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しばらくドン・パウロが落ち着くのを待って、また話がいろいろと続いていった。その途中でヴァリニャーノ師は、
「なぜあなたは、豊後に戻ろうとはなさらないのですか?」
と、尋ねた。前にヴァリニャーノ師はそれについてフロイス師にも聞いていた。だが、本人であるドン・パウロは黙ってしまった。そして、しばらくの間をおいてから絞り出すような声で、
「私は臼杵の大殿様に顔向けができない」
と、それだけを言った。それに対しては、ヴァリニャーノ師は何も言えないでいるようだった。そのいきさつは、すでにフロイス師からも聞いている。だが意外なことに、ドン・パウロの言葉はまだ続いた。
「それに、あのバテレン様に私は嫌われている」
「え?」
という感じで、私も聞き耳を立てた。これは聞き流すことのできないことである。ヴァリニャーノ師も目を見開いて、ドン・パウロを凝視した。
「そんなバテレンがいるのですか?」
ヴァリニャーノ師の驚きはそのまま私の驚きだった。いやしくも聖職者たる司祭が信徒を嫌うなどということがあっていいものだろうか。
たしかに司祭とて弱い人間である。感情もある。しかし先ほどのドン・パウロの言葉ではないが、すべての人に福音を宣べ伝えねばならない宣教師でもある司祭が、感情を優先させていいものだろうか。
そんな司祭はいったい誰だ?……そこまで思った時、ふと思い当たる人がいた。そこでヴァリニャーノ師を見てみると、ヴァリニャーノ師もまたすぐに気づいたようだ。
フロイス師だけがばつが悪そうに顔を曇らせている。どうやらそのいきさつをフロイス師は知っていたようだ。だから、前にヴァリニャーノ師にドン・パウロが豊後に戻りたがらない理由についてフロイス師が伝えた時に、さらにフロイス師は何かを知っていそうなそぶりをしていたのもそういうことだったのだ。
その司祭とは…私が思いついた人と同じ人のことをヴァリニャーノ師は思い至ったようで、
「あなたは、どのバテレンから洗礼を受けたのですか?」
と、ヴァリニャーノ師はここだけ日本語で自らドン・パウロに聞いた。
「バテレン・モンテ様です」
意外な答えだった。あの豊後の野津の教会にいた年配の太った司祭だ。
「私はてっきりバテレン・カブラルからだと思っていました」
「カブラル様はどうしても私の洗礼をお許しにならなかった。ですからカブラル様が肥前の方に行かれていて不在の時に、私はモンテ様より洗礼を受けたのです。あとでカブラル様は大変お怒りで、それで私は嫌われてしまったのです」
思った通りだった。それなら話は分かる。ドン・パウロを嫌って、豊後に戻れなくなるような状況を作ったのがカブラル師だったということは、十分にさもありなんという話だった。
今まではもう遠い存在になったような気さえしていたその名前だったが、これから豊後に帰るとなるとまたかの司祭には対面しないといけない…そう思うとまた気が重くなるのを私も感じていたし、ヴァリニャーノ師とてそうだろう。
ヴァリニャーノ師にとってはあれほどやり合った相手なのだ。そう思うと、私も豊後でカブラル師と再会しなければならないということがだいぶ負担に感じられてきた。
ドン・パウロとの話はその後、二、三時間も続いた。ドン・パウロは淡々と、これまでの自分のたどってきた道をヴァリニャーノ師に告げた。
「実は二十歳になる私の長男は、今は行方が分からずにおります」
そのような話ばかりが続き、またドン・パウロは涙目になった。
「長男の嫁はあの長宗我部の娘ですから、長宗我部は我が長男を立てて私を無理やり隠居させ、豊後へと追放したのです。そこには、都で
明智という名は、ヴァリニャーノ師もそうだろうが、私も初めて耳にした。フロイス師もそのドン・パウロの言葉をヴァリニャーノ師に通訳する時にその明智という名を何回か聞き返して確認していたので、おそらくフロイス師も初めて耳にするのだろう。我われが安土の城に上がった時にもその明智殿という人は城中にいたのかもしれないが、なにしろ信長殿のご家来衆はおびただしい数がいるので、そのすべてを我われが見知っているわけではない。
