Episodio 8 はためく十字架とヴェズーヴィオ(Kagoshima)

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 翌早朝、快晴のもと、私とトスカネロ兄は馬に乗って、やはり馬上のゴンサーロ・ヴァスの先導で鹿児島へと出発した。

 もう一頭の馬は荷駄を運ぶ駄馬で、その轡取りにドン・ビンセンチオが小者コモノといわれる日本人の少年を三人ばかりつけてくれた。使い走りのような身分の低い使用人である。

 荷物は島津殿への贈り物である。ゴンサーロ・ヴァスの息子のペトロは、ヴァリニャーノ師らと共に留守番だった。

 時刻はまだ九時前で、この時間に出れば夕方の明るいうちに鹿児島には着けるという。まだ真冬ほどではないが、少しずつ日は短くなってきている。気候もだいぶ過ごしやすい涼しさになっていた。

 城の門は南向きなので来た時は西の港からだから門の向かって左の方の道からきたが、出発した我われは門の正面の道を真っ直ぐにまずは南下した。道は真っ直ぐではなく時には東向きになったり南向きになったりとクルヴァ(カーブ)しながら、全体的には南東の方角に進んでいた。

 しばらくは開けた土地を進んでいたが、当然周りは丘陵に囲まれている。それほど高い山は見えず、どの方角も小高い丘の連続だ。やがて森の中を道は進むこともあった。

 土地はいくぶん起伏はあり、道は時々小さな峠道になることもあったがおおむね平らな道だった。馬二頭が並ぶとそれでいっぱいの幅なので、二頭ずつ前後になって我われは進んだ。わずかな平らな土地があるとそこは耕地で、このあたりでは水田ではなくほとんどが畑だった。時にはパッと視界が開けて、集落の中を道は通ることもある。

 我われが通過したいくつかの村はすべて伊集院郷イジューインゴウに含まれ、その集落の一つのはずれにある小高い丘が島津殿の外城トジョーである一宇治城イチウジジョウだった。

 外城とは島津殿の城ではあり、昨夜泊まった市来鶴丸城もそうである。だからここも今は留守を預かる守将がいると思われるが、我われは先を急ぐので通り過ぎることにした。

 ただ、この城は今でこそ外城だが、島津家の先代貴久殿の時はここが島津の城であり、ザビエル師が貴久殿と会見して布教の許可をもらったのもこの城でのことであるとゴンサーロ・ヴァスから聞いた時は、余計素通りするのが後ろ髪引かれる思いだった。

 集落を通り過ぎると道はまた起伏と木々の間を縫って進む田舎の街道となった。山間で握り飯の昼食をとり、さらに進むと確かにまだ午後の遅い時間といえる頃に集落が増えてきた。

 その集落の向こうに、ひときわ高い山が姿を見せるようになった。道はその山に向かって進む形だ。

 この国の山はだいたいが緑で覆われているが、例外的に高い山は草木がない。これまで見た山では雲仙ウンゼン阿蘇アソなどがそうであった。この山も同じように麓以外には草木は見えないので相当高い山だ。

「あや桜島サクラジマですよ」

 と、ゴンサーロ・ヴァスは言った。

「火山です。時々とっどっ火をっ山です」

 そう言われて思い出しのは、雲仙ウンゼン阿蘇アソもそうであったことだ。どうもこの国の高い山は火山であることが多いようだ。まさしく火の国である。

「なぜ山なのに島というのですか?」

 と、私は素朴な疑問をゴンサーロ・ヴァスにぶつけた。

「手前の海を挟んで見っと、島のごと見ゆっとですよ。実際は地続きじゃっどんね」

「手前に海があるのですか?」

 このあたりからはまだ遠く、集落の向こうの遠くにほんの少し頭を出している程度なので、海があるということは分からない。

本当ほんのこちゃ、あん山を鹿児島かごっまといっちょったのじゃっどん、海のこちら側にある鹿児島かごっま神宮の方が有名になって、今じゃ海のこちら側の殿様とのさあの内城のある町が鹿児島かごっまと呼ばれるようになったとです」

 やはり海と言われても実感がわかないので、とにかく早くその海を自分の目で見たいものだと私は思った。


 そうこうしているうちに、すぐに鹿児島の市街地に入った。市街地といっても都の規模にはかなうはずもなく、豊後の府内よりも活気はないように思われた。人も少ない。

 これが豊後や有馬でも「薩摩サツマ」と言って怖れている一大勢力のその中心地かと思うと何か拍子抜けしてしまう。

 やがて、町の真ん中にいくつかの大屋根が見えてきた。

「あれが内城です」

 と、ゴンサーロ・ヴァスが言うので驚いた。それは城でも何でもなかった。ただ申し訳程度の堀に囲まれた屋敷である。堀というよりも溝といった方がいいかもしれない。石垣もなければ櫓もない。当然、天守閣などない。

 形態として豊後の府内の大友館と似ている。だが、規模は少し小ぶりだった。

 さすがに都の本能寺の一角に信長殿が造らせたあの仮の屋敷に比べればましだが実質上は似たようなもので、防御という観点は全くなさそうだった。だからこそ薩摩には他に外城がたくさんあって、すべて殿である島津殿が管理しているようだ。

 我われが馬で近づくと、塀の上に何本も白い旗が立っているのが見えた。

「あの旗は?」

 と、私はゴンサーロ・ヴァスに聞いてみた。

島津様さあの旗印じゃんそ。合戦の時以外はあんごとお屋敷に旗を建つっこちゃせんのじゃっどん、かったバテレンさあ方が今日きゅ到着と聞ちょっので歓迎のために立てておられるのでは」

 ゴンサーロ・ヴァスがそういうのでそうかなと思いながら近づくにつれ、なるほどそうかと確信した。思わず私は、

「おお」

 と声をあげてしまったほどだ。旗にはすべて十字架が書かれている。島津殿は信徒クリスティアーノではないのに、ここまでして歓迎してくれるのかと感動した。まるで高槻のジュストと同様ではないかとさえ思う。

 しかし、やはり信徒クリスティアーノではないだけにきれいな十字架ではなくフデ、すなわち毛筆スッパツォラ・ディ・スクリットゥーラで書いた文字のような十字架だった。

「十字架ですね」

 と、トスカネロ兄も慨嘆の声を挙げていた。私もゴンサーロ・ヴァスの方を見て、

「あれは、十字架」

 と日本語で言った。ところがゴンサーロ・ヴァスは、

「いやいやいや」

 と、笑いながら首を横に振った。

「あや島津家の家紋カモンでござんど。漢字で十の字ですど。キリシタンが伝わうずっと前から島津家ではあれを家紋にしておいもす」

 そう聞くと、少し落胆もあった。つまり我われの用いるエンブレマ(エンブレム)のような家族の象徴ステンマ・ディ・ファミーリアなのだという。

 確かに本来チーナの文字である漢字カンジでは、数字の10(十)は十字架に似ている。

「しかし、世の中は一切が必然であって、偶然ということはありません。これはもしかしたら島津家がいずれ信徒クリスタンになるということを暗示するために『天主デウス様』があの家紋を使わせたのかもしれません」

 そう解釈すると、前途に明るいものが見えたような気がした。

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