリア人だった。鼻筋の通ったいい男の二十代だ。そしてペレイラ兄は三十代、ヴィセンテ兄だけが四十に達する日本人だった。

 

 信長殿との会談は二日後、すなわち三月八日の木曜日と決まった。はじめはオルガンティーノ師も同行してくれることになっていたが、当日の朝になってオルガンティーノ師は体調がすぐれないということで、急遽私とカリオン師の二人で登城することとなった。

 出発前にオルガンティーノ師は城の一般的通用門になっている百々橋ドドバシ口からではなく、大手門の方から行くようにと指示した。

百々橋ドドバシ口からの道は、この正月、この国での正月だけれど道の両側の石垣が崩れて、今は通行止めになっているんだ」

 オルガンティーノ師の説明によると、正月におびただしい数の人々、すなわちこの近辺の領主たちが信長殿に新年のあいさつを告げるために一斉に登城したので、その人々が踏みしめる重みで道の石垣が壊れたのだというが、にわかに信じがたい話だった。オルガンティーノ師がいつものお得意のスケールツォ《(ジョーク)》だと思っていたが、どうもその話は本当らしいとカリオン師が脇から口をはさんだ。

 ただ、そうなると、あの仏教のテラの中を通って城に上るというペルコルソ《( ル ー ト )》を通らなくていいことになる。

「それと、今や織田殿は甲斐カイ武田殿タケダ・ドノとの戦争の真っ最中です。もう今はなくなっているとは思うけれど、二、三日前までなら百々橋ドドバシ口から行けば見たくはないものを見なければならなかったでしょうね」

「見たくはないもの?」

「甲斐の国から送られてきた敵の大将の生首がさらされていました」

 その話に私は背筋にぞっとするものが走った。さすがにこの時ばかりは、いつも陽気なオルガンティーノ師も真顔だった。


 神学校セミナリヨから大手門まで安土の町中を我われは歩いたが、落ち着いてから見るこの町の様子に私はいささか感慨を覚えていた。

 去年はあくまで一時の滞在先だった。しかしこれからは、ここが私の町となるのだ。おそらく当分の間、ここに腰を落ち着けることになるのだろう。そうなるともはや訪問者ヴィジタトーレではなく住民になるのだ。

 ただ、町の人々は当然のことこの国の民であることは長崎と変わらないが、長崎の住民は日本人でも皆が信徒クリスティアーノだった。だがこの町では、ほとんどが異教徒なのだ。

 その異教徒の町の真っただ中に神学校セミナリヨはある。それを考えると、少し気が引き締まる思いだった。

 ただ、ここで先ほどのオルガンティーノ師の話を思い起こすと、この国全体が内戦状態の真っただ中なのである。

 しかし、なにもこの時初めて感じたことではないが、内戦の戦場となっているわけではない地域では至って平和だ。今もこの安土は甲斐と戦争をしているというが安土の町そのものは穏やかで、人々はそれとは関係なく日常の暮らしをしている。つまり、見事に秩序立っているのだ。

 エウローパの国でひとたびその国が内戦状態になったら、その国のどの町もこのような平和な状態ではあり得ないだろう。やはりこの国は不思議な国だと、私はあらためて認識した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る