「しかし、その私の長男さえも、長宗我部は反逆の汚名を着せて追放した。これで長宗我部と織田の亀裂が決定的になったのですが、それを何とか修復しようと明智様が御家臣の
ドン・パウロはまた嗚咽を始めた。
「万千代にはまだ乳飲み子である子が、つまり私にとっては孫がおりました。男の子です。それも今はどうなっているか…」
「あなたの奥様は臼杵の殿のドン・フランシスコの娘さんでしたね。あなたのお子さんはドン・フランシスコの孫…?」
「いいえ。もっとも豊後の大殿様は私の母方の叔父ですから、血はつながってはおりますが」
かぶりを振ってから、ドン・パウロは何か言いにくそうにうつむいてしばらく黙った後、そっと目を挙げた。
「長男は最初の妻の子です。最初の妻との間にはほかに十六になる長女もおります。すでに高嶋殿に嫁いでおります」
「その奥さまは、亡くなられたのですか?」
「いいえ。父親は伊予の
さらに言いにくそうに、
「離縁しました」
と言ってから、パッと目を挙げた。
「でも、でもそれは洗礼を受ける前の話です」
しばらく沈黙があった。ヴァリニャーノ師の顔も瞬間曇ったが、すぐに慈愛に満ちた目に戻った。
「今の妻との間には、十三歳になる次男がおります。次男は私とともに島におります。それで、もう一つ、もうひとつお願いがあります」
もう涙をぬぐおうともせず、ドン・パウロはヴァリニャーノ師の腕をとってすがるように言った。
「どうか、この次男を豊後に呼び寄せ、洗礼をお授け下さって、セミナリヨに入れて頂きたい。お願いでございます」
ドン・パウロは深々と頭を下げた。その背中はまだ震えていた。
思えばこの人の生涯は、必ずしも栄光に満ちたものではない。むしろ苦難の連続である。それなのにそれを恨むではなく、すべてに感謝をして、信仰をますます厚くして生きておられる。私は『旧約聖書』のヨブを思い出していた。これでもかというくらいの度重なる生まれてこなければよかったと思うくらいの試練を『
「あなたの生涯は、これまで多くの試練に遭ってきましたね。しかし、あなたの霊名の聖人使徒聖パウロも言っておりますが、『
ヴァリニャーノ師は優しく諭すように言って、
「息子さんのことは、まずはあなたがよく『
と結んだ。
「もはや過去の試練などどうということはありません。私にとっては今日バテレン様方がこうして来てくださってお会いできたこと、これが人生最大のお恵みといえましょう」
その目に涙は残ってはいるが、ドン・パウロの顔は明るく輝いていた。
こうしてドン・パウロは我われと別れを告げ、来た時の舟で島へと帰って行った。
それを送って行った船頭が戻ってくると、我われもまた出港であった。
「さあ、今日中には臼杵に着きまっせ」
ちょうど風もいい具合だ。帆に追い風を受けて船は、静かに港を滑り出た。
目の前に横たわっているのはもはや九州であり、豊後の国である。船は西に向かってゆっくりと進む。
どんどん陸地が近くなってくる。我われは船べりに出て、その目は西に横たわる陸地に釘づけになっていた。それもよく晴れていた。すっかり風は秋の風で、もう日差しの中にいても暑さは感じなかった。
その時、
「こら、あかんで」
と、船頭が大声を挙げた。前方にばかり気を取られていたが、後ろを見ると、我われの船を負って来る大きな船が二隻、どんどん我われの船との間合いを詰めつつあった。
「海賊や!」
またかというのが正直な思いだった。行きの時とは違って、この船に武装した兵士は乗っていない。もうヤスフェもいない。
「どうも我われは、あとちょっとで到着という時に限って海賊に襲われますな」
メシア師がそんなことを言って笑っていたが、そのうち追って来る海賊船の上から白い煙がポーンと大砲のように空に上がるのが見えた。
「あかん、あれは仲間を呼んどる合図や」
船頭は急に慌てはじめ、順風ではあるが帆をはずして、漕ぎ手がまた一斉に櫓を漕ぎ始めた。急に速度を増して船は陸地に近づき、海賊もあきらめて帰って行ったようだった。
ようやく落ち着いて目の前を見た時には、豊後の大地はすぐそばまで来ていた。
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