Episodio 5 デウスと阿弥陀(Uchinoura di Satsuma)

1

 翌朝、船頭はもうこの港を出発すると言った。宿から港までのほんの短い道を、ルカス夫妻は見送ってくれた。

 やがて夫妻に手を振りつつも船は帆に風を一臂に受けて動き出し、入江の外へと向かって行った。

 それからしばらく、不思議な光景があった。あれほど複雑に入り組んでいた海岸線が、突然見渡す限りはるか前方まで延々とまっすぐになったのである。浜はずっと砂浜だった。そして陸の上の山はあることはあるが遥か彼方に退いた所に山並みは横たわり、かなり広い平らな土地が広がるようになった。日本に来てから、こんなにも広い平らな土地を見るのは初めてだった。それでも視界の終点には必ず山があり、決して地平線を見ることはなかった。

 そんな砂浜が延々と続く単調な海岸に沿って船は進み、やっと小高い丘が海岸近くに見えてきたのはもう夕方近くだった。その丘は岬となって海に突き出し、それを回るとまたもや幅の広い大きな湾になっていた。

 船は湾を横切る形で、湾の向こう側の岬の手前に進んで行った。どうもそこに今夜寄港する港があるようだった。

 今度の港は内之浦ウチノウラというそうで、前日の細島ホシジマよりは開けた感じの広々とした平らな土地があった。

 だが周りの山はこれまで以上に高く、もはや丘という感じではなかった。港にありがちなごちゃごちゃとした様子もなく、あまり活気も感じられなかった。

 この港が、かつてはチーナへ行く船も発着していたと船頭は言っていたが、どうも実感がわかない。

 そしてここはもう、薩摩なのだ。大友殿と敵対する殿が治める国、例えばこれまで毛利殿や長宗我部殿の治める国を通過するときは相当緊張したものだった。見つかるとよくないことになると思ったからだ。

 そういう点では島津殿の薩摩も同じことだが、しかし島津殿はひそかに教会に使いを遣わして面会を要請しているくらいであるから、それほど緊張する必要もないように感じられた。ここは薩摩とはいっても厳密には大隅といい、辺境であって島津殿の城がある鹿児島カゴシマという町からはかなり遠いとのことだった。

 ちょうど夕刻に船は着いたので、我われは上陸して宿へと向かっていた。すると、その宿の玄関でもう我われを待っていた人がいた。今度は前の細島のルカスよりはずっと若い村人風の男だ。

 我われが着くと彼は急いで我われの近くに駆け寄り、日本式に頭を下げてから、

「お待ちしていもした。あたやこん町で船商人あきねたなで働くものでごわす」

 と言った。

「そうですか。どうぞ中に入りましょう」

 たどたどしくヴァリニャーノ師が日本語で言い、彼を中へといざなった。夕食まではまだ間があるとのことで、我われはとりあえず彼の話を聞くことにした。

「私たちが来ること、よく分かりましたね」

 ヴァリニャーノ師が聞いたのは、それだった。

「いつもはめったに来んごっな船が港に着いたちゅうこっで、見に来たら、確かに珍しか豊後船なあ」

 豊後の船も堺の船も我われは皆同じ日本式の船で見分けがつかないが、現地の日本人には微妙な違いで分かるらしい。

「それで皆さぁが降いてこられう姿を見て、もう驚いて胆をつぶして、そして先回いしてこん宿の前で待っておいもした」

「お名前は?」

「あ、申し遅れもした。喜助と申しもんで。キリシタンとしての名前はジアンです」

「やはりキリシタンですね」

 こうして我われを訪ねて来るくらいだから信徒クリスティアーノであることはまずわかってはいたが、名前を聞くことでヴァリニャーノ師は判断材料にされたのだろう。信徒クリスティアーノなら日本人としての名前の他に霊名も言うはずだからだ。

「四年前に平戸で洗礼を受けもした。今日は、お願いがあってまいりました」

 若いジアンが願いとはなんだろうと思う。もちろん、こんな土地に教会もないし司祭もいないから、聖体拝領か告解か、願うことはそれくらいだろうなと私は思っていた。

 するとジアンはきちんと背中を伸ばして座り直し、この国での貴人の対する例のように手をついて頭を下げた。

「あたいがキリシタンじゃいこと、あたやこん町でも何らきってはおりもはん」

「他にキリシタンはいないのですか?」

「あたいとうっかたの二人だけです。身内は祖母と母がおりもす。今日お願いしたいと申しもしたのは、そん母と祖母のことでごわす」

「とにかく顔をあげてください。キリシタンが奥さんと二人だけというのなら、お母さんとおばあさんは当然異教徒なのですね」

 フロイス師が通訳するヴァリニャーノ師の言葉に、ジアンは悲しそうに眼だけでうなずいた。

「お願いとはそんことです。あたやぜひ母と祖母にも洗礼を受けっもらいたいと、ことあるごとに『天主デウス様』のことやイエズス様の教えを説いてきもした。でも、私一人では限界があいもす。ましてや母も祖母もげ間、一向宗の門徒でして、頑なに一向宗に固執して私の話などっ耳も持ちもはん。どうか、バテレン様方御滞在中にどんっさあかバテレン様かイルマン様が祖母のもとを訪れて話をして頂けもはんか」

 ジアンはほとんど涙目で訴えていた。ヴァリニャーノ師も、感動した表情だったが、すぐに申し訳なさそうな目でジアンを見た。

「あなたは我われの滞在中にと言われたが、予定ではもう明日の朝にはこの港を出ます」

「え?」

 驚いたようなジアンの表情は、すぐに落胆へと変わった。

「そんな…」

「まあ、とりあえず今夜のうちに、誰か遣わしましょう」

 そう言って室内にいた我われ一行をヴァリニャーノ師はさっと見まわし、もしかしたらという予感がピタッと当たって、

コニージョ神父パードレ・コニージョ、お願いします」

 と、やはりそうきた。

「夕食をとったら、トスカネロ兄イルマン・トスカネロと共に行ってください」

 そう言ってからヴァリニャーノ師はジアンを見た。

「お家は近いのですか?」

「はい、歩いてすぐござんで。そげん大きな町ではあいもはんから」

「では一度戻って、夕食でも召しあがって、それからまた迎えに来て下さい」

 とりあえずヴァリニャーノ師はそう言って、ジアンを帰した。

 ジアンが帰るとすぐにトスカネロ兄はヴァリニャーノ師に、

「一向宗というと、あの本願寺ホンガンジですね。悪魔崇拝の権化ではないですか。これは手ごわい。いや、手ごわいどころか無理なのではないですか?」

 と、イタリア語で言った。恐らくは、その場にいたフロイス師らに聞かれたくなかったのだろう。

 ヴァリニャーノ師は笑っていた。

「いやあ、できそうもないとか困難だとか考えたら、困難が来るよ。それ相応の結果が来る。だから困難だとか無理だとかは考えない方がいいね。我われも人間だから限界はある。でも、精一杯、『天主デウス様』へのまことを尽くせば、限界まで行った時に必ず『天主デウス様』は手を差し伸べてくださる」

「はあ」

 トスカネロ兄はヴァリニャーノ師にそう言われても、うかない顔でうなずいていた。

